タルトは退屈している

子春ユウ

タルトは退屈している

 静寂の中。事務所の何処かで、猫が鳴いている。


 九月中旬、朝。俺の一日は、今日も六時五十分から始まる。

 耳元で少し高めの機械音が一定のリズムを刻んでいる。その騒音に耐え切れず、俺は思わず右手を音の発生源と思われる場所に向かって振り下ろした。

「んっ」

 朝の一打目は空振、続けて二打目の構えを取る。

 二打目は一打目よりも正確に、優しく、ゆっくりと振り下ろした。

 ……ヒット。俺の耳を刺激し続けた機械音は止まり、部屋に再び静寂が訪れた。その空気に身を任せ、俺は二度目の睡眠へと入った。

 しかし、その誘いは約十分弱で打ち切られる事となる。

「紘さーん! もう7時ですよー! 依頼人さん来ちゃいますよー! コーヒー出来ちゃいますよー!」

 いわゆる女子高生のような可愛らしいトーンからは想像が出来ない大きな声、それはまた俺の耳を刺激する、聞くのももう何回目だろうか。


「んっんん!」

 喉に詰まった痰を言葉にならない声と共に吐き出す。

「……今行く」

 俺は先程言われた事を思い出そうとする作業にかかった。

 その言葉から読み取れる要点は二つ。一つ目は、俺は寝坊をしてしまっているという事。そして二つ目は、朝の楽しみ、美希の淹れたてのコーヒーを飲み損ねようとしている事。

 簡単な朝支度を終え、いつものスーツに着替えながら、俺は二つの要点の解決作業に入る。

 一つ目の要点はすでに解決した。後は、俺が台所を挟んで隣にある仕事部屋へ趣き、ダークオークを基調とした高級感だけを醸しだした仕事机へと辿り着けばいい。

 そして、一つ目の要点の解決により、自然に二つ目の要点も解決される事になる。


「おはようございます、紘さん」

「ああ、おはよう」

 美希は席に着いた俺に軽く挨拶を述べ、デスクの左奥に湯気が立つコーヒーカップを置き、また台所へと歩き始めた。

しかし彼女は。

「机、また散らかってますね。依頼人さんが来ている間に、私が片付けて置きましょうか?」

 仕事部屋の扉のドアノブに手を置いた段階でこちらを振り向きこちらに向かって、とても探偵の助手とは思えない、人妻染みた一言を口にした。

 助手とその主という関係を保っていた俺は、少しの時間フリーズして答えを考えた。

 美希。去年から俺の探偵事務所で働いている、仕事に関しては優秀な助手だ。ただ時折、主である俺との距離感を間違えてしまうのが一難。

 しかし、普段の日常生活は、美希の助けがあって成り立っている、と言っても過言ではない。毎朝の至高の時間である淹れたてのコーヒーも、その例の内だ。それ故、俺は彼女を心から迎え入れているつもりだ。

 正直、細かく手を動かす動作を好めない俺は美希に任せようとした。しかし、それでは美希への負担がわかったものだ。

 それを考え、俺は答えた。

「大丈夫だ。自分でやっておくよ」

 それを聞いた美希は、少しの驚きを見せていた。しかし、その表情の裏には悲しみがあったのかもしれない。

「そうですか……。じゃ、じゃあ依頼人さんを玄関でお出迎えしてきますね!」

 自分の発した一言に隠れた表情を隠すように、元気で健気な声を満面の笑みと共に俺に披露してくれた。

 しかし、動揺しているのは明らかである。今日最初の依頼人が来るまで、まだ1時間弱ある。

「まだ、一時間もあるじゃないか」

「あ、ああ! そうでした!」

 全く、お茶目だ。

 しかし、そのお茶目さに助けられている自分がいるのも、また事実。

「じゃあ、戻りますね」

 そう言って台所に戻っていく美希を見届け、俺は再び仕事机を見下す。

 右半分に六冊の推理小説と散らばった十本程のカラーペン、反対には片付けをせず溜まりに溜まった事件資料達と白いキューブが沢山入った瓶が一つ。そしてその上に、白と黒で美しく反射光を受けているコーヒーが置かれている。

