隔世(へだてよ)の門

 翌朝、紅華べにかお嬢様が待ちかねたように言った。


「さあ! 異世界への門とやらに案内してもらいましょうか!」


 そう意気込むお嬢様は、登山用のバックパックを背負っていた。


「お嬢様、そのリュックは?」

「だって、異世界に行けるかもしれないんでしょ? テントや糧食、他にも必要なものがたくさんあるわ!」

「本気で言ってるんですか?」

「ケイ、あんたこそ、なんの準備もしてないわけ? わたしもマジで信じてるわけじゃないけど、ノリってもんがあるでしょうが!」

「よかった。さすがに信じてないですよね」

「そりゃそうよ。こういう伝説のたぐいは九割がた嘘だもの」

「むしろ残りの一割は本当なんですか?」

「あーもう、うっさいわね、ケイ! これからって時に水を差さない! 行けなかったら行けなかったでいいじゃない! その時は裏の山にでも登ってキャンプすればいいわ!」

「……ま、それもいいですね」


 僕も一応、飲み物やお弁当くらいは用意してある。

 もちろん、異世界行きの話を信じてたわけじゃなく、お嬢様がそんなことを言いだすだろうと思っただけだ。

 執事である僕は、あらゆる事態を想定して動くのだ。


「さあ、行きましょう! じい、さっそく案内して!」

「よろしいでしょう。約束ですからな」


 僕たちは箸蔵さんの案内で、隔世へだてよの門とやらを見に行くことになった。

 




