クッキーは世界を救う!
神野咲音
第一部
序章
第1話 おちる
「その顔だ。お前のその顔が、絶望に歪むのが見たいのだ」
辺りは血の海だった。ひゅうひゅうと喉が鳴る音が、遠くに聞こえるような気がする。辛うじて握り込み手放さなかった槍が、怒りの唸りを上げている。ごうごうと鳴り止まない風の唸りの向こうで、
どうにかして立ち上がらねばともがく。左手の指先が引っ掻いた雲が、削れて欠片となって流されていった。
「楽になど死なせてやるものか。地獄を見るがいい。苦痛と怨嗟と悲嘆に満ちた顔を晒せ。その瞬間を、俺は待ち侘びている」
「……ぐっ、ぅ……!」
背中の傷を踏みにじられて、噛み締めた唇から声が漏れた。血と共に命とも言うべきものが流れ出していくのが分かる。
天高く浮かんだこの雲の上で、この魔王と二人きりにされた時から、助けなどは期待できなかった。いや、助けを求める立場ではない。己の力だけで、この窮地を脱しなければ。そう思うのに、体は動かない。無様にも転がったまま、槍を振り上げることさえできないのだ。
怒りと屈辱で沸騰する頭で、上に立つ魔王を睨み上げる。視界は霞み、ぐらぐらと揺れていたが、それでも男の顔から笑みが消えたのは分かった。
「……お前の地獄はこの雲の下にある」
「く、そ……っ」
槍を引き寄せようと震える手に力を込めた時、別の場所から叫び声が聞こえた。それは倒れている自分の名を呼ぶ声で、驚きと怒り、そして隠し切れぬ恐怖に満ちていた。
首だけを動かせば、部下が愕然と目を見開いて立ち尽くしているのが見えた。
「貴様、よくも!」
見る間に憤怒の形相となった部下が、素手で魔王に掴みかかる。武器も持たずに、なんという無謀なことを。この後先を考えぬ特攻には魔王も驚いたようで、倒れ伏したまま動けない自分に背を向けて部下に向き直った。
その隙を見逃すはずがない。
灼熱の痛みを一瞬だけ忘れ、鉛のように重い体に鞭打って槍の穂先を跳ね上げた。魔王の背後から突き上げた切っ先が、体を捻った男の頬を浅く切り裂く。
驚愕の視線をこちらに向けた魔王の瞳に、憎悪の炎が燃え上がった。
「その状態で、まだ諦めないと……!」
蹴りが腹に突き刺さる。もんどりうって転がった体は、もはや指の一本すら動かせなかった。ぐったりと四肢を投げ出したままなんとか視線だけを動かすと、再び掴みかかった部下を吹き飛ばし、魔王がゆったりとこちらへ歩いてくるところだった。
ぎらぎらと瞳を光らせて、魔王はいっそ見惚れてしまうほどの毒々しい笑顔を浮かべてみせた。
「堕ちていけ。その様を俺に見せろ」
最後は呆気なかった。
爪先でとん、とつつかれただけで、言うことを聞かない体は雲の端から滑り落ちていく。
「やめ……! ッフィスク――!」
絶叫が遠ざかる。落下を止める術はなく、血も力も失って意識は黒く塗り潰されていく。
耳元を駆ける風の音は、一番好きな音のはずだったのに。
泣きたいような気持ちで、途絶える意識の間際にそう思った。
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