ダンジョン縦貫道の戦い
ダンジョン縦貫道の戦い
黎明期のマナニアには、人食い沼の噂があった。
ある記録的な寒さの冬、危機的な燃料不足によって泥炭の価格が暴騰した。ひとりの泥掻きが、一獲千金を夢見て吸い込みに採掘船を出した。鋳鉄のパイプを勇ましく沼に突き立て、泥を吸い上げ――底が抜けた。
沼は渦を巻き、周囲五キロの湿原に存在するあらゆるものを引き込んだ。むきだしの地盤と直径一キロに及ぶ大穴が残された。やがてダンジョン縦貫道と呼ばれる縦坑、その始まりである。
長い間、ダンジョン縦貫道は冒険者たちに利用されてきた。涸れ果てた数十層を無視することができるからだ。縦貫道の通行料はマナニア政府の重要な財源となっている。
掘立小屋同然の料金所が四つ、あとはぐるっと柵で囲われている。管理が行き届かないのを良いことに、通行料を支払わず進入する冒険者は多い。アーシェラたちも、その例に倣うこととなった。
「仕方ありませんよね。エステルに気づかれている可能性がありますから」
ヴァージニアは堂々としたものだった。まったく緊張感がない。たぶん常習犯なのだろうとアーシェラは思ったが、何も言わなかった。
「ウチもう金ねーし」
ルイーズは、錆びた鉄柵をガントレットで殴りつけた。ひきちぎれた柵が縦穴をまっすぐ落ちていき、陽光を飲むような暗闇に消えた。着地の音は聞こえない。
穴の淵に立つと、吹きあがる冷たい風が身体をぐらつかせる。怖気づいたテルマがルイーズにすがった。
「怖すぎだよね! やば!」
ルイーズがテルマの恐怖に大げさな同調を示す。テルマは顔を赤くしてルイーズを睨んだが、手をはなすことはなかった。
「深さは五キロ。あっという間ですよ。それじゃあお先に」
ヴァージニアが、服を残して消えた。銀毛の狼が躍り出て、曲射された矢のように穴を落ちていった。
「えっヴァージニア! なんでひとりで!」
ちょっとした突起に着地したヴァージニアが、こちらを見上げた。
「先に行ってますから。服、お願いします」
「だから理由!」
アーシェラの声は唸る風にかき消された。ヴァージニアは中空に身を投げ出し、十メートルほど鋭く下降すると着地した。もはや地上からでは、なんかちょっとした粒みたいなものが壁にくっついているようにしか見えなかった。
三人は顔を見あわせ、いやまいったねどうも。みたいなふわっとした笑みを浮かべた。
「ひとりでやりたいなら、もうそういう性格だもんね」
アーシェラは服を畳みながら、自分に言い聞かせるようにヴァージニアをフォローした。
「よし、あたしたちも行こうよ。テルマの盾と、壁のでっぱりを飛び渡ってくってのはどう?」
アーシェラが提案し、テルマは首を横に振った。ルイーズはテルマの頭をなでた。なでられるがままにガタガタふるえながら、テルマは穴を直視しないよう顔を背け、
「ん? あれ?」
四足の獣が、砂を蹴立ててこちらに近づいてくるのを見た。
「え? え? 豹? なんか……豹?」
斑紋の入った金色の毛皮が、陽の光に輝いている。どう見ても豹だったし、どう考えても狙いはテルマたちだった。
「うわわわわ! わー! わー!」
テルマは叫び、穴と豹を何度も見比べた。混乱した頭が下したリスク評価に従い、テルマはぽーんと穴に身を投げ打った。
「えー! テルマ!? うわ豹! わー!」
「やば!」
後足にめいっぱいの力を溜めた豹が、岩盤を蹴ってアーシェラに飛びかかった。アーシェラとルイーズは反射的に一歩後退し、ひとかたまりになって落ちた。
「外した。良い判断をする」
淵に留まった豹が、縦貫道を見下ろして呟く。遅れて、ウグルク、グリシュナッハ、補聴器の老人が来た。
「ごめん、ウグルク」
伏せた豹が、尾を足の間に丸めた。
「少し手間が増えただけだろ。気にすんな、マウフル。予定通りにやる」
彼らにとっては、偶然の邂逅だった。南料金所に向かっていた銀影団は、ぺちゃくちゃ喋りながらのんびり歩くアーシェラ一行を見かけた。ちょっと追跡してみた結果、アーシェラたちにはなんの危機感もないし、どれだけ距離を詰めても尾行にいっさい気づかないという事実が判明した。注意が最も一点に集中する飛び込みの瞬間を狙って、マウフルが襲った。オーク女がたまたま振り向いたばかりに、襲撃は失敗となった。
「一人でも殺せてりゃ楽だったんだけどねェ」
グリシュナッハの嫌味には、誰も応えない。ウグルクは、佩いた剣の鞘を撫でた。
「落下制御の準備をしろ。行くぜ」
四人はアーシェラ達を追い、ダンジョン縦貫道に突入した。
