異世界無人島生活──人魚付き

遊座

第1話 ここはどこ わたしはだれ



 上下左右、濃淡のわずかな違いはあれど、全てが鉛色だった。


 用心深い男が慎重に慎重を重ねて、なお踏み抜いてしまったヒステリックな女性の心のように荒れ狂う大海原を、淡い光が翻弄されるように揉まれていた。


 その光の元は最後の力を振り絞って助けを呼ぶ。


 わずかに残された魔素が音波となって、救助者を探して大嵐の海中を駆け巡った。


 大型の船でも帆を畳んで風をやりすごすしかない状況では、分の悪すぎる賭けだった。

 それでも、そうするしかない。


 やがて淡い光は儚く消え失せ、その光が守っていた対象も荒れ狂う狂騒の波に消えた。



 昨日の嵐が嘘のように、晴れ渡る空の下、頬を撫でる波がようやく男を目覚めさせることに成功する。


 男はふらふらを立ち上がると、砂浜を歩きだす。


「……み、みず……」。


 海水の塩分が彼の身体から水分を奪い、焼け付くように喉が枯れていた。


 砂浜から少し歩くと、五メートルほどの黒い岩壁があり、その下には何か大きな実が転がっているように見えた。


 その中味に期待して近づいていく男は、途上で実が半分に割れていることに気づき、絶望しかけるが、それこそが救いであった。


 ちょうど半分に割れて器のようになった大きなヤシの実の殻に、昨日の雨水がたまっていたのだ。


 むしゃぶりつくように水を飲む男。


「……ふう、こんな美味い水は初めてだ。……かと言ってこんな美味さを味わうために、またこんなに喉を枯らしたいとは思わないがな……」。


 男はようやく落ち着いたのか、ひとちてから周囲を確認する。


 バカンスで訪れたなら、きっと日ごろの喧噪を忘れてゆっくりと癒されそうな白砂しらすなの浜の先に、どこまでも青い海と青い空が広がっていた。


「……ここは一体どこなんだ…… ? それに……俺は一体……誰なんだ…… ? ……ダメだ……何も思い出せない……」。


 自分の名前すら思い出せない男は何か手掛かりはないか、と自身の身体を眺める。


 そこには一糸いっしまとわぬ全裸があった。


 いや、唯一彼が身に着けているものもある。


 斜めにたすき掛けされた革のベルト、その両端は剣の鞘につながっていた。


 男はぎこちなく右手を肩の辺りにやり、恐る恐る柄を掴んで、剣を引き抜いてみる。


 飾り気のない、質実な剣だ。


 剣身が降り注ぐ太陽を反射し、男は思わず目を細めるが、そこに映る自身の顔をまじまじと見つめた。


「……黒い髪に黒い瞳に……黒い髭モジャか……。それに全裸なのに剣だけを装備している……」。


 男は記憶を失った自らをプロファイリングし始める。


「ここから導き出される解答……どうやら俺は『狂戦士バーサーカー』だったようだな。恐らく普通の戦いには満足できなくなり、防具を全て捨てて相手と対峙するという狂った戦いに酔っていたんだろう。上級者ゆえの縛りプレイ、いやこの場合は防具と常識から解放されているから解放プレイか…… ? 」。


 男は改めて自身の上半身を観察する。


「それに……古傷のようだが……動物による噛み傷と引っ掻き傷に……おおきな円形のあざ……銃創みたいのまでありやがる…… ! 一体どんな相手と戦ってきたんだ…… ? 俺は」。


 男はすでに塞がっている傷跡を軽く撫でたが、それによって戦いの記憶を思い出すことはなかった。


「……まてよ、今の俺は理性的と言っていい。戦いを望んでいるわけでもない。これは『狂戦士』と言えるのか…… ? 」。


 本物のプロファイラーが聞けば、理性的どころか妄言としか思えないような分析を行った男は、再び自らを省みる。


「……いや、恐らく戦うに値する相手と向き合った時だけ、リミッターが解除されるか何かして、強大な戦闘力を得る代わりに理性を失うのだろう……。そして戦闘中に海に落ちてここまで漂流したってところか……」。


 自らの素性を設定し終えた男は、立ち上がる。


 喉を潤した次は、この空腹をなんとかするために。


 そして、目が合った。


 その女は海から上半身だけを出していた。


 茶色い長い髪に、大きなとび色の瞳、日焼けした褐色の肌。


 男は人に出会えたことに安堵して、ゆっくりと女に近づいていく。


 しかし、距離が縮まるにしたがって、女の顔は険しくなっていく。


(……友好的な原住民かと思ったが……ん ? そうか…… ! )。


 彼は慌てたように手にしたままの抜き身の剣を砂浜へと放り投げる。


「すまない……警戒させちまったな……敵意はない……」。


 ゆっくりと両手を広げて、何の武器も持っていないことをアピールして、微笑みを浮かべながら男は海へ入っていく。


 スパァァァァァァアアアアアン !!!!!!!!!!


 心地よい炸裂音が響いた。


 吹き飛ぶ男と、手に持った平べったい魚をテニスラケットのように振りぬいた体勢の女。


「へ、変態…… ! 」。


 そう吐き捨てて、女は海へと消えていく。


 その下半身は美しい青い鱗に覆われた魚のものであった。


「……とりあえず食料は入手できたようだ」。


 浅瀬に全裸で仰向けに浮かびながら、傍らに同じように力なく浮かぶ、今さっき打撃武器として使用された魚を見て、男も力なく呟いた。




「うう……何が『変態 ! 』だ……。自分だって痴女みたいな格好だったくせに……」。



 男は小さな白い貝殻二枚で胸を隠した気になっている人魚を罵倒しながら、片手は赤くなった頬をさすり、もう片手は平べったい、卓球のラケットほどの大きさの魚を持って、砂浜を歩く。


「暑い……砂自体も熱くなってるし……食事の跡は日陰と履物はきものの確保だな……」。


 男は岩壁の辺りまで戻ってきた。


 ちょうどテーブルになりそうな四角い岩があったからだ。


 男はその上に魚を置き、スラリと剣を抜く。


「包丁にしちゃあ長いが……いたかたあるまい……」。


 鱗をとり、三枚におろして、さらに身を切り分けていくと、瞬く間に魚は白身魚の刺身となる。


 その一切れを摘み、口に放りこむと、思わず声が出た。


「……美味い…… ! 醤油が欲しいところだな……」。


 男はこの世界には存在しない調味料を恋しく思った。


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