「ふぅー……やるか」

 せめてもの激励の言葉を自分に向けて掛け、上に六冊積み上がった推理小説達を持ち、壁際に置かれた本棚に向かって歩き始める。


 着いた本棚の前で、俺は何冊あるかわからない本達を見上げて言った。

「そろそろ漫画にも手を出してみるか」

 我が事務所の本棚には難しい本がずらりと並んでいる。その意図は、単純に活字に触れたかったから。決して、依頼人が見るから、などと言う難しいものではない。

 さらに言うのならば、依頼人には子連れも少なくはない。それ故、子供達にとってはとても退屈な空間と言えるだろう。例えば一冊、推理小説を取ってみても、全く読めはしない。

 あー、やっと終わった。そんな顔を今までに何回されただろうか。

 それを解決すべくの漫画だ。漫画、子供の暇を潰すにはこれ以上ない優れものだろう。まあ、俺にはその気持ちを理解する事は出来ないが。


「ニャー」

「ん?」

 本を本棚に置いている俺の足元で、猫の鳴き声がした。

「ニャー」

 続けて二回目。

 見ると、そこには事務所の飼い猫であるタルトが、意味有り気にこっちを見ていた。

その眼は、鮮やかなライトグリーン。薄茶色の毛で覆われた顔の真ん中で瞳孔を細めたそれからは、種族は違えども伝わる、わかりやすい退屈が感じられた。

「どうしたタルト。ご飯は台所だぞ」

 咄嗟に俺は、適当に頭に思い浮かんだ言葉を口にする。

「……」

 するとその言葉が伝わったのか、タルトは半開きの部屋の扉に向かってゆっくりと無言で歩いて行った。

「はい、行ってらっしゃーい」

 普通、幼児世代に掛けるそれを猫に掛け、俺は仕事机へと戻る。

「後は……」

 後を意味深に思わせる一言とは裏腹に、多少の面倒臭さを感じた俺は、デスクの側面左右にそれぞれ二つ取り付けられている引き出しを開け。ガタガタ、とその部屋の静寂を断ち切る騒音と共に、机に残っていた物を全て落とし入れた。

「よし、完了」

 そう言って俺は、まだ少しの湯気を立たせたコーヒーカップに指を掛け、朝の一口目を頂く。

「……ん?」

 苦い。

 我が事務所のコーヒーは、依頼人の中では美味しいと評判だ。

 上手く淹れられたそのコーヒーは、王道ブラック。一口飲むと、かなりの苦味と独特な後味を味わう事が出来る。あくまでも主観だが。

 美味しいと評判なのだから、この種のコーヒーを好む者もこの世の中にはいるのだろう。

 しかし、俺の好みは砂糖5個の甘めのブラック。美希もそれを把握しているはず、それなのにそれを忘れているとは……。

 しょうがない、と思い重い腰を上げて、扉へと向かう。

「美希、台所に砂糖はあるかな?」

 部屋の扉を開けながら言う。

 ……しかし、それに返答したのは美希ではなく。

「ニャー」

 何やら満足そうな顔でこちらを見つめるタルトであった。

「あ、紘さん。どうかしましたか?」

 それに少し遅れて、美希が俺の問い掛けに反応する。しかし、それは問いに対する答えとしては不十分だ。

 仕方なく、俺はもう一度問い掛ける事にした。

「砂糖、あるかな?」

 今度は少し呆れた口調で。

「あ、入れ忘れちゃいました? ちょっと待ってください!」

「……わかった」

 その一言を残して、俺は再び仕事机に戻る事にした。

 席に着くと俺は、今日の依頼の内容が書かれた資料にザッと目を通す。

 依頼人は、どこにでも居るサラリーマン。内容は、生涯を共にするパートナー、つまり妻の不倫調査。何やら最近妻の帰りが遅いらしい、専業主婦であるのにそれは確かに疑わしい。

「……」

 資料に一通り目を通すと、ふと俺は自分の将来について考え始めた。

 今年で二十六歳。大学院を出て、すぐ探偵事務所を開いたものだから、探偵においても、人生においても、まだまだ未熟な身だ。

 しかし、我ながら二年目にしては上手くやれていると思う。解決事件数は、同世代の中では恐らく最も多い。早々に助手を貰い、仕事も捗っている。

 ……俺にもいつか、人生のパートナーが出来るのだろうか。

 最近よく考える。俺のような仕事馬鹿を好んで付いて来てくれる人は居るのか、と。

 例えば、美希の様な。

「……」

「ニャー」

 その空気を断ち切る様に、タルトが鳴き声と共に俺の仕事机の上を横断して行った。


 しばらく経って、部屋の扉が開いた。

「紘さん。砂糖知りませんか?」

 おかしな質問だった。

 先程、俺は美希に同じ事を聞いた。それをそのまま返されるとは。

「台所は探したのか?」

 本来の感情を隠し、優しい言葉を掛ける。

「はい、台所にはなかったです」

「そうか」

 朝一に砂糖で甘めた熱々のコーヒーを飲めないのは、とても惜しい事だ。

 しかし、俺にもやるべき事がある。

「……依頼書に目を通しといてくれ。砂糖は、後で自分で探すよ」

 仕事を優先し、美希にはその様に促す。

「分かりました」

 