 そしてその十数分後。

 僕とお嬢様は異世界にいた。


「……マジで?」


 僕は、何度目かになるつぶやきを繰り返す。


 草原が、見渡す限り広がっていた。

 僕とお嬢様が立っている地点から、草原は奥に向かって緩やかに下っている。

 草原に生い茂った草は、いずれも見たことのない種類のものだ。青や赤、ピンクといった鮮やかな色のものや、かすかな燐光を放つものまであった。


 草原の先には、こんもりとした森が広がっている。

 手つかずの森からは、得体の知れない獣の鳴き声らしきものが聞こえてくる。


 目を上に転じると、空には地球のものより若干大きい太陽があった。

 僕は、太陽にぎらつく樹海の彼方へと目を凝らす。

 地平線近くに、城壁に囲まれた街らしきものがかろうじて見える。ここからではほとんど米粒大だ。


 ざあっ……と、草原を風が吹き抜けた。

 嗅いだことのない花の香りが僕の鼻をつく。


 僕の五感は既に、ここが異世界だと確信していた。

 僕の理性のほうは、そんなことはありえないと、何十度目になるかわからない抗議をしていたが。


 僕は、後ろを振り返る。


 僕とお嬢様の背後には、今くぐってきた「門」がある。

 漫画の吹き出しのようなギザギザの縁をした、紫色の門である。

 門に戸板はなく、紫の縁の中に黒い渦のようなものがあるだけだ。


 こんな正体不明なものの中に飛び込むなんてどうかしてるが、お嬢様が飛び込んでしまったのだからしょうがない。


「う、そ……」


 さすがのお嬢様も、目を見開いて固まってる。


 その間に、僕は門に首を突っ込んでみる。

 一瞬のめまいの後に、僕は屋敷の地下室へと首を出す。


「ど、どどど、どういうことでありましょうか!?」


 箸蔵さんが、動揺していた。

 この屋敷に務めて結構になるけど、こんなにうろたえた箸蔵さんを見るのは初めてだ。


「どうも、本当に異世界につながってるみたいです」

「そ、そのようなことがあるわけが……っ!?」

「僕も正直、自分の正気を疑ってますよ」

「お嬢様はご無事なのですか!?」

「はい。出た場所は草原で、今のところ危険はありません」

「今のところ、ですか」

「ええ、まあ……」


 歯切れ悪く、僕は答える。

 もし今出た場所が異世界なら、この世界の常識だけで判断するのは危険だ。

 異世界なんてものが実在してた時点で、地球での「常識」はまったく当てにならないゴミと化した。


「……話になりません。私もそちらに参ります」

「わかりました」


 僕は首をひっこめる。

 めまいのような感覚とともに、僕の首から先が異世界へと戻ってくる。

 しばらくそのまま待ってみたが、箸蔵さんが一向に門から出てこない。

 僕はもう一度、門に首をつっこんだ。

 すぐ目の前に、箸蔵さんが困惑した顔で立っていた。


「どうしたんですか?」

「通れなかったのです。私が門に入ろうとすると、何かに強く拒まれるようでした」

「そんな……僕とお嬢様は通れたのに」

「何か条件があるのでしょうな。最もありそうなのは年齢でしょうか」

「ああ、なるほど」


 僕とお嬢様はともに17歳。

 箸蔵さんがいくつかは聞いたことがないが、もう六十は超えていたあったはずだ。


 とはいえ、三人だけではサンプルが少ない。

 まったく別の条件だったとしても不思議はない。


 そこで、僕はふと気づいて聞いてみる。


「箸蔵さん、どのくらいの時間、門に入ろうとしてましたか?」

「二、三分ほどでしょう」

「ということは、こっちとあっちで時間軸がズレてる可能性はなさそうですね」

「むぅ……そのような可能性もありましたか」


 異世界と元の世界の時間軸にズレがある、というのは、異世界転生モノのあるあるだ。

 詳しく検証する必要はあるが、今のところ大きなズレはないようだ。


「とりあえず、門が一方通行じゃなくてよかったです」

「まったくですな。紅華お嬢様が後先考えずに突っ込んでいかれた時はどうなることかと思いました」

「直感で安全そうと思ったんでしょうね」


 お嬢様のそういう直感はよく当たる。

 これはオカルトではなく、本当にそうなのだ。


「すぐに帰ってきていただきたいところなのですがな……」

「いやぁ、それは無理でしょう」


 異世界なんていう人参を鼻先にぶら下げられて、お嬢様が黙って引き返すとは思えない。


敬斗けいと君。紅華お嬢様のことを頼みますよ」

「もちろんです。命に代えてもお守りします」

「……君には言うまでもありませんでしたね。とはいえ、事態が事態です。私もできることならそちらに行きたかったところですが……」

「でも、屋敷側で門を見張ってる人も必要ですよ。この隔世へだてよの門を通って、異世界あっちから屋敷こっちに何者かが侵入しないとも限りません」


 もっとも、この門がずっと以前からあったのだとしたら、これまで屋敷側に侵入してくる者がいなかったのは不思議である。

 年齢以外にも、門を通過する条件があるのかもしれない。


「たしかにそうですな。今日一日は、私がここを見張っておりましょう。お嬢様には、夕食までに一度お帰りになるよう、お願いしておいてください」

「素直に帰ってくれるといいんですけどね」


 まあ、箸蔵さんが地下室でずっと見張りをしてるとなれば、お嬢様も気兼ねして、早めに帰ろうと思うかもしれない。

 我が道をいくお嬢様ではあるが、そうした気遣いはできるのだ。


「では、あちらに行きます。お嬢様を放っておくのはまずいですので」

「ですな。くれぐれも見失わないよう気をつけてください」

「当然です」


 僕は、門から首をひっこめる。

 薄暗い地下室から明るい草原へ、一瞬にして視界が変わる。

 門の出入りのめまいとは別に、明暗の差で目がくらんだ。

 一度、強めにまばたきをする。

 それだけで、まぶしさを感じなくなった。

 僕は、自分の意思で瞳孔を開閉することができるのだ。


「お嬢様?」


 僕の声に、お嬢様が振り返る。

 さすがというべきか、お嬢様は既に冷静さを取り戻したようだった。


「箸蔵は来ないの?」

「箸蔵さんは通れないみたいです」

「通れない? 門を?」

「はい」

「ふぅん? つまり、選ばれた者にしか通れない門ってわけね! わたしたちはこの世界に選ばれたのよ!」

「どうしてそういう結論になるんですか……」


 僕は大きくため息をつく。


「それより、あれを見て、あれ!」


 お嬢様が、草原の一画を指さした。

 そのお嬢様の手には、総合格闘技用のオープンフィンガーグローブがはまってる。

 リュックの中から取り出したのだろう。

 上着はジャージ。下半身はタイツとスコート。軽装のようだが、防刃性のある素材で作られた特注のものだ。

 足元はコンバットブーツで固めている。


 お嬢様が指さした先を、僕はじっと凝視した。

 陽光を照り返す草葉の間に、ゼラチン質の何かが見えた。

 かなり大きい。

 ちょっと前にSNSで話題になった、「人間をダメにするソファ」と同じくらいのサイズだろう。

 その「何か」は、ぷるぷるとゆっくり震えていた。


「ええと……まさか、スライム?」

「どう見てもそうよね」


 半信半疑の僕に、お嬢様がうなずいた。


「殺気は感じませんね」


 そのせいで、ここに出た時には気づけなかった。

 これは、反省材料だ。

 異世界なんだから、「危害を加える意思を持つ者は殺気を漏らす」という常識自体、疑ってかかる必要があったのだ。


「ぷるぷるしてるだけみたいだけど、危険がないとは言い切れないわ」

「殺気がないのはかえって怖いですね」

「あんな外見じゃどう動くかもわからないしね」

「……それなら、お屋敷に戻りましょうよ」

「何言ってるのよ! 異世界なのよ!? 超強いモンスターがいるかもしれないじゃない!」


 お嬢様が、目を輝かせてそう叫ぶ。


(超強いモンスターがいる=戦いたい、だもんな)


 僕としては、「超強いモンスターがいるかもしれない=撤退」と考えたいのだが。


「近づいてみるわよ!」

「あ、待ってくださいよ!」


 スライムに近づいていくお嬢様を、僕はあわてて追いかける。

 お嬢様は気配を殺し、慎重な足取りで、スライムとの間合いを測っている。


「……間合いがよくわかんないわね。ま、適当でいいでしょ。たいして強くなさそうだし」

「そんないい加減な」


 そりゃ、ファンタジーでスライムといえば雑魚の代名詞だけど。

 でも作品によっては、物理攻撃に耐性があるとか、属性魔法を使うとか、溶解液で敵をドロドロにするとか、敵に纏わりついて身動きを封じるとか、「実は侮れない」ポジションにあることもある。


 お嬢様がスライムに三歩ほどの距離まで近づいた時のことだ。


 ――プギィィィ!


 耳障りな声を上げて、スライムがうみょんと縦に伸びた。

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