アーシェラは、視界に移るものが凄まじい勢いで変化していくのを、半ば他人ごとのように眺めていた。滴り落ちる水、苔にびっしり覆われた岩、ねじ曲がった細長い木、棒みたいに落ちていくルイーズ。落ちて死ぬのがどういうことなのか分かった今、次の人生では絶対に墜死すまいと強く誓い、やわらかいものに背中から突っ込んだ。
「ふぎ!」
激突の衝撃で、体中の空気が口から漏れる。何が起こったのか考える間もなく、ルイーズが真横に落ちてきてアーシェラの体は弾んだ。
「はっ、はっ、まっ、間に合っ、ひ、うひひひ!」
杖を抱えたテルマが、開きっぱなしの瞳孔をあらぬ方向に向け、ひきつり笑いを浮かべていた。テルマの盾に救われたのだと、ようやく理解が追いついた。
「ありがと、テルマ。助かったよ」
「死んだと思った絶対! 死んだと思ったあ!」
ルイーズが泣きべそをかいた。
「テルマ、いける? 急いで降りないとやばいんだ」
「うひひひひ!」
「気持ちはわかる」
「よう、受付嬢」
声は横から聞こえた。アーシェラはぎょっとした。四人組の冒険者が、宙に浮かんでいたのだ。
「俺のこと覚えてるか? ンなわけねえよな」
ウグルクの瞳は針先のように鋭く、視線は刺突剣のようだった。
「覚えてるよ。あれのおかげで職を失ったんだから」
テルマとルイーズを庇って一歩前に出ながら、アーシェラは強がった。ウグルクは敵意のこもった笑い声をあげた。
「いいザマだぜ。適当な仕事するヤツにはキッチリ報いがあンだな」
「エステルに言われて来たの?」
「盗んだアーティファクトは返さなくていいぜ。ぱぱっと殺すからよ」
ウグルクは目的を隠すつもりがないらしい。なるほど、二つのことが分かったなとアーシェラは考えた。ひとつ、案の定エステルにバレていた。ふたつ、銀影団はあたしたちをとにかく侮っている。
「へェ、それが無文字魔法かァ。しょぼっ」
グリシュナッハが、テルマの魔法を嘲笑った。知ってる言葉に反応したテルマが我を取り戻し、アーシェラのマントを引いた。
「……落下制御っスね。魔禁の縦貫道でも使える、無文字魔法の一種っスよ。おそらく、いま挑発してきたのが術者っス」
「なるほど、えぐい相手だね」
つまり二つの勝ち筋があるわけだ。術者を仕留めるか、先に底に着くか。アーシェラは決断を迫られた。だが意思決定よりも先に、敵が動いた。
「ウグルク、私は」
「行け、マウフル。狼売女を仕留めて来い」
獣化した女が、服を残して飛び出した。てのひらほどのわずかな突起を飛び渡り、すさまじい速度で降下していく。マウフルがアーシェラの読み通り名誉男性ならば、一対一では一方的な戦いとなろう。
「アーシェラ。私が術者をやるっス」
「いけそう?」
「どういうつもりか、私を侮辱したくてたまらないみたいっスからね」
「分かった。ルイーズ、一緒に行こう」
「う、え? きちぃ」
いまだにルイーズはちょっと混沌としていた。
「ねえ、ウグルク!」
アーシェラは叫び、荷物から原盤を取り出した。虚無のような漆黒のアーティファクトが、銀影団の目を惹く。
「おいで」
集まった視線に向けて挑発的に笑うと、アーシェラはルイーズの手を引いて盾から飛び降りた。
「ギャー!」
ルイーズが絞め殺される鶏みたいな叫び声を上げた。
「腕! 腕! ルイーズ!」
「ギャー!」
ルイーズは泣きながら右腕にガントレットを現出、伸ばした操作肢を岩に突き立てた。壁面をがりがり削りながら、アーシェラとルイーズの体が降下していく。
「グリシュナッハ、追うぞ!」
「ボクはこの女を殺しておくよ」
ウグルクは一瞬、苛立ちで絶叫しそうになった。ばかな学生はオーク女をいたぶる気でいるし、補聴器のジジイは我関せずと、自転しながら静かにゆっくり落ちている。狼女をマウフルに追わせたのは判断ミスだったのかもしれない。
それでもウグルクは銀影団のパーティリーダーだ。彼にはこの集団を一つの方向めがけて動かす義務がある。道のりに関しては、常に妥協の連続だ。それが仕事というものなのだ。
「分かった。さっさと済ませろよ」
故にウグルクは、メンバーの思惑を呑まなければならない。相手が肥大した自尊心を抱え、世界のすべてが思い通りになると勘違いしている学生であってもだ。
「はいよー」
ウグルクは、頭を下に身体を丸めた。全身を伸ばしながらグリシュナッハの足裏を蹴り、勢いをつけて下降した。シャチの尾のように両脚をくねらせ、アーシェラとルイーズを追う。
三つの戦闘が始まろうとしていた。最上部では、テルマとグリシュナッハ。中層において、ウグルクとアーシェラ・ルイーズ。マウフルが、深みにヴァージニアを探す。
「あーあ、きれいに分断されちゃった。ばかなんだよねェ、冒険者って」
