夕焼けの町

いとうみこと

夕焼けの町

「うっわ!ノート忘れた!」


 最後の悪あがきにもう一度カバンを逆さにして振ってみたが、もはや落ちてくるのはほこりばかり。何度探しても社会のノートは見つからない。


「マジで?せっかくあんなに書き込んだのに、今ここに無かったら意味ないじゃん!」


 もうすぐ夏休み。先週の三者面談で、中3の私は担任からこう宣告された。


「富田、内申の合計が3も下がったんじゃ、志望校のランクをひとつ下げないとならないぞ。」


「ええ〜!」


 母親と私は同時に声を上げた。今回は自分なりに頑張ったつもりだったし、親にもそう伝えていた。体育と音楽が下がったのは筆記試験が微妙だったからで、ある程度覚悟はしていたが、社会は平均点をキープしたのに3から2に下がるなんて納得がいかなかった。


「村上先生に聞いたら、毎週やってる小テストが取れてないからだって言ってたぞ。範囲が狭くてテーマを絞ったテストなのに、満点取れないのは怠慢以外の何物でもないそうだ。至極もっともだな。」


 何が至極もっともよ、意味分かんないし。大体私は社会なんか嫌いなのよ。親に叱られる私の身にもなってよ。


 私は、表面上はしおらしくして見せていたが、心の中では悪態をつきまくっていた。案の定、家に帰ってから母親にネチネチと小言を言われ、父親からは小テストで満点を取れなかった週はスマホ使用禁止のお達しが出た。それもこれも全部村上のせいだ。


 とは言え、受験生にとって内申が重要なことは私も理解している。腹立たしいけれど、今は耐えるしかないと腹をくくった直後にこの有り様だ。明日のテスト範囲は、特に苦手な歴史の中でもいちばん嫌いな近代史、確か戦争のあたりだったはず。ノートからの出題がほとんどだっていうのに、よもや忘れてくるとは。


 時計は既に6時を回っている。友だちにコピーさせてもらうか、スマホで撮って送ってもらうか……でも、役に立ちそうなノートの持ち主は今頃みんな塾に行っている。気合いを入れてとった自分のノートがいちばん確実だ。


「仕方ない、取りに行くか。」


 どうせならもっと早く気づけば良かった。私は、ゴロゴロ転がって漫画を読みふけっていた自分を呪いながら、急いで制服に着替え、サブバッグに鍵とスマホだけを放り込んで外へ出た。


 狭い路地を抜けると、途端にアスファルトで焼かれた空気が全身を包み込んだ。始めこそ冷えた体に心地良く感じたものの、すぐさま大量の汗が吹き出す。その不快感たるや、なまじクーラーの効いた部屋にいたせいで学校帰りのそれとは比較にならない。


 全くもって今日はついてない。どんどんだるさが増してくる脚を持て余しながら、私は誰とも目を合わせないようにうつむいたまま黙々と通学路を歩き続けた。高台にある学校への最後の坂道が更に私を苦しめた。


 大体、歴史の勉強なんかして何の役に立つっていうのよ。戦争がいけないってことくらい、今更教わらなくても十分わかってるし。


 愚痴と悪態をエネルギーにしてやっと学校に着いた頃には、真っ赤な夕焼けをバックに校舎が闇に沈みかけていた。運良く職員室には村上先生を始め数人の先生が残っていたので、事情を話して急いで3階の教室へ向かう。校舎の北側の階段や廊下は既に薄暗く、人気がなくて物音ひとつしないものだから、毎日過ごす場所なのにかなり気味が悪い。


 わざと大きな音を立てて教室の扉を開けると、むんとした空気が私を押し返した。西日に照らされた教室は三角に分断され、黒板側は闇色に、教室後ろの掲示板は真っ赤に染まっている。落ち着かない心をなだめながら、窓際の自分の机に小走りに駆け寄って机の中を覗いたら、社会の資料集の下に目当てのノートが隠れていた。


「あった〜!」


 急に立ち上がったせいか、ふらっとよろけた私の目に、窓の外の町並みが映った。この田舎町には、ずっと先の山の稜線まで遮るものがない。まだ青さの残る空にはオレンジ色の綿雲が浮かび、その間に幾筋もの飛行機雲が伸びている。赤く染まった町はまるで燃えているようだ。


 普段見ることのない景色に暫く見とれていると、どこからかサイレンが聞こえてきた。パトカーとは違う、甲子園の試合開始みたいな音だ。それが徐々に増えて、頭の中でわんわん鳴り出す。


 ああ、うるさい……頭がガンガンする……


 耳を塞いだその時、何かが思い切りぶつかってきて私は派手に転んだ。


「いった〜い!」


 ぶつかってきたのは人のようだ。何も言わず走り去ってゆく。転んだはずみに左腕を酷く擦った。ひりひりと不愉快な痛みが次第に強くなる。


「おねえちゃん、大丈夫?」


 おねえちゃん?


