ノキさんと助手のサミュ

ちとせ

通り魔は干したてのシャツを狙う1

「先生、たすけて!! 母さんの咳が止まらないんだ!!」


 町医者のもとへ飛び込んできたサミュエルは、開口一番にそう叫んだ。

 着ている服もボロボロで、折れてしまいそうなほどにやせ細った少年だった。

 短く切った黒髪はボサボサで、ちょっと目つきの悪い顔は気が強そうに見える。

 蹴り飛ばされてしまいそうなほど小さな背丈のサミュエルは、煤まみれの顔をくしゃくしゃにされていた。


 ほんの10歳の少年の悲壮な姿を目に留めた瞬間、町医者はそっぽを向いて、乱雑に頭を掻いた。


「悪いな、サミュエル。医者は慈善事業家じゃないんだ」


 町医者の放ったひやりとした言葉に、少年サミュエルの目が見開かれる。

 唇を戦慄かせた彼は今にも泣きそうな、けれども怒りに満ちた目で、叩きつけるように怒鳴り声を上げた。


「なんでだよ!? 金がないから!? 金がなかったら見捨てるのかよ、このひとでなしッ!!!」


 壁掛け時計は、とっくに日付変更線を超えている。

 冴え冴えとした月がとっぷりと暮れた暗闇に浮かび、どこからともなくフクロウの鳴き声が聞こえていた。

 しかし少年には周囲を顧みる余裕もなく、静まり返った診療所にキンと甲高い怒鳴り声が響く。

 町医者は顔をしかめた。深くため息をつく。


「サミュエル、聞き分けてくれ。私だって生活が苦しいんだ」


 苦渋をにじませた声音で、町医者が少年の肩を押す。

 自宅に併設されたこじんまりとした診療所から、少年を追い出そうと力が加えられた。

 サミュエルは必死に枯れ枝のような腕を振り回したが、到底大人の力には敵わない。

 一層顔をしかめた町医者によって、寒々しい外へと強く突き飛ばされてしまった。


「いやだ!! このままじゃ母さん死んじゃう! 助けてよ、母さんのこと助けてよ!!」

「帰ってくれ」

「母さんなにも悪いことしてねーじゃん!! なんで母さんが病気になんねーといけないんだよ!! なんで診てくれねーの!? 助けてよ! お願いだから助けてってば!!」

「恨むなら、町をこうした領主を恨んでくれ」


 バタンッ!! 診療所の扉が勢いよく閉められる。

 続いて鍵をかける音がガチャガチャ響いた。

 サミュエルが何度扉へ縋って両手で叩くも、灯っていたはずの橙色の窓明かりさえも消えてしまう。


「ねえっ、助けてってば!! 助けて!! 母さんを助けてよ!! 母さんが死んだら、オレ、オレ……っ」


 崩れ落ちるように膝をついたサミュエルの両目に、涙がたまる。

 ぼろりと決壊したそれは止まらず、少年は堪らず泣き声を上げた。


 ——このまま母さんが死んじゃったら、どうしよう……!!


 凍つく寒空の下、サミュエルは何度もまぶたを擦り、わんわん泣いた。


 サミュエルに残された家族は、病に伏した母親ただひとり。

 ほんの数年前までは、母親も元気な姿を見せていた。

 しかし、彼らの住うこの田舎町ベーレエーデは、代々領主によって苦しめられている。

 度重なる増税に、食べものさえもろくに買うことができない。

 どれだけ働いても、得られる給料はスズメの涙。

 幼いサミュエルを優先させてきた母親は痩せ衰え、ついには病床へ伏せることとなってしまった。


 サミュエルは、母親さえいれば、それでよかった。

 例えどれだけ暮らしが貧しくても、母親が笑ってくれるなら、それだけでよかった。

 かたくてパサついたパンをふたりで分け合うことも、味のないスープを腹におさめることも、着るものがボロボロで穴が空いていても、母親がいてくれるなら、我慢することができた。

 隙間風が悲しげな音をさせる度、母と身を寄せ合って凍える夜を乗り越えた。

 雨漏りに合わせて歌を作り、ふたりで笑い合った。

 配達の仕事が苦しく、サミュエルの小さな手が凍えて千切れそうになっても、がんばってこられた。

 煤だらけになる煙突そうじの仕事も、母がいるからがんばることができた。


 その母親が、いなくなったら……?


 想像するだけでサミュエルの胸は冷え切り、どっぷりと嫌な汗があふれる。

 心臓が嫌な音を立て、急き立てるようにどくどく鳴り響いた。

 背骨に氷水を流し込まれるような怖気と、内臓が捻じ切られてしまいそうな痛みに、視界がぐるぐる回る。

 唐突に、ハッとサミュエルの意識は冴え渡った。


 ——金がないなら、盗めばいいんだ!