「不倫調査ですか……。いざと言う時の為に警察にも協力をお願いしますか?」

 美希が言う、いざと言う時と言うのは、恐らく不倫相手が襲いかかって来た時の事。

 それは、俺も美希も共通認識を持っている。

 丁度半年前か、今回と同じ様に不倫調査を依頼された時の事。

 いつも通り難なく調査を進めて行き、しっかり不倫現場まで発見し、そこを取りおさえる予定だった。けれど、そう上手くは行かなかった。

 ……迂闊だった、とその事を思い出すといつも思う。

 俺達は、依頼主を連れ不倫現場に三人で突入した。その当時の依頼主の妻とその相手はとても驚いていた、当然だ。その様な所を見られたら堪ったものじゃない。

 けれども、その後……。

「ニャー」

 そこには、タルトが依頼書の上で鳴いている姿があった。

「ああ! その上はダメだよ、タルト!」

 美希にそう言われ伝わったのか、タルトは机を飛び降り、そこから遠ざかって行った。

「……」

 何の話をしていたか忘れてしまった。

「紘さん?」

「ん、どうした」

「結局、警察どうします? 呼ぶなら早めに電話しておきますよ」

 思い出した。

 ……何であれ、協力を求める事に越した事はない。

「そうだな。前の様な事があっては困る」

「分かりました」

 そう言って、美希はスマホを持って部屋の外へと出て行った。

「ふぅー……」

 タルトが窓の外を見ている。

「ニャー」

 これから何かがあるとでも言うのか。

 俺は、無意識にタルトへ歩み寄り隣に立つ。

 ……タルトの隣は、何故だろうかとても落ち着く。もう少しで出会って二年か。

 タルトは以前まで野良猫だった。俺が探偵業を初めて少し経った頃、事務所の前で鳴いていた所を拾ったのが出会いだ。

 ポツン、ポツン。

「雨か。……お前と出会った日も、雨だったな」

「ニャー」

 少し、笑っている気がした。

 