 顔を上げると、小さな女の子と目が合った。幼稚園くらいだろうか、真っ直ぐに揃えた前髪を傾けて、心配そうな顔をしている。


「あ、ありがとう、大丈夫だよ。」


 そうは言ってみたものの、腕は痛いし、頭の芯がジンジンする。いくつものサイレンが鳴り響き、それに加えて地鳴りみたいな低い音が波のように空から降ってきて、ちっとも大丈夫じゃない。


 これは耳鳴り?それとも現実の音なの?


 って、ここはどこ!教室じゃない!


 いつの間にこんなところに来たのか、辺りには木造のレトロな町並みが広がり、その中を1本の道路が走っている。その道を土埃を巻き上げて大勢の人が駆け抜けていく。子どもの手を引いた母親や、年寄りを背負った学生服の少年も、皆必死の形相だ。


 どういうこと?


 私は混乱した頭で少女に視線を向けた。ショートボブ、と言うよりおばあちゃんのアルバムで見たおかっぱ頭と言う方がしっくりくる髪型、白地に細かい花柄の半袖シャツ、下には裾を絞った紺色の、確かもんぺとかいうズボンを穿いている。左胸には「西野かなえ」と書かれた名札が縫い付けてあった。


「かなえちゃん?」


「そうだよ。西野かなえ。お姉ちゃんは?」


「あやこ。富田彩子って言うよ。」


「あやこお姉ちゃん。」


「かなえちゃんはここで何してるの?」


「お母ちゃんを待ってるの。」


「ふうん。それで、どうしてみんなこんなに慌ててるの?」


 その時だった。突然頭上にバラバラという雷のような音が轟いたかと思うと、少し先の道路で何かが弾け飛んだ。すると、そこにいた人たちがばたばたと倒れ、周りから悲鳴が上がった。ある者は荷車を捨て、ある者は子どもを抱き上げて、散り散りに道路から消えた。


 どういうこと?


 私は空を見上げた。随分と高いところに飛行機が、いつか見た自衛隊の訓練飛行のように並んで飛んでいる。


 きじゅうそうしゃ


 ふと、私の頭に社会のノートの1行が浮かんだ。漢字は忘れたけど、機関銃で乗り物や人を撃ちまくることだったはず。その説明を聞いた時、私は兄がやっていた戦闘機のゲームを思い出した。あんなにバリバリ撃ったら気持ちいいだろうなと思っていた。


 冗談じゃない!あれに当たったら死ぬんだ!


 突然、並んでいた飛行機のうちの1機が急降下してこちらに向かって来た。


 私の全身に戦慄が走った。ここにいちゃだめだ!咄嗟に私は逃げようとした。ところが、膝が震えて立ち上がれない。どうあがいても腰から下が動かない。そうしている間にも飛行機はぐんぐん近づいてくる。かなえはそんな私の制服にしがみついて怯えていた。


 助けて!殺される!


 私は、かなえを抱いてその場に伏せた。飛行機は、エンジン音を轟かせ、逃げ惑う人々をからかうように低く飛んで、少し先でまたしてもバリバリと銃を放った。


 心臓が跳ねるように脈打って吐きそうになり、涙がぶわっと溢れ出した。


「何なのよ、いったいどうなってるの?なんで私がこんな目に遭わなきゃならないのよ!夢ならすぐに覚めて!」


 ふと引っ張られる感じがして振り向くと、かなえが私の制服の裾を握りしめたまましゃくり上げている。


 だめだ、泣いてる場合じゃない。どこか安全な場所に隠れなきゃ。


「かなえちゃん、逃げよう!」


「ぼうくうごう。」


 涙を拭いながらかなえが言った。ぼうくうごう……確か防空壕は避難場所だったはず。そこへ行けば助かるかもしれない。


「かなえちゃん、場所わかる?」


 かなえはこくんと頷くと立ち上がった。私は両手で涙を拭うと、その手でバンバン膝を叩いた。動け、動け、動け!それからせーので立ち上がった。まだ震えは治まらないけれど、大丈夫、これならなんとかなる。私はかなえと手を繋ぎ、指差す方へと走り出した。


