怪物は霧に潜む3

 夜、細く明かりの漏れる執務室を前に、サミュエルの腕が持ち上げられる。

 小さく扉を叩いた彼は、音を立てないよう扉を開いた。


「……ノキ。少し、相談してもいいですか……?」


 部屋を見回し、シュレーがいないことを確認してから、年若い執事が口火を切る。

 執務机につく領主は何かを書いているようで、顔を上げずに応答した。


「なにかね?」

「昼間のことです。……俺、あいつのところになんて、行きたくない。ノキのとこ以外、嫌だ。……でもっ」


 ノキシスの元まで歩み寄ったサミュエルが、縋るように机に両手をのせる。

 顔を上げた領主は、ずれる丸眼鏡をかけていた。


「俺があいつのとこに行かなかったら、ノキはどうなるんだ……?」

「さてね。比喩的な解任か、直喩的な斬首かのどちらかだね」

「……ッ」


 突きつけられた二択に、力なくサミュエルはうつむく。

 ふと、彼の目が書きかけの書類に留まった。


「……ノキ、なに書いてるんだよ?」

「きみの紹介状だよ」

「はあ!? 何で!?」


 深夜だということも忘れ、サミュエルが大声で机を叩く。

 目線を下げたノキシスは静かな顔をしており、それが余計少年の焦燥を煽った。


「決断は早い方がいいよ。折角の機会だ。シュレーの世話になりなさい」

「なんでだよ!? 俺、まだ決めてないのに!!」

「きみは要領もよく、頭のいい子だ。この町に留まるには惜しい逸材だよ」

「ッ、ふざけんな!!!」


 書きかけの紹介状を引っ手繰ったサミュエルが、用紙を半分に引き裂く。

 破ったそれらをまとめてぐしゃりと鳴らし、怒鳴り声を上げた。


「なんでだよ!? ノキは俺がいなくても平気なのかよ!?」

「そうはいっていないよ。これはきみのためだ」

「俺のため!? どこが!!」


 少年の声が、感情にのまれて震える。


「俺、ノキだからここまで頑張ったのに! マリアじゃなくって、俺のこと一番に呼んで欲しかったから、こんなに必死にやってきたのに!!」


 サミュエルは、ずっとあがいてきた。

 ノキシスの揺るぎない一番は、マリアだ。

 彼がマリアを呼ぶ度、埋められない溝を感じて焦っていた。


 ――マリアではなく、真っ先に俺のことを頼ってもらいたい。


 サミュエルの抱いた自意識は、日々の努力として現れた。

 勉学に励み、気を利かせ、身奇麗にして、主人が仕事しやすいよう環境を整えて……。


 サミュエルは、来年16歳で成人する。

 もう少しで大人の一員になれる。

 そうすれば、ノキシスからも一人前として認めてもらえるかもしれない。

 その希望を糧に、サミュエルは今日まで努力してきた。


 ノキシスが、開いた唇を閉じる。

 固く握った手のひらに爪を立てたサミュエルは、怒声を重ねた。


「俺じゃなくて、マリアだったら!? マリアのことも、そんな簡単に手放すのかよ!?」

「マリアときみは違うだろう」

「なにが違うんだよ!? 俺だって、ノキと一緒にいたいのに!!」

「サミュ……」


 困惑した様子で立ち上がったノキシスを、サミュエルが睨みつける。

 一層固く手を握り締め、少年は荒げた声を叩きつけた。


「あいつのところになんか、行くもんか!! ノキが殺されるんなら、俺も一緒に死んでやる! 勝手に決めんじゃねーよ、ばーか!!」

「サミュエル!」


 部屋を飛び出した少年に合わせて、勢い良く開いた扉が跳ねる。

 蝶番の可動域限界まで開いたそれは、反動のままゆっくりと閉まった。


 中途半端に伸ばした腕を、ノキシスが下ろす。

 重たくため息をついた彼は、インク瓶のふたを閉めた。


「クールな見た目より、ずいぶん熱烈な子じゃない」

「……すまない、シュレー。起こしてしまったね」

「平気よ。まだ寝てないわ」


 両手を肩の辺りで広げたシュレーが、執務室へ入る。

 部屋主の前に立った彼は、にやにやと笑っていた。

 顔を背けるノキシスを覗き込み、監査官が三日月形に目許を細める。


「ねえ、ノキちゃん。一緒にお散歩へ行きましょう?」






「城壁になんの用だね? シュレー」


 新月なのか上空に月は見当たらず、濃い霧が立ち込める。

 城壁の外階段から見張り台まで上ったノキシスは、カンテラを持つシュレーへ振り返った。


 んっふっふ、シュレーが独特な含み笑いをする。

 橙の明かりに照らされた彼は、にんまり、意地の悪い笑みを浮かべていた。


「聞いたわよ。城壁の怨霊の、ウ、ワ、サ」

「……肝試しのつもりかい?」

「あったり~! ていっても、やるのはノーキちゃん!」


 言うが早いか、ノキシスの顔から眼鏡をふんだくる。

 そのままぞんざいな仕草で、シュレーは丸眼鏡を高い城壁から投げ捨てた。

 地上へぶつかった頃には、目も当てられない悲惨な形状になっているだろう。


