怪物は霧に潜む5
「ま、マリア……?」
「……わたくし、ノキさんが目を覚まさなかったら、自壊しようと思っていたの」
「待ってくれ。物騒だ。わたしはこの通り元気なのだから、そのように思い詰めないでくれ」
「よかった……」
揺れる声がしぼり出される。
マリアは自動人形だ。
喜怒哀楽の感情表現はプログラムされているが、実質、彼女たち自動人形に感情はない。
自動人形の表情は、適切な場で適切な対応ができるよう、計算されたものでしかなかった。
マリアの瞳から、白い雫が滑り落ちる。
自動人形に『涙』の概念は不要だった。
彼女たちはどのような環境化においても、冷静で的確でなければならない。
涙などという感情の噴出は、そもそもプログラムされていなかった。
マリアの異常を目の当たりにしたシュレーが、ぎょっと目を瞠る。
彼女が本気で腕に力を込めれば、人体など容易く引きちぎられるだろう。
震える肩を懸命に調整させ、マリアはノキシスを抱き締めていた。
「よかった……っ」
再度、掠れた声音でマリアが囁く。
ノキシスの白い髪を子猫を慈しむように撫で、頬を経由しない雫がもう2滴、シーツに滲んだ。
*
シュレー・ゲルトシュランクは、無愛想な兄オーティスと、わがままな妹フレーゲルをきょうだいに持つ、次男である。
きょうだい間のつながりは希薄ではあるが、それでも長男のわがままと、末っ子からのわがままを押し付けられてきた。
めんどくさいなあ、と思った回数は計り知れない。
次第に面倒事を回避するよう、シュレー少年は上手く立ち回るようになった。
彼の危機管理能力が、めきめきと鍛えられた瞬間だった。
シュレーがノキシスとはじめて出会ったのは、7歳の暑い日だった。
親族の集うその日は、普段見かけない子どもたちの数も増える。
面倒な挨拶を手っ取り早く済ませた彼は、退屈を紛わせる遊び相手を求めて、屋敷内を散策していた。
不意に弾んだ笑い声が聞こえ、廊下の窓から庭を見下ろす。
そこには、メイドに帽子を被せられている、ひとりの女の子がいた。
真白な髪と肌が、高いコントラストの日差しに照らされている。
甘えるようにメイドに抱き着いたその子が、カンカン帽の下でにっこりと笑った。
「――ッ!!」
その瞬間、シュレーは廊下を走っていた。
階段を駆け下り、大急ぎで庭へ飛び出す。
手早く髪や服をはらい、弾んだ息をにこやかな笑みで整え、小さな紳士として少女の前に立った。
「ねえ、ぼくも一緒に庭を見てもいい?」
彼は齢7歳にして、ナンパを果たした。
初恋だった。
出会ったその日に手を繋いでデートするほど、シュレーは積極的に少女へ近づいた。
さらには挨拶と称してハグするくらいは、情熱でぐいぐい推した。
少女の名前は、ノキシスという。
年はシュレーより、ひとつ下らしい。
内気な彼女はもじもじとメイドの後ろへ隠れたがったが、シュレーが優しく接することで、次第に笑顔を見せるようになった。
そのノキシスが少女ではなく少年なのだと知ったときは、シュレーは熱を出して寝込んだ。
泣いた。しばらくは食事も喉を通らなかった。
頼み込んで一緒に撮った写真を見詰め、初恋の終わりを嘆くように、ぼろぼろ泣いた。
そも、ことの発端は、シュレーがノキシスを婚約者に据えてほしいと、両親に頼み込んだことにある。
厳格な父親が、はじめて「え?」という人間味ある顔をした瞬間だった。
さて、シュレーは危機管理能力に優れている。
そのとき彼は、ぴこーんと閃いた。
――このままじゃ、ノキちゃんが危ない!
