手のひらに、幻想初恋
階田発春
うたかたの彼氏(BL)
ああ、そうだ。あの時、凪いだ海を見に行ったのだ。そうしたら波に一つのほころびが見えた。それは徐々に大きくなり、「あっ」と思った時には、「それ」は俺に手を振っていた。振り返すと、俺の手を掴むように波が伸びた。
「俺に着いて行きたいの?」
波は頷いた。
「じゃあ、人の形になれる?」
波は、大型犬のような顔をした一人の男性の姿になった。
「これでいい?」
波は口を開いた。
「上々」
俺は波の手を引いて海辺を出た。こうして波との共同生活が始まった。
波には体の使い方を一から教えなければならなかった。地面の歩き方、ドアの握り方、靴の履き方、窓の開け方———。
波は毎日コップ五杯の水を必要とした。体は完全に水で出来ているらしかったのに、触ると人間の皮膚の感触がした。これは最後まで何故なのか理解できなかった。
波との生活は当たり前のように過ぎていった。
二人でベッドに入り、波の体を抱きしめていると、静かなさざ波の音が聞こえた。愛おしくなってキスをすると、まるで濃縮した塩水をなめたような味がした。俺は慌ててゴホゴホとせき込んだ。波は「ニンゲンは空気みたいな味がするんだね」と、ケラケラ笑った。
ある日、俺は包丁で指を切ってしまった。慌ててばんそうこうを貼る俺を見て、波は目を丸くした。
「ニンゲンも水でできているの?」
「そうだよ」
「知らなかった。石のような、硬い何かで出来ていると思った」
そう言ってから、波は幸せそうに目を細めた。
「おれとおんなじだ」
波の様子がおかしくなったのは、秋も暮れていった頃だった。
足並みはよろよろと重くなった。時折窓の外を眺め、どこか遠くを見つめる日々が続いた。俺にはその理由が想像できた。
「海に帰りたい?」
波は俺の言葉を聞いて、はっとした顔で振り返った。
「…水だけじゃ体を保てないんだ。体中に力を入れてないと、どろどろと溶けてしまいそうになる」
「もし、このままで、君が君で無くなってしまうくらいなら」
「でも、おれ、帰りたくない…」
悲しそうに呟く波をそっと抱きしめた。体から波の音は聴こえない。目の前に誰も存在しないみたいに、何の音もしない。まるで空虚だ。さっと血の気が引くのを感じた。
決意して、波の手を引き海まで戻った。海は俺たちを歓迎するように、揚々と波打った。
「今夜は月がきれいだね。真ん丸で」
波は月を見上げた。その目に生気はまるでない。だけど、それに映り込む月は、水に濡れたようにキラキラと光っていた。
「おれはここから月をずっと見上げていた。何百年、何千年も、ずっと」
波は俺に向き直った。
「これからまたそうなるんだ」
「また俺のところには戻れないんだ?」
「それにはまた時間がかかる。ざっと千年くらい。ニンゲンはそこまで待てないでしょ?」
「その頃には死んでしまうからね」
感覚が違うのだ。不老不死の恋人をもつということは、そういうことなのだろう。
名残を惜しむようにキスをした。海の味はずいぶんと薄まり、まるで人間のような味がした。舌先で相手の口内をくすぐるたびにお互い笑い合う。当たり前のキスが出来たことが心の底から嬉しかった。
「じゃあ。おれ、帰るよ」
何気ない口調でそう告げられ、急に空気がしんと静まった。
「会えなくてもまた来て欲しい」
「うん。必ず」
波は振り返らず海へと歩いて行った。頭まですっぽりと沈んでしまった…、かと思えば、水面から手のひらが少し浮かび、おどけるようにバイバイと手を振った。俺も手を振り返した。その手もやがて沈んだ。そうして海は、たださざ波を繰り返すだけになった。それをぼんやりと眺めていたが、やがて黙って砂浜を去った。
それが、かぐや姫よりも短い、俺たちの生活の全てだった。
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