ユリ

朝凪湊

ユリ

――悲しくはないのかい?

いいえ。

――苦しくはないのかい?

いいえ。

――嬉しいのかい?

いいえ。

――じゃあ、なんだというんだい?

何も。

――何も?

はい。何も。

――なぜかな?

私には、感じる心はインプットされておりませんから。


 E457。それが私の個体識別番号である。たれ目で、右目下に泣きぼくろがある。優しげな印象、というのが開発者である鴻上祥吾主任の言葉だ。彼はオレンジ髪に金の瞳と、日本人離れした格好をしているが、本人曰く、「こっちのほうがかっこいい」だそうだ。

 本日、私はとある人物のもとに「贈り物」として派遣されている。送り先は椎木徹様。鴻上主任の旧友らしい。とても頑固だろうけど、いろいろサポートしてやってと鴻上主任から言われた。

 緊張、などということを私はできない。それは私が機械だからであり、それが利点である、と教えられた。心的要因から身体に異常をきたす場合もあれば、緊張などにより失敗をしやすくなる場合もあると主任は言っていた。なるほどそれは欠点である。

 インターホンを鳴らし、出てきたのはおそらく椎木氏と思われる人物であった。黒髪黒目で口元にほくろが一つ。聞き及んでいた特徴と合致する人物であった。

「……」

「初めまして、椎木徹様。私、鴻上祥吾主任より派遣された個体識別番号E457です。本日より、よろしくお願いいたします」

 プログラムされた通りの礼と笑顔で言葉を紡ぐ。自然に見えるように顔は作られている。笑顔は不快感を与えないようにする第一歩である、と主任は語っていた。

 椎木様はじっとこちらを見つめる。この方は私よりも表情筋が乏しいのだろうか。

「……名前は」

「番号以外はありません。好きなようにお呼びください」

「普段は何と呼ばれているんだ」

「ユリ、と」

「……じゃあユリさん。あがって」

「はい。失礼します」

 椎木様に促されて家屋へ上がる。案内されるままリビングへと向かう。椎木様はお茶を出してくれた。

「私は鴻上主任から椎木様への贈り物としてこちらに派遣されました。したがって、本日よりこちらでの生活の許可をお願いします」

 椎木様は無言で首を縦に振った。それを許可と認証し、システムに視覚情報が刻まれる。

「では、こちらが鴻上主任からの手紙です」

 カバンから白い封筒を差し出す。椎木様は疑わしそうな顔で受け取り、少し乱暴に封を切る。三枚ほどの便せんをゆっくりと眺め、しかめっ面をした。

「じゃあ、これからよろしく。……ユリさん」

「はい。不束者ですがよろしくお願いいたします」

 おう、という言葉だけが返ってきた。


 椎木様と過ごしておよそ半月。業務連絡以外の会話は一切存在せず、椎木様はあまり私と目を合わせたくないようだった。終始無表情で、指示だけ出して作業に没頭している。椎木様が仕事で部屋にこもるときは掃除や洗濯をして過ごしている。するべき仕事がなくなったら、与えられた部屋で作業報告を主任へ送付する。あとは何もせずただじっとしているのだ。

 ある日、椎木様が珍しく私の様子をうかがいにいらっしゃった。

「……ユリさん、何もしていないんですか」

「はい。本日の業務はすべて終えたので」

「そうですか」

 椎木様はまたお部屋に戻ってしまった。会話、というものをあまりしないのは椎木様の特徴なのか、それともただ私と会話したくないだけなのか不明である。鴻上主任宛の報告に対する返信には、「無愛想だけど、悪い奴じゃないから少しずつコミュニケーションをとってごらん」とあった。

 コミュニケーションというものは基本、相手がいて成り立つものだと教わった。また別に、コミュニケーションツールを用いて親交を深めるという場合もあるとあった。しかし、椎木様の場合、どれも私には難しそうなことであった。

 ただひとつ、椎木様に私が関係することといえば――。

「椎木様。本日は私もご一緒させていただいてよろしいでしょうか」

 夕食時。椎木様は眉間にしわを寄せたままで、なぜだと尋ねた。

「椎木様と会話がしたいのです」

「……そうですか」

 別段否定されているわけでもないようだった。そこに甘んじ、私は初めて椎木様と食事を共にした。私は必要ならば食事をしてもよいように作られていた為、都合が良かった。

 椎木様は黙々と食べ進め、こちらを時折一瞥する。けれど言葉を発することなく、食事を再開する。通常時より食事のペースが速いような気がした。

 ぴり、と胸に違和感とでもいうべき痛みが一瞬だけ生じた。

「……?」

 けれどそれは本当に一瞬で、どこかのパーツが擦れたのだろうと思われた。

 夕食を食べ終え、食後のコーヒーを飲んでいる椎木様に尋ねた。

「椎木様。お食事はいかがでしたか」

「……悪くなかったです」

 それならばよかった。ふ、と少しだけ口の端から空気が漏れた。

「……お前、そんな顔ができたのか」

「……? なんのことでしょうか」

 椎木様は何でもないと言って黙り込んでしまった。コミュニケーションを、と思いささやかな話題を振るが、「そうだな」「あぁ」以外の言葉が返ってこない。けれどその曖昧な返事だけでもあって、少しは進歩しているのだと感じた。

