抄録
雨中若菜
抄録 雪の降る夜に
宿の自室に着くなり、俺は槍を壁に立てかけてベッドに寝ている病人のもとに向かう。
「満月の夜だから、てっきりお前は無敵だと思っていたんだが」
「......そうでもないですよ。どんなに見た目が変わろうが、強大な力を持とうが、私は生物の枠組みから抜け出せませんし......」
布団を顔の半分まで被りながら病人は残念そうに答える。
ベッドに隣接する窓から外を覗くと、空がほんのり隠れる程度に曇ってきて、雪がちらついている。今日は冷えるな。
「寒くないか?」
「......大丈夫です......」
彼女はそう言っているが、厚着をしている俺でも寒さを感じる。彼女ならもっと寒く感じていることだろう。
「お前に聞いた俺が馬鹿だった。お前はどんな時でもその言葉ばかりだからな。待ってろ、今暖炉に火入れるから」
俺は暖炉のもとに向かい、火かき棒で灰をかきながらぼんやりしている病人を思う。
彼女の名はアレス。俺と同じく対魔王軍総司令セルナティト様に仕える身であり、総司令の忠実な盾である。人狼の血を引いていて、戦場では平気な顔で一騎当千を成し遂げるようなとんでもない奴だ。
どうしてそんな彼女がここに居るかというと、やはり総司令の命令でこの街で重要書類を俺に届けに来ていたところ、倒れていたからだ。
路地裏で倒れているのを見つけたときは一瞬焦ったが、意識は無いものの息をしていたことはよかった。
暖炉に薪をくべて暖炉に描かれている発火の魔法陣に魔力をこめ魔法を発動させる。
これで少しは暖かくなるだろう。
上着掛けにコートを掛け、俺は再びベッドに向かう。
窓の外に広がる家々から綺麗な満月が顔を出す。しかし、アレスは狼にならずにぼんやりと窓の外を眺めている。
「お前、人の街に行くからって薬使ったろ」
俺がそう指摘すると、彼女は動揺し枕を顔の上に載せ首を振った。
しかし、満月が出ているのに人の姿であることが何よりもの証拠である。熱で意識が朦朧としつつも薬を使って弱っているところを見せたくないというプライドでこんな言い訳をしているのか。
アレスは人狼故に満月の夜になると狼となり理性を失うことがある。それを防ぐために在るのが獣化鎮静剤だ。しかし、その薬は体に多大な負荷をかける。使いすぎると衰弱死してしまうことがあるほどだ。
「いくらセルナティト様の命令とはいえ体壊したら元も子もないんだから、薬を使わなければいけなくなったら断れ。もし、今回のように任務を達成する前に倒れて敵に襲われたらどうするつもりだったんだ?」
「......そのときは、その時で、対処します......それに、セルナティト様の為ですから......」
「全く、お前の忠犬ぶりには驚きだ。アレス、少しは自分の心配をしろ。自分で生物の枠組みから抜け出せないと知ってるんだろ」
「......はい......」
アレスは枕を乗せている上にさらに布団を被った。それ程自分を情けなく恥ずかしいと思っているのだろう。
「暫くそこで反省してろ。今、夕飯の用意をしてくる」
俺はそう言ってアレスに背を向け、机の上の紙袋を漁った。
町には夜が訪れ、人気は無くなり、静寂があたりを包む。
その中に、凛として透き通るようなアレスの声が響く。
「......今日は、月が綺麗ですね......」
「ああ、そうだな。こんな綺麗な月の下でなら、死んでもいいくらいだ」
「......そう、ですね......」
「夕飯は少ないが、簡単な物でいいか?」
俺が缶詰片手に振り返ると、アレスは既に眠っていた。
傍によると、頬を赤く染めつつも静かに寝息をたてている。
俺はベッドの脇に座って、手に持った缶詰を開けながら外を見る。
月明り照らす中、雪はまだ深々と降っている。
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