グリシュナッハは、眼下に消えるウグルクめがけて嘲笑を投げた。テルマは目線を切らさず、重く深い呼吸に努める。相手は男だ。勝算など、あるわけがない。己が無文字魔法への矜持だけを支えに、テルマは立っている。
「オマエさァ、エステルに抱かれてたんだって?」グリシュナッハはうすぎたない笑みを浮かべた。「すごいよねェ、エステル。ボクだったら絶対に無理だ」
言わせておけばいい。テルマは深く息を吐いた。目の前の男がどういう存在なのか、一瞬にして理解できた。心を腐らせようとする言葉を、身体に入れてはいけない。
「来ないんスか?」
端的に、テルマは返した。できるだけ退屈そうに。少しでも傷ついたなんて思わせないように。
「まァいいじゃん? どうせすぐ終わっちゃうし。なんかさァ? オマエ無文字魔法使えるって聞いて期待してたんだけど、それなに? 皿?」
言わせておけば、いいのだ。こういう男はどこにでもいる。本当に、年齢も場所も問わずまんべんなく分布しているのだ。同じゼミの男子、卒論の担当教授、賢愚も美醜も罵りながら、抱くのを止めようとはしない老人。
グリシュナッハはさっと右手を振った。すると彼は、橙色に微発光する、鋭い短剣を握っていた。
無文字の剣が、グリシュナッハの顔を下から照らしあげる。明らかに彼は、自らの魔法に酔っていた。
「こういうのだよねェ。どんな場所でも素早く使えてさァ」
不意に、グリシュナッハが短剣を投擲する。テルマが産んだ盾に無文字の刃が食い込み、砕け――まばたきを一つ、グリシュナッハの身体が眼前にあって、酒と埃とすみれを混ぜた髪粉と体臭のいりまじったぬるい風が吹きつける。
「そらァ!」
柄の伸縮によって一気に距離を詰めたのだろうと理解し足払いをかけられる。前のめりに倒れたテルマの顔面が、魔法盾の破片にぶつかってのけぞる。腹に、重い一撃。蹴られたのだと気づき、テルマの身体は落下している。
宙に盾を産み、背中から落ちた。グリシュナッハは魔法短剣を手に、嗤いながらテルマを見下ろしている。
鼻血をぬぐいながら、テルマは立ち上がった。一合で、明白なレベル差を突きつけられた。まともにやって勝てる相手ではない。その気になれば、グリシュナッハはテルマを即死させられる。
テルマのやや下方、壁面から突き出した五メートル四方のスペースに、アーシェラとルイーズが立っている。その周りを、ウグルクが蚊かなにかのように飛んでいた。今のところは闇化ガリウムⅣ-月鉛合金ガントレットの挙動に戸惑っているようだが、時間の問題だろう。
グリシュナッハを仕留めなければならない。アーシェラの持つ原盤を奪われた時点で、こちらの敗北だ。
「ンー、なァんか見覚えがあるんだよなァ」
グリシュナッハは、大きな弧を描きながら旋回降下した。テルマの全身を、不躾な視線で汚しながら。
「あのさァ、もしかしてオマエ、魔法考古学学会にいた? ラスタンとかヴェフレックとか、世界最高の知性が集まった第十二回ね。ボクは両博士と顔つなぎできたんだけど……ぶふっ」
言いかけて、グリシュナッハはこえらえきれず笑った。あまりにも笑いすぎて激しくむせた。
「あっはははは! あぶなァ! 笑いすぎて屁ェ出るとこだった! ンんなわけないよねェ! 国境越えられるわけないんだから! 学会なんて出られるわけないかァ!」
言わせて、おけば、いいのだ。ラスタンとヴェフレックは、共著も出している魔法考古学の偉大な学者だ。論文の被引用数は同期の学者内でも桁が一つ違う。
テルマも二人の論文を読みふけった。彼らと対等に議論する自分を夢想した。学会発表を聴いてもらいたかった。ラスタン博士の、『この分野では素人なのですが』から切り出される――真の賢者は、愚かものにとって残酷に映るほど謙虚なのだ――強烈な質問に、冷や汗をかきたかった。
そんな機会はなかったし、これから先もない。なぜならテルマは女で、おまけに借金まみれの単なる貧乏学生だからだ。
深く静かな呼吸が乱れる。夏の犬のようにテルマはみっともなく息をしている。悪意から、身体を閉ざしきれない。心が濁っていくのをテルマは感じる。
テルマは静かに待った。敵の攻撃は、見た。とどめは刺されなかった。現実的に重要なのは、その点だけだ。侮られているなら、利用すればいい。いつだって、そうやってきた。愛想笑いと相槌でごまかして、切り抜けてきたのだ。それが賢いやり方だから。
「女が無文字魔法とか、ありえないよなァ。男に飼われなきゃ研究も続けられないんだから。無駄だよ無駄」
言わせて、おけば……
いやもう無理だなこれ。
「うるっせえ!」
テルマは怒鳴った。
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