転生者イシュルと神の魔法具
青のあらた
プロローグ
「では、加納さん。来週からよろしく」
「はい、こちらこそよろしくお願いします」
向かいに座る人事部長に挨拶し、小さな会議室から退出。採用が決まった新しい職場の入居する、都内某所の雑居ビルを出る。
よかった!
耕一はかすかに右手を挙げ、小さなガッツポーズをとると、微笑んだ。
あたたかな安堵感が胸内に広がる。
三ヶ月前、長く務めていた広告代理店が解散—事実上の倒産—してから、会社都合の退職扱いで早々に失業手当はもらえたものの、数年前に一戸建てを買い、住宅ローンを抱え、妻、子供ふたりの四人家族を養う彼にとっては苦難の日々が続いた。
その苦難の日々もこの不景気なご時世、四〇直前という年齢のわりには比較的早くに転職先が決まり、思たより短く済んだのかもしれない。
妻はもちろん、中学二年生になる上の子も不安だったろう。家族にも大きな負担をかけてしまったが、それも終わりだ。
耕一は業界では「ページもの」と言われる、パンフレットやカタログなどのディレクションを長年、専門にやってきた。なかでも企業の会社案内や採用案内、会計報告書など、発行する企業によってはその業界の専門的な知識も要求される、お堅い内容のものが多かった。
再就職の決まった企業も三〇名ほどの編集者を抱える、編集プロダクションとしてはなかなか大きなところだった。彼の得意な分野も力を入れてやっている会社だった。
雑居ビルが立ち並ぶオフィス街の端、夕方になり人の往来も増えてきた裏道をいつもより幾分大きな歩幅で歩きながら、ふと立ち止まって後ろを振り返り、少し離れた採用の決まった会社の入居するビルに目をやる。周囲のビルの中でもかなり大きなビルだ。
それなりの実績があったから雇ってもらえたんだろうな。給料は前より幾分下がってしまったが。
それでも思ったより早めに決まって、本当によかった。知人や友人と呼べる身のまわりの者にも、これはと思えるようないい転職先は紹介してもらえなかったし、フリーでやっていくのは先々のことを考えるとやはり心細い。
やがて目前に大きな表通りが見えてきた。多くの車と人が行き来する、夕方の雑多な表通りに出ると左に曲がる。地下鉄の入口が見えてきた。地下へと続く階段を降りていく、人の列に吸い込まれるようにして耕一も降りていく。
数日前、採用の知らせを話した時の妻の顔が浮かぶ。つい彼の口元もゆるむ。
上の子は来年は中学三年生、受験生だ。下の子は小学四年生になる。家計もより厳しくなるが、妻もフルタイムでパートを始めた。贅沢さえしなければこの先もなんとかなるだろう。再就職先でも仕事が始まれば、前の勤め先と同じように深夜帰宅が毎日のように続くことになるだろうが、この業界では当たり前のことだ。しょうがない。仕事が収入があるだけまし、だ。
改札を抜け、ホームへと降りるかなり長いエスカレータに乗る。
またぼんやりと物思いにふけようとした、そのエスカレータの中ほどに耕一が達した時に突然、それは起きた。
背後の、エスカレータの上の方で鋭く叫び合う声が響きわたった。人がもみ合い、激しく動くような気配がする。揉め事でも起きているのか?
いやな予感に後ろを振り向こうとした瞬間、何か重たいものがのしかかってきた。耕一の前に人はいない。何もできずに前のめりになり、空中に放り出されるようにして落ちていく。目に映る光が尾をひいた。けたたましい女性の黄色い悲鳴。
視界いっぱいに広がるエスカレータの踏み台の、金属の縦のストライプ。
それが彼の最後に見たものになった。
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