俺は負けないよ。

「待て!」


 彼が走って追いかけてくる。彼は柔道をやっているので私の数倍体力はあった。すぐに追いつかれてしまう、そう思って私は走るスピードを速めた。しかし想定外のことに彼は私に追いつかなかった。あれ、と思った私が振り返ると息を切らし膝から崩れ落ちて苦しそうにしている彼が少し後ろにいた。


「大丈夫ですか?」


 私は彼から逃げていることも忘れ、苦しそうに肩で息をする彼に駆け寄った。大粒の汗が彼の額を伝う。私はハンカチを彼に渡した。


「最近柔道の練習を怠けていたからね。」


 私のハンカチを受け取りながら、息を詰まらせながらも彼は少し苦笑いをしながら言った。


「少し運動不足かな。」


 へへへと笑いながら彼は頭を掻いている。


「勉強のしすぎですよ。」


 私が手を差し伸べると、彼は私の手を取り起き上がった。


「大丈夫ですか?」


 その私の言葉にはあらゆる疑問が詰まっていた。きっと彼にはその全てが容易に伝わる。


「ああ、心配しなくていい。」


 彼は未だ冷や汗が引かない顔で、私に安心感を与えようと笑顔を作っていた。けれど笑った時に出る彼の涙袋がいつもより黒くて、私の心には一層彼を心配する気持ちが深く刻まれて、さっきまでの苛立ちなんて忘れてしまった。


「文太郎さん、私はそんなに頼りないですか?」


 私は彼の少しの気持ちも残さず、全てを汲み取ろうと彼の顔を覗き込んだ。そんな私の様子に彼はたじろいでいた。


「そんなことはない!」


 彼は私が目の前にいるにもかかわらず、叫ぶように言った。

 

 少し驚いて肩をびくつかせてしまった私に申し訳ないと思ったのか、彼は一つ大きな息を吐いて冷静さを取り戻そうとしていた。私は彼の肩に自分の左手を置いて、彼の気持ちが少しでも平穏になるように願いながらさすった。


 何度も噛みついた白あざのある左手で、誰かを癒したいと思う日が来るなんて、過去の私は想像すらしていなかった。


 私の手を愛おしそうに見つめる彼は、ゆっくりと大きくて立派な自分の手を私の手に重ねた。


 そんなに触ったらうつります、そう言おうと彼の顔を見ると、彼は私が言おうとしていることが全てお見通しである顔をしていた。お願いだから、今は何も言うな、そんな彼の言葉が私の手を握る力強さで感じ取れる。


「君がいるから俺は生きて行ける。」


 優しい彼の声が私を包んで何だか胸が熱い。


「どんな言葉を言われたって君がいると思えば、そんな罵りだってむしろ喜びだ。けれど君が居なくなったら俺は何もする気力がなくなる。いつから君はこんなにも俺にとって大切になったのだろう。」


 彼は一時も私から目を逸らさなかった。


 私の信じた人は、いつの間にか私の愛する人になっていた。

「気安く触れてしまえば君を壊してしまいそうで……」

 彼は恥ずかしそうに俯いてそう呟いた。私は自分の手に重なっていた彼の手を自分の口元に持って行く。一瞬だけ文太郎の手がびくついた。


 けれど私は構わずそっと彼の手に口づけをする。消毒用のアルコールの匂いがすうっと私の鼻腔を通る。彼は医者になるために誰よりも努力しているのだ。私はアルコールの匂いが染みついた太くてたくましい彼の腕を抱きしめた。抱きしめた彼の腕の指が、私の頬に流れた涙を拭う。


「綺麗だよ」


 彼のその言葉に胸の奥深くがツンとして、私は生唾を飲み込むのも苦しい思いがした。


 涙のせいで私の口から漏れる吐息が彼の手にかかってしまうのが申し訳ないような、けれど彼の手に私の吐息をかけて少しでも私を知ってほしいようなそんな甘酸っぱさに隠れた本能がぎらぎらと心の中で光る。


「今日はもう帰ろうか。」


 夕日も大分落ちあたりは暗くなり始めていた。

 彼はそう言うと私の顔の近くからの手を離し、私の手を握りなおすと何も言わず歩き始めた。


「あの……?」


 いつもは公の場で手を繋ぐことなどしない彼が、私の手を握り歩き始めたことで私はつい恥ずかしくなって追いかけるように足を動かし彼を見た。


「なんだ、口づけの方が良かったか?」


 笑いながら彼は言った。

 手を繋いだだけでもこんなにも心臓がうるさいのなら、口づけなんてしたら死んでしまう、私はそう思って首をぶんぶん横に振った。


「冗談だよ。」


 大半が落ちてしまった夕日に照らされる彼の横顔にはやはり疲労の跡があった。

 ちゃんと睡眠はとれているのだろうか、そんな心配が湧いたけれど、自分が彼の疲労の原因かもしれない、そう思うとうまく話を切り出せなかった。


「大丈夫だ。」


 彼はそう言いながら私を見た。


「俺は負けないよ。」


 そう言って彼は私の手を握る手に力を込めた。その暖かさは出会った時と変わらない。強くて優しくて、私に勇気をくれる。


「ええ、分かっています、文太郎さん。」


 私はその愛おしくて大切な笑顔に、白あざのある私の笑顔を見せた。


 私はこれから先の人生、きっと彼しか好きにならない。そう思わせるほどに彼は私を何度でも夢中にする。けれどそれがとても幸せな日常だった。

 差別がなくなることはきっとない、ならばせめて彼だけは失いませんように、私は消えかけている夕日に向かってそう強く祈った。

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