「紘さん、警察に電話しておきました」

「ありがとう」

 七時五十分、外は雨。

「美希」

「はい、どうしました?」

「部屋の掃除でもするか」

 依頼人が来るまで、後十分程度。それまでの暇を持て余す為の行いとして、俺は掃除を選んだ。

 掃除は良い。していると心がスッキリする気がするからだ。依頼のある日は大抵、掃除をしてから依頼人を迎える。

「そうですね」

 そう言って俺と美希は、掃除を始めた。

 卓上を拭き、本棚に積もった埃を落とし、終いについ先月新調した掃除機で床の汚れを吸い取る。

 その過程で、俺は美希に話を持ち掛けてみた。つい二十分前位に考えていた事についてだ。

「美希は……彼氏はいるのか?」

 馬鹿な事を聞いてしまった、美希の返答を待つ事もせずそう思った。遠回しに、告白しているように思われてしまうかもしれないではないか。

「え、いきなりどうしたんですか?」

「……悪い」

 美希が掃除機を両手に持ってこっちを呆然と見ているのを見て、つい反射的に言葉が出てしまう。

 しかし、美希の持つ感情は俺の想像した物とは違うものだと、すぐに知った。

「……居ませんよ。前付き合ってた彼氏に振られてから」

「……」

 とうとう俺は自分の行いを恥じた。馬鹿な事を聞いて、そして美希を辱しめてしまった。男として、あってはならない事だ。

「紘さんなら、私と付き合ってくれます?」

 ……突然の出来事だった。

 美希は、微笑していた。しかし、その言葉には純粋さがあったのかもしれない。

 これを純粋な告白と捉える事は不可能に限りなく近かった……。俺は、そうせざるを得なかったんだ。

「あ、ああ。そうかもな」

「ふふふ」

 その一瞬、互いに後悔しただろう。両者、一度きりかもしれないチャンスを失ったからだ。 

 その後、掃除が終わるまで二人は一言も発する事が出来なかった。

 空気の上に金床を置いているかの様に重々しい雰囲気の中で、口を開く事すら出来なかったのだ。


 その空気を一転させたのは、例によってアイツだった。

「ニャー」

 タルトが俺の仕事机の上で鳴いた後、二人の方へ歩み寄って来た。

「ニャー」

「タルト……」「タルト……」

「あ!」「あ!」

 救世主タルトの鳴き声に反応して思わず出した声が、俺らの間にあった何かを振り払ってくれた。

「ハモっちゃいましたね」

「初めてだな」

 一年間一緒に居て、初めて距離を目に見える大きさで距離を縮める事が出来た気がする。

 俺はその少し昂ぶった気持ちに身を任せ、もう一度先程の話題を持ち出した。

「元彼の話。詳しく聞かせてくれないか」

 美希の元彼の話。それを俺は知っておかなければならない、そう直感的に思った。

「……良いですよ」

 美希は少し躊躇っていた気がした。しかし、承諾してくれた事に間違いはない。

 俺は、そのまま話を進める。

「元彼は、どんな奴だったんだ?」

「……大学のサークルの先輩で、良い人でした」

 でした、その一言にだけ俺の意識が行った。

「でした?」

「はい、出会って付き合うまでは早くて。まだあまりお互い知れてなかったのがダメだったかもしれないです」

 俺は特に邪魔を入れず、そのまま話を聞き続ける事にした。

「付き合った当時は、本当にただに優しい先輩で。すごいお世話になった思います。ただ、女付き合いが下手な人で。それで……色々あって」

「そうだったのか」

 俺には女付き合いの経験があまりない、それ故、美希にそれ以上の言葉を掛ける事は出来なかった。

 俺はその事から思考を離す為、ふと時間を気にした。

 ……八時十分。依頼人が来る予定時間からすでに十分過ぎている。

 相手にも相手の事情というものがある。増しては、こちらは依頼して頂いている立場だ。そんな文句は言えた物じゃない。

 しかし、一人間としては微量の苛立ちも感じる。

「……依頼人、来ないな」

「そうですね。……でも、よくある事じゃないですか」

「ニャー」

 俺の言葉に対し、美希がフォロー、タルトがそれに便乗した。

 外は、すっかり晴れ渡っている。

「……今度、何か買ってやろうか?」

 何を思ったのか、俺は美希に欲しい物を聞き出そうとし始めた。しかし、今のこの状況に繰り出す言葉としては、悪くない。

「え、買ってくれるんですか!?」

「あ、ああ。今回だけだぞ」

 この世に生まれて早二十六年、人に物を買ってあげる、という行為をしたのはこれで二回目だ。一回目は、妹に人形を買ってやった。

「じゃあ……何も買ってくれなくて良いです!」

「……え?」

 何故だろう、何処か虚しい。

 俺の努力は、その一言で儚く散ったのだから。

「その代わり、私……」

 ピンポーン。事務所のインターホンが鳴った。

「来たか」

「あ……ですね。私、飲み物の用意してきますね!」

「分かった」

 そう言って俺は、台所へ繋がる扉とは反対側の金属とモザイクの入ったガラスで出来た扉を出る。そして、ネクタイと襟を正しながら玄関へと向かう。

 玄関の下駄箱の上には、すでにタルトが腰を下ろして待っていた。客人が来ると、必ずそこに居る。それ故、タルトは我が事務所のマスコット的存在だ。

「ふぅ」