 突然視界を奪われたノキシスは立っていられず、壁に手をつきその場にへたり込んだ。


「シュレー、眼鏡を返しておくれ……ッ」

「だめよ、あんなクソダサ眼鏡。捨てちゃったわ」

「ッ!?」


 夜闇の中、ノキシスの顔色が悪くなる。

 壊滅的に視力の悪い彼の裸眼では、外階段を下ることは不可能だった。

 城壁は内部構造も複雑で、無事地上へたどり着ける確率も低い。


 カンテラを床に置いたシュレーが、わざとらしく靴音を立てる。

 今も、「真っ暗闇に、橙色の明かりがぼやっとしてる〜」程度にしか見えていない。

 ノキシスの傍に屈んだ彼は、人差し指で領主の顎を持ち上げた。


「あとわね、『あるある』いうのも禁止よ。癪に障るもの」

「……オーティスのようなことをいうんだね」

「お兄様から忠告を受けて無視するだなんて、ノキちゃん、命が惜しくないの?」


 呆れたように、オーティスの弟がため息をつく。

 焦点を絞ろうとノキシスが薄目を開くも、カンテラの明かりがにじむだけで視界は悪いままだ。

 シュレーが声音を低くする。


「ねえ、ノキちゃん。お兄様のいうことを聞くって、約束してちょうだい」

「さて。彼の要求はいつも難解でね」

「眼鏡とふざけた態度。本家へ定期的に顔を出す。それから、書類に嘘を書かないこと。この4つよ」

「…………」

「ノキちゃん。あなたの嘘、バレバレよ」


 領主が沈黙する。

 上着のいらない季節といえど、夜霧の中は冷える。

 しっとりとワイシャツを濡らす水分に、シュレーは持ってきたショールを羽織りなおした。


「ノキちゃんは、もっと貧困に喘いでいる街を視察するべきだわ」

「……そうか。忠告ありがとう」

「ええ。だから今、約束して。断るなら、ここからひとりで帰ってちょうだい」


 真剣な声音には茶化す色はなく、重大な局面に立たされているのだと感じさせる。


 肺に溜まった空気をはいたノキシスが、視線をうつむける。

 カンテラのゆらゆら揺れる明かりの機微は、彼の目には漠然としていた。


 はたと何者かの気配を感じたシュレーが、顔を上げる。

 途端、彼の表情は恐怖で強張った。


「……シュレー、わたしは、」

「んぎゃああああああああああッ!!!!」

「あだっ!?」


 深夜のくもり空を貫いた絶叫。

 突然シュレーに飛びかかられたノキシスは、後頭部を強か石の壁に打ちつけ、悶絶していた。

 そんな彼に構うことなく、痛いほどノキシスを抱き締め、シュレーがぶるぶる震える。


 急な監査官の変貌に、くもった眼の領主はひたすら困惑した。

 彼は何も見えていない。


「しゅ、シュレー? くるし……っ」

「やあああああん!! ごめんなさいごめんなさい!! お願いだから食べないでえええええッ!!!!」


 悲鳴を上げ、シュレーが懇願する。


 彼等の頭上には、巨大な影が浮かんでいた。

 虹のような光が揺らめき、霧の中をゆらゆらたゆたうそれは、不気味なほど静かにふたりを見下ろしている。


 上腕二頭筋が唸るまま、シュレーがノキシスを抱き締める。

 いたいいたい苦しい! 領主は監査官の背中を必死に叩いた。


「やだああああッ!! あっち行きなさいよおおおおお!!!」

「シュレー!? うぐっ、何が起こったんだ!?」

「あああんっ! ノキちゃん痩せっぽちだから、食べてもおいしくないわよー!! あたしも筋肉ゴリゴリだから、かたくて不味いんだからーッ!!!」

「しゅ、シュレー……?」


 ついにはおいおい泣き出したシュレーに、ノキシスが困惑する。

 それ以上に、背骨が軋む腕力で身体を絞められ、彼は酸欠を起こしていた。


「うっ、シュレー、頼む、落ち着いてくれ……ッ」

「ごめんなさい、ノキちゃん! 本当にいるなんて思ってなかったのおおおお!!」

「な、なにが……ぐえっ」

「怨霊よ、怨霊!! まさかノキちゃん、見えてないの!? あたしにしか見えてないの!? あああんっ、やだあああああ!!!」


 みしっ、みしみしっ。

 ノキシスの運動不足気味の背中が、悲鳴を上げる。


 ——見えていないのは、きみが眼鏡を捨てたからだよ……。

 今にも薄れて途切れそうな意識の中、領主は思った。遺言になりかねない。


「シュレー、も、はなし……」

「だってだってええ! こうでもしないと、ノキちゃんお兄様に殺されそうなんですものおおお!! ノキちゃんに死んでほしくなかったのおおおおお!!!」


 シュレーの広背筋が唸る。

 僧坊筋と三角筋が歌い、大胸筋が喜びの声を上げた。


 優男のどこに、このような筋力が眠っていたのだろう?


 たった今シュレーに殺されそうなノキシスが、かくり、意識を失う。

 暗転する直前、ばうばう! 犬の鳴き声を聞いた気がした。

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