 このまま少しずつ、椎木様と会話が増えればいいなと思ったことは主任にも報告していない。初めて隠し事をした。


 私が初めて椎木様の家に来てから数年たった。今となっては元いた研究所よりも熟知した場所となった。私がすることは変わらないが、椎木様との会話は初期に比べ格段に増えたと言える。この点に関しては主任も大喜びで、返信には顔文字がこれでもかと載っていた。

 椎木様は私を「ユリ」と呼ぶ回数が増えた。初めて呼ばれたときはどうしたのだろうかと疑ってしまったが、回数を経るにつれ、呼ばれることに嬉しさを覚え始めた。私の口調をすこし砕けたものにするよう指示が来たので、その通りにした。今は椎木様を「徹さん」と呼ぶようになったほどに、私たちのコミュニケーションはうまくいっている。

 ただ一つ、問題があるとすれば、私の方だった。胸部が痛みを覚える頻度が増していると気づいたのは随分と前で、検査もしたがどこにも異常は見られなかった。不思議なこともあるものだと思い、そのままにしておいた。


 けれど、その痛みはだんだんとひどくなり、私はある日ばたりと倒れてしまった。あぁ、故障したのだろうか。……きっと、主任ならまた直してくれることだろう。

 あの人は、どうなるのだろう。

 徐々にブラックアウトしていく視界の中、私はそんなことを思った。


「ユリ」

「はい、何ですか? 徹さん」

「あのさ、今日は遅くなるかもおしれないんだ。だから先に寝てて構わないから」

「あらあら。遅くなるのは今さらでしょう。大丈夫ですよ、最近は体の調子もいいんですから」

「それでも無茶はしないでくれよ」

「はいはい」

 そんな会話が聞こえた。仲がよさそうな夫婦の、他愛ない会話の一つだ。互いに対する思いやりが感じられるワンシーン。けれどそれは妻が倒れることで一変した。


「ユリ。大丈夫か」

「はい。少しばかり風邪をこじらせただけですよ。そんな泣きそうな顔をしないでください」

 仕方のない人だなあ、と苦笑し、けれど嬉しそうな色がにじみ出ていた。


 妻はある日、夫の同僚と一対一で話していた。話題が彼女の今後に関するものであるにもかかわらず、そこに夫の姿はない。

「鴻上さん。私の体がもつ間に、あることをしてほしいのです」

「ユリさん、どうしたの。そんなかしこまって」

「私の記憶を消してください」

「……どうしてか、聞いても?」

「……徹さんはきっと、私が死んだら悲しむでしょう。けれど、その悲しみをできる限り軽くしてあげたいのです。私が彼を忘れて、別の存在になれば叶うと思いまして」

 その願いは痛いほどに真剣で、拒否することが許されないほどにまっすぐだった。

「……ユリさんの希望とあれば、僕も断れないよ」

「……ありがとうございます」

 彼女はとてもほっとしたような、すこし悲しいような表情で再び眠りについた。


 とても断片的な記憶。けれど事実を知るには十分すぎるものであった。「ユリ」は、椎木徹を愛していた。だからこそ、鴻上は再び徹の下へ「ユリ」を送ったのだ。ロボット、と称してまで。記憶の改ざんは鴻上にとっては造作もないことだった。彼の研究がまさにそれだからだ。

 椎木徹は彼の縁故の友人だった。その縁あってか、鴻上は「ユリ」のことを知っていた。彼女の優しさも、何もかもを知り、それで何度助かったかは知らない。だから余計、彼女の初めての頼みを断るほどの勇気や決断力を持ち合わせていなかった。

 ぴ、ぴ、ぴ、と規則的な音が聞こえる。ゆるゆると瞼を上げると、真っ白の天井が見えていた。それをぼんやり見つめる。

 右手に温かさを感じ、そちらの方へ視線をやると、椎木様が私の手を握って眠っていた。

 目の下のクマが、徹さんがどれだけ寝ていないかを主張し、余計に胸を締め付けた。真っ白なシーツを眺めて、鴻上さんが私のわがままを聞き届けてくれたことをゆっくり理解した。徹さんの髪を撫でようと手を持ち上げてからやっと、自分の体の限界を知り、なぜか笑みがこぼれた。薬でごまかし続けた体には、もう病魔に対抗する力がないのだ。

「椎木様」

 徹さんを起こそうと少しだけ手に力を籠める。ばっと飛び起きた徹さんの頬にはシーツの痕がうっすらと残っていて少しだけ笑ってしまう。

「ユリ……っ」

「椎木様。お運びいただきありがとうございます」

 笑え。泣くな。悟らせるな。その一心で彼女は言葉を吐く。

「……あぁ、気にするな」

「椎木様。失礼ながら、最後に一言、よろしいでしょうか」

「……っ最後とか、言うな……」

「椎木様。泣かないでください」

 ユリは儚く笑い、最愛の人へと言葉を送る。きっと二度と目覚めないだろうと、霞む視界でぼんやり思いながら。

 ピーーー。

 その電子音は無慈悲に、男の胸を締め付けた。


 アンドロイド「ユリ」はその機能を停止した。

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ユリ 朝凪湊 @minato1107

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