 軽く息を整え、俺はシンプルな装飾が施された玄関の扉を開けた。


「あ、瑠璃木さんで宜しかったでしょうか?」

「あ、はい」

 そこに居たのは、依頼人ではなく、薄灰色の作業着を着た宅配業者だった。

「では、ここに署名と印鑑をお願いします」

「分かりました」

 俺は下駄箱の上に置かれたボールペンと印鑑を使い一通りの作業をし、何かが入ったダンボールを受け取った。

「では、これで」

「ご苦労様です」

 宅配業者を見送ると、再び仕事部屋に戻る。

「こんに……。あれ? 依頼人さんじゃなかったんですか?」

「ああ。所で、これは何だ?」

 ニコちゃんマークの口を矢印にしたようなマークがついたダンボール、その中身は何やら粒状の物のようだ。

「あ! 多分、コーヒー豆です! なくなっちゃったので、注文したんです!」

 これがあのコーヒーの原型か。美希の腕と砂糖とこれが合わさる事で、あの至高の一品が出来上がるのだ。

 ……。

「そう言えば、砂糖は結局どこに行ったんだろうな」

 思い出して、その話題に切り替える。

 結局、見つからなかったな、なんて事を考えながら俺は仕事机の席に腰を下ろした。

「んー、台所にはなかったので、あるとしたらこの部屋なんですけどねー」

 ……俺は、その一言に引っ掛かった。

 この部屋で行動するのは基本、俺のみ。美希は、確かに出入りはするがこの部屋の物を使う事は滅多にない。つまり、俺が見逃している可能性が出て来た、と言う事だ。

 しかし、それがわかった所で砂糖が出てくる訳ではない。諦めて俺は、依頼書を再び見て最終確認を行う。



「では、今日はこれで」

「はい、ありがとうございました」

 そう言って、俺は依頼人を見送り、仕事部屋に戻った。

「明日には、不倫現場に突入出来そうですね」

「ああ。……美希、今回は俺一人で行って来ても良いか?」

「ええ、そんなの心配です! 私も行きます! 私ならもう、大丈夫ですから!」

 大丈夫ですから、そう美希は言った。しかし、前の様な事がもう一度起こったら、次は美希を失ってしまうかもしれない。

 そんな事、出来ない。

「前だって。危なかったじゃないか、後少し救急車が遅れていたら……」

「大丈夫です! 今回は警察だっていますし」

「だめだ!」

 激情に任せた俺の発言を前に、美希は少し涙目になってしまっていた。

「あ。……悪い。でも……」

「でも、何ですか!」

 俺は考えた。

 半年前、美希が不倫相手に包丁で刺されてから、その様な事に人一倍敏感になっていた。

そんな事がまた起きたら、ダメなんだ。

 だって……。

「美希を……失いたくないんだ」

「!!」

 俺は怖かった。

 もし、美希が居なくなってしまったら、俺はやっていけるのか、と考えてしまう。

 怖いんだ……、だから!!

「ニャー」

「!」「!」

 タルトが、俺の仕事机の引き出しを開けようとしていた。

「……何してるんだ、タルト。そこには、何もないぞ」

 そう言って俺はタルトを抱き上げ、床に下ろす。

 その後、また美希に訴えかけようとした。

「美希、だか……。あ!」

「? どうしたんですか?」

 タルトが少し開けた引き出し、その中から一つの瓶が姿を見せていた。

 まさか、と思いそれを取り出す。

 しかし、それは探していたそれだった。

「あった、砂糖」

 十六時ちょっと過ぎ、九時間かけてやっと見つける事にが出来た。

「え、本当ですか!? 良かったぁ、もう少し遅れてたら買っちゃう所でしたよ」

「……悪い」

 原因は、俺の適当な片付けにあった。

 その紛れもない事実と向き合い、謝罪の言葉を口にする。

「今度からは、しっかり丁寧に片付け、して下さいね!」

「……」

 何も言い返せない。

 どうしようもなく、俺は再び明日の件の話に戻した。

「それで、明日は……」

 しかし、その必要もなかった様だ。

「私、明日は事務所で待ってます」

「え……」

 その瞬間、様々な感情に狩られそうになった。

 しかし、その中でしっかりと安堵の胸を撫で下ろした。

「紘さんが、そこまで心配してくれるなら。私、待ってます」

「そうか……ありがとう」

 俺は、涙を流していた。

 訳も分からず流した一粒の涙は、何の意味も果たさず、ただ流れ落ちていた。

「ふふ、何泣いてるんですか。らしくないですよ! 紘さん」

「俺の……意思じゃない」

 そんな屁理屈を言って、ふと窓側でこちらを見ているタルトに歩み寄る。

「ニャー」

「今日も、一日お疲れ様」

 また、笑っていた……気がした。

「……さあ、晩御飯の準備をするか」

「あ、分かりましたー」

「いや」

 今日は。

「俺が作るよ」

 とっておきの。

「晩御飯」

「え! 本当ですか!? 楽しみだなー、料理してる紘さん! 写真撮ってネットに上げてもいいですか?」

「そっちか。忘れたのか、今日は……お前の誕生日だろう」

「あ! そう言えばそうだった!」

 ……自分の誕生日を忘れるなんて、美希はなんて……。

 

お茶目なんだ。


 



 

 


 


 


 

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