 夜に考え事をすると、人は悪いことばかりを考えてしまう。

 貧困に喘ぐ田舎町ベーレエーデは、治安が悪い。

 領主は領民たちから血税をしぼり取り、贅沢な暮らしを送っていた。

 安い金で領民たちをこき使い、反発するものがあれば、見せしめのように罰を与える。

 中には子どものサミュエルでは見られないような悲惨なものもあり、町の人々は領主を心から恐れていた。


 暮らしが苦しくなると、犯罪が増える。

 サミュエルが初めてスリを行ったのは、空腹に耐え兼ねた夕方の出来事だった。

 背中を丸めた男を狙い、拍子抜けするほど簡単に目的のものを盗むことができた。

 驚くほどアッサリと手中におさまった財布に、子どもが『なんだ、簡単じゃん』と思ったことは想像に難くない。


 サミュエルはその身軽さと器用さを用い、何度もスリを行った。

 母親に見つかり、泣かれ、怒られたことで、ようやくサミュエルはスリをやめた。もうしないと心に誓った。


 けれども今回に限っては、どんな手段を使ってでも、母親の薬代を稼がなければならない。

 ——怒られても、泣かれても、ぶたれてもいい。

 母さんが助かるなら、どんなことをしてでも金をかき集めるから!


 ゆらりと立ち上がったサミュエルの目は、頭上の月と同じくらいに、不気味なほど爛々としていた。






 じっと物陰に身を潜めたサミュエルが、ぎらりと目を光らせる。

 獲物は慎重に狙わなければならない。

 何度も行ってしまえば、バレてしまう。だから一度のスリで大量の金を手に入れたい。

 サミュエルは慎重だった。


 寒冷地である田舎町ベーレエーデは、夏が短く冬が長い。

 木枯しの吹き荒れる街道は冬の足音が近く、往来を行き交う人々は凍えた様子で首をすぼめて歩いていた。


 例えば纏うコート。

 例えば磨かれた靴。

 例えば光を弾くアクセサリー。

 例えば丸々とした体格。


 少しでも裕福であれば、外見にもその様子が現れる。

 獲物に狙いを定めるサミュエルの目は、右へ左へ忙しなく滑らされた。


 ——あいつなんてどうだろう?


 サミュエルの目に、上質なコートの男が飛び込んできた。

 老人みたいな真っ白な髪に、20代ほどの若い顔立ち。

 背丈は他の大人たちに比べて低く、肩幅もせまくて弱っちそうだ。

 そしてその顔にのせられた、うさんくさいほど大きな丸眼鏡。

 サイズが合っていないのか、歩く度にずり落ちるそれは、なんとも滑稽なものだった。

 チグハグな男であったが、彼の身なりは非常に良い。優良物件だ。

 なによりコートからはみ出た金色のチェーンが、男を裕福な人間なのだと決定づけている。


 サミュエルが、ごくりと生唾を呑む。

 ——あんなカモネギ、他にはいない!


 少年が物陰から動く。

 狙いを獲物に定めて、ポケットの中であたためていた手をグッパと動かした。


 さて、世間には『虎穴に入らずんば虎子を得ず』という言葉がある。

 しかし同時に、『旨い事は二度考えよ』との言葉もある。


 わざと男にぶつかったサミュエルは、男のコートからまんまと財布を盗み、手中におさめることに成功した。

 犯行時間はものの数秒。サミュエルの仕事は早かった。

 しかし、しめたと思った少年の腕が捻り上げられたのはそのときで、ぐるんと視界が回った頃には、サミュエルは地面に捻じ伏せられていた。


「いってぇ!!」


 何が起こったのかわからず、少年が痛みに呻く。

 彼の頭上で、金の巻き毛が揺れた。


「危険行為を確認しました」

「マリア!?」


 丸眼鏡の男がマリアと呼んだ女性が、サミュエルの盗んだ財布を引き摺り出す。

 サーッと青ざめた少年は、身をよじって逃げ出そうと暴れた。

 ざわりと人波がざわめく。


「は、はなせ!! 返せよオレの財布!!」

「指紋認証完了。こちらの財布の持ち主は、我がマスター、ノキシス・グレーゴル様のものです」

「グレーゴルだって!?」


 ざわざわと人だかりを作っていた野次馬たちが、音を立てる勢いで道の端へと遠ざかる。

 その様子は怯えてパニックに陥った子ネズミのようで、大袈裟なくらい身体を震わせながら、「領主様だ!!」と叫んでいた。


「りょ、領主様!! とんだご無礼をお許しください!!」

「申し訳ございません! 申し訳ございません!!」

「ど、どうかその子どもを、か、解放してやってください!!」


 膝をつく人々に、サミュエルは愕然とした。

 ——この白髪頭の弱っちそうな男が、この町をこんな目にあわせた悪い領主なのか!!