 建物の合間から小高い丘が見える。同じようにそちらへ向かう人たちがいて、私たちもその流れに加わった。すぐそばのように思えるのに、なかなかたどり着けない。時折、さっきの飛行機が低空飛行をして、その度に私とかなえは物陰に隠れた。そのうち、私たちは人の流れに取り残されてしまったようだった。


 やっと住宅地を抜けて、坂を上り始めたとき、なんだか通ったことがある気がしてふと町の方に目をやると、見慣れた山並みを越えて黒い影が無数に押し寄せて来るのが見えた。


 ここって……まさか……


 黒い影は大きな飛行機だ。山を越えるなり、機体からバラバラと何かを落とし始めた。それは見る間にばらけて数を増やし、四方八方へと飛び散ったかと思うと、その先で次々と燃え上がった。


 その光景に、社会科の授業で見た資料映像が重なった。B29とかいうアメリカの爆撃機が町を焼き払っていたあれと同じ、そう、これは空襲だ!


「おねえちゃん!」


 かなえの声に我に返ると、かなえが前方の崖を指差していた。


「あれが防空壕?」


 かなえは大きく頷くと駆け出した。これで助かる、そう思った矢先、またしてもあの戦闘機がこちらへ向かって来るのが見えた。


 防空壕まではまだ距離がある。今までのように建物の陰に隠れることもできない。


「かなえちゃん、待って!」


 私はかなえの手を引くと、脇道にある小さなお地蔵さんのお堂の中に身を潜めた。子どもの頃、かくれんぼでここに隠れた覚えがある。その時は罰当たりと叱られたけど、今なら許してくれるに違いない。飛行機がすぐ上をかすめるのがわかった。そしてまたあの機関銃の音が鳴り響いて、私は耳を塞いだ。防空壕の近くにいた人たちが撃たれたのかもしれないと思うと、もうそこへ向かう気になれなかった。


「かなえちゃん、ちょっと狭いけどここに隠れていようか?」


 かなえはこくんと頷くと、私の腕にしがみついて目を閉じた。こんな小さな子がどれ程怖かっただろうと思うと胸を締め付けられる思いがした。私だって、かなえがいなかったらここまで正気を保てたか自信がない。私は、空いた手でかなえの頭をそっと撫でた。


 村上先生の話だと、この町が空爆されたのは戦争末期だったはず。


「かなえちゃん、もうすぐ戦争が終わるから、それまでの我慢だよ。」


「本当?いつ終わるの?」


「えっと、確か8月の……」


「8月の?」


「えっと……」


 だめだ、思い出せない。日付に赤いマーカーで線を引いたことは覚えてるのに、肝心なことは思い出せない。


 かなえは暫く私の答えを待っていたが、再び私に寄り掛かって目を閉じた。




 どれくらい経っただろうか。いつしか飛行機の音は遠ざかり、サイレンの音も全く聞こえなくなっていた。かなえはしゃがんだままうとうとしていたので、私はそっと腕を解き、外の様子を窺った。


 傾いた太陽が雲を染め始めた空は、すっかり静けさを取り戻し、まるで何事もなかったかのように見える。


 助かったんだ。


 私はお堂の外へ出て、思い切り体を伸ばし深呼吸をした。すると、何か焦げているような匂いがした。


 私の脳裏に、町に降り注がれた爆弾が甦った。


 確か、しょういだん、だよね。広い範囲を焼き尽くすって先生が言ってた気がする。アメリカの軍人が「日本の家は木と紙でできているからよく燃える」って言ったって……


 私は、意を決して町が一望できる場所まで移動した。目を逸らしてはいけない気がしたからだ。しかし、その光景は、私の予想を遥かに超えていて、私は胸が潰れそうになった。


 見渡す限りの火の海。


 これはさっき見た夕焼けじゃない。ほんとに燃えてるんだ。ほんの数時間前まで、家があってお店があって、たくさんの人が暮らしていたなんて信じられない。


「お姉ちゃん?」


 不安そうな顔のかなえが私の手を握った。私はしゃがんでかなえを引き寄せた。


「かなえのおうち燃えてるの?」


「そうかもしれないね。でも、もうすぐ戦争は終わるよ。8月15日に日本は負けるの。でも、その後みんな頑張って、日本は平和な国になるんだよ。だから大丈夫。もう少しの辛抱だよ。」