元々シュレーは、本家のやり方に疑問を抱いていた。
第一に、本家の人間というだけで、彼は友達ひとり作ることができない。
横暴な兄を見ていて、常日頃思う。
――そんなに周りをいじめちゃ、絶対にハッピーになんかなれないのに……。
さて、ノキシスも本家の敷地にいる以上、本家と関わりのある人間だ。
彼等の役職などは、子どものシュレーには難しくてまだわからない。
けれども、遠路遥々やってきたおじさんたちが、蒼白な顔で父と面会している姿は、よく見ていた。
応接間から漏れ聞こえる、懇願する泣き声。
幼心ながら、シュレーはそれらに不気味さと恐怖心を抱いていた。
次男ではあるが、将来的にシュレーは父側の立場につく。
では、ノキシスは?
遠路遥々やってくる、蒼白な顔色のおじさん側だ。
虚ろな顔でぶつぶつ呟く人。はたまた、頭を掻きむしって泣き喚く人。
様々な人が、あの応接間から追い出されてきた。
――そんな絶望のふちに、ノキちゃんを立たせるわけにはいかない!
シュレーは当主にはならず、影で暗躍する道を選んだ。
彼は初恋に対して、一途だった。
その分、ノキシスへ対しても変わらぬ美を求めている。
もしもノキシスが醜く成長していれば、シュレーはあっさりと彼を見捨てただろう。
それ以上に、大切な思い出を穢した報いとして、率先して首を取ろうとしていたかもしれない。
何にしても、ノキシスにとっては迷惑極まりない。
シュレーは良いお兄ちゃんでいるよう、道化に徹して内情を伏せた。
ベーレエーデで見せたしおらしい態度も、『こうした方がノキちゃん怒らないし』という計算が下にある。
本家へ戻ったシュレーが、急ぎ足で当主の元へ向かう。
――まずはパパに報告を。
確かにお兄様は次期当主候補として有力だけど、現当主はパパだもの。
パパさえ納得させれば、お兄様は口出し出来ないわ。
お兄様と遭遇する前に、出来るだけはやく報告へ向かわなければ!
シュレーの長い脚が、カツカツ廊下に音を刻む。
不意に、その脚が止められた。
父の執務室が開く。
現れたのは、兄のオーティスだった。シュレーの微笑が強張る。
――タイミング、さいっあくじゃない!!
内心天を仰いだ。どうにかして、ノキちゃんを守らなきゃ!
彼が思考を巡らせる。
弟の存在に気づいたオーティスが、大股に歩む。
にっこり、シュレーは得意の笑顔を張りつけた。
「はあい、お兄様」
「……シュレー」
父譲りの厳格な顔をしかめて、オーティスの低い声が響く。
——まずいまずいやばいじゃない! 笑顔の下で冷や汗をかきながら、シュレーは会話のシミュレートをした。
――あたしからノキちゃんの話題を出すなんて、悪手だわ。
変に違う話題を振って、怪しまれるのもごめんだわ。
……藪をつつかず、お兄様の出方を伺いましょう。
彼が固唾を呑む。
オーティスの口が、うすらと開かれた。
「……荷物は渡ったか?」
「は?」
てっきり監査結果を尋ねられるのだと身構えていたシュレーが、ぽかんと口を開く。
厳しい眉間の皺を作る兄の表情は変わらず、諸々の思考を置いた弟は、件の箱を思い出した。
こくん、頷く。
「ええ。ちゃんとお兄様に言われたとおり、ノキちゃんに手渡したわ」
ベーレエーデの領主邸に到着して、真っ先に手渡した、大きなリボンの巻かれた丸い箱。
こちらはシュレーが用意したお土産であり、オーティスから持たされた箱は、その下に抱えていた。
長方形の箱は軽く、振っても乾いた音しかしない。
内容物を不審に思ったが、そこはプライバシーに守られた領域だ。
シュレーは兄より受けたおつかい任務を、淡々と遂行させた。
「そうか」
端的に呟いたオーティスが、シュレーの横を通り過ぎる。
追撃がないことを驚いた弟が振り返るも、兄の大股な歩みは止まらない。
――てっきり、ノキちゃんのことを根掘り葉掘り聞かれるんだと思ってたわ……。
唖然としたシュレーは、これ幸いと父の部屋へ駆け込む。
自室へ戻ったオーティスが、両の拳を天高く突き上げているとも知らずに……。
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