 けれどもすぐに、あれ? 首を傾げる。

 少年の記憶に残る領主は、パツパツに腹の突き出た雪だるまのような男だった。

 なんかいつも、口がくちゃくちゃ動いていた気がする。

 こんな、風が吹いたら飛ばされそうなほどひ弱な男ではなかったはずだ。


「領主って、雪だるまのやつはどーしたんだよ!?」

「ば、バカサミュエル!! このお方は、新しく領主様になられたお方だ!! 広場に書かれていただろ!?」

「しらねーよ!! そんなヒマなかったもん!!」


 サミュエルが怒鳴る。

 彼は配達の仕事と、煙突掃除の仕事を掛け持ち、日々母親の薬代を稼ぐことに一生懸命になっていた。

 そんな領主が変わったとか変わらないとか、関係ない。

 サミュエルは、今日一日を生きることに必死だった。

 そうと考えれば、サミュエルの中でふつふつと煮えたぎっていた怒りが頂点に達する。

 懸命に身をよじった少年は、気の強そうな目つきを鋭くさせて、新任の領主を睨んだ。


「おいお前!! お前のせいで、母さんの薬代も払えねーんだよ!!!」

「ば、ばかあああああ!! 領主様に何て口を利くんだ!?」

「母さんが死んだらどうしてくれるんだよ!! くっそ、はなせええええええッ!!!!!」


 サミュエルをねじ伏せる女性は華奢な体格をしているはずなのに、びくともしない。

 今も無機的な顔で少年を見下ろしている。

 少年の目に余る言動の数々に、町の人々の顔からは色が失われた。

 ……これだけ暴言をはいてしまえば、血も涙もない領主はこの少年を生かしておかないだろう。

 きっと、考えうる限りの惨たしい目にあわせて、苦しみの果てに殺すに違いない……!!


 気温だけでない震えに支配された人々が、食べられる寸前の子ウサギように領主の言葉を待つ。

 うさんくさい眼鏡を押し上げたうさんくさい男は、にたり、口の端を三日月型に持ち上げた。


「……ほーん。母さんの薬代、ね」


 ひっ、誰かが悲鳴を上げた。

 ——このままでは、サミュエルの母親は惨たらしく処刑されてしまう……!

 過去これまでに起きた、領主の行ってきた恐ろしい罰則の数々を思い出し、街の人たちが震え上がる。

 新任の領主は透かし彫りの施された扇子を取り出し、嫌味ったらしい仕草でトントンと自身の肩を叩いた。

 ぐるりと周囲を見回し、よく通る声を発する。


「まとめ役はどこあるか? こいつ連れてくある」

「こ、こちらに!!」

「あとチビスケ、家どこね?」

「誰がチビスケだ!! お、お前なんかにいうもんか!!」

「はあ」


 見た目以上に、話し方もうさんくさい男だった。

 面倒そうにトントンしていた扇子をぴたりと止め、領主は案内しようとした男へビシリと扇子の先を向ける。

 びくん、大きく身体を跳ねさせた彼へ、興味なさそうに領主が口を開いた。


「お前、こいつの家に医者連れてくある」

「……は?」

「聞こえなかったあるか? こいつの家に医者連れてけっていったある。わかったらさっさと行くよろし!」

「は、はい〜!!!!!」


 扇子を持った手を振り上げる領主に、男が逃げるようにその場を飛び出す。

 口の横に手を当てた領主は、その細身以上の大きな声を張り上げた。


「いいか! この領地にあるもの、全てわたしのものね! 石ころ一個無駄にしないよ! わたし守銭奴ね!! ケチんぼある!!」


 唖然とする周囲を気にすることなく、ひと息ついた領主は、ぽかんと彼を見上げるサミュエルを見下ろした。

 にやり、口の端を歪める。


「チビスケ、治療費後払いよ。働いて返すある」

「は、はあ!? 金取るのかよ!?」

「当たり前よ! 世の中ビジネスね! わたしボランティアしない主義ある。きちっと支払ってもらうある!」

「先に言えよ! そんな金、どこにもっ」

「だーから、働けって言ってるある!!」


 涙目で震えるサミュエルへ扇子を突きつけ、領主が呆れた顔をする。

 ずれる眼鏡越しに細められた目は、うさんくさい印象をマシマシにさせていた。


「盗んだ金なんて、ほしくないね。雇ってやるから、きりきり働くある!」

「だ、誰がお前のところなんかで働くかよ!!」

「わたしに借金してるくせに、随分活きのいい口利くあるね。お前みてーな細もやし、他にどこに働き口があるか? ん?」

「お、お前に細もやしっていわれたくねーわ!!」

「うるっせーある!! 人のコンプレックス刺激すんじゃねーある!!」


 きいいッ!! ヒステリックに叫んだ領主が扇子を振り回し、機嫌の悪いウサギのようにドスドス地団駄を踏む。

 地面に転がるサミュエルへ、勢いよく扇子が突きつけられた。


「いいからコマネズミのように働くある! 毎日毎日こき使ってやるある!! いっひっひ!」


 あやしい高笑いを上げる領主に、サミュエルが絶望した顔をする。

 これが、サミュエルの奇妙な執事修行のはじまりであった。

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