「かなえ〜、かなえ〜!」


「お母ちゃん!」


 坂道を駆け登って来る女の人がかなえの名を呼んでいる。かなえは一目散に駆け出した。


 良かった……




「富田!富田!お前どうしたんだ?大丈夫か?」


「先生……」


「お前がなかなか降りてこないから見に来たら、なんだ、気分でも悪くなったのか?」


 私は再び教室に戻っていた。日は沈み、町が闇に沈みかけている。


「ええ、いえ、あの……」


「家に連絡するか?」


「いえ……大丈夫です。歩いて帰れます。」


 私たちは教室を出て階段を降りた。


「本当に大丈夫か?」


「あ、はい、大丈夫です。ありがとうございました。さようなら。」


 心配そうな先生を昇降口に残して正門を出た。さっき私が体験したことを伝えても、きっと信じてもらえないだろう。自分でさえ、何が起こったのか正確にはわかっていない。


 分かれ道を右に行くとコンクリートで覆われた崖がある。かつてあそこに防空壕があったのだろうか。左に少し降りたところには、建物は新しくなっているけれど身を隠したお堂が今も残っている。その場から手を合わせてお地蔵さんにお礼を言った。更に下った坂の途中に、さっき燃え盛る町を見下ろした場所がある。


 その同じ場所に立ってみた。街灯が並び、車のライトが行き交い、信号が点滅する穏やかな景色が広がっていた。


 かなえちゃんはこの景色を見られただろうか。 


 後ろからヘッドライトが近づいて、すぐ横で停まった。村上先生だ。


「富田、家まで送ってやる。乗ってけ。」


「でも。」


「途中で倒れられでもしたら後味が悪いだろ?いいから乗れ。」


 私は勧められるまま後部座席に乗り込んだ。足元の段ボール箱の中に、歴史の本が詰まっているのが見えた。


「先生、この町に空襲があったのはいつですか?」


「ん?何だ突然。」


「えっと、明日のテストの参考に。」


「日付までは出ないけどな、今日だよ、今日。1945年7月15日だ。」


「今日……あの、たくさんの方が亡くなったんですか?」


「正確な数字は覚えてないが、確か数千の単位だったはずだ。焼夷弾の雨が降ったって、うちのばあちゃんが言ってたよ。B29が来る前にしつこい程機銃掃射があったらしい。学校の西側に崖があるだろ?あそこには防空壕があったんだが、あんなところまで戦闘機が追いかけてきて、凄く怖かったって何度も聞かされたよ。」


 私が見たのはやっぱり事実だったんだ。あの戦闘機の下で、あの炎の中で、たくさんの人が死んだ。無抵抗の人が殺される、それが戦争。


「富田は社会科が苦手だったよな?」


「……はい。」


「社会科は科目じゃないんだよ。生活なんだ。地理は今自分が暮らしている世界を知ること、公民は世の中の仕組みを知ることだろ?歴史は生き方を考えるための資料なんだ。」


「資料?」


「そうだ。地図が行き先を教えてくれるように、歴史がより良い道を示してくれるのさ。例えば、富田だって戦争は嫌だろ?歴史はそれを回避するヒントをくれるんだ。」


「はあ……」


「やっぱり興味ないか。まあいい。嫌々でもいいから歴史を知ってくれ。いつかきっとお前の役に立つだろうからな。」


 来る時はあんなに遠かった道のりが、車ではわずか5分ほどで家に着いた。走り去る先生の車を見送って細い路地へ入ると、家の明かりが灯っていた。


 ドアを開ければ家族がいる。喧嘩もするし、腹も立つけど、こうしてのどかに暮らしていられるのは平和な世の中があってこそなんだ。


 カバンの中のスマホが鳴り出した。母からだ。


「彩子、あんた今どこ?」


「家の前。」


「何やってんのよ。早く入んなさい。素麺伸びちゃうわよ。あんたの好きなかき揚げもあるから。」


「はーい。ありがと、お母さん。」


「なによ、気持ち悪い。早くしてね。」


「わかった。」


 少しくたびれた玄関の扉。この先にはささやかだけれど守りたい幸せがある。私は勢い良くドアを開けた。


「ただいまー!」

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