死のほとりに手をかけて
瑞野 蒼人
本編
静かな池のほとり。
気がつくと、僕はそこにいた。
僕は草花の中に横たわって
ピクリともせずに寝ていた。
そのうち、肌の感覚が戻ってきて
意識がゆっくりとはっきりしていく。
池の周りは少し肌寒い。
秋の夜のような、肌に刺さる
鋭い寒さが気になる。
見ると、僕は上下白の
シャツとズボンを履いていた。
おかしい。
さっきまで着ていた服は
こんなんじゃなかったはず・・・。
俺はよろよろと力なく立ちあがった。空はまだ暗い。澄んだ空に、塵のように細かな星がチカチカときらめいている。真中には、真珠のように丸く美しい月が光り輝いている。
足元は、茂のような状態だった。朝霧に濡れる草花は、ゆっくりとしなり、その雫を地上に落とす。僕はここにたたずんで、何をするでもなく静かに水面を見つめる。少し濁った水面には、真っ赤な斑点の輝く鯉がゆらゆらと泳いでいる。優雅に尻尾を振り、水の中をゆっくりと泳いでゆく鯉。
水の中を、ゆっくりと、泳いでゆく、鯉。
その時、脳裏に襲ってくる猛烈な衝動。
いつか、いや、相当頻繁に経験している、この感覚。
僕は死にたくなった。
どうしようもなく死にたくなった。
心の声が、自分を水面の下へと
いざなっている気がする。
体が勝手に、岸辺へと
歩き出しているような気がする。
足がひとりでに、池に飛び込もうと
している気がする。
池は濁っていてよく見えないが、おそらく相当深い。溺れれば岸に帰ってくることもできまい。あとは自分の心次第だった。
まずいと思う自分の心とは真逆に、体はどんどんぐらついていく。さっきまで鮮明だったはずの意識が、急速に濁っていく。正常な判断が頭でできない。あと一歩、池にはまるまで、もうギリギリだった。
「俊一君?」
池に響き渡る、澄み渡るような声。
どこか聞き覚えのある、懐かしい声だった。
「・・・聡美先輩・・・?」
声を聞けば間違いない。
顔を見ればあっという間にわかる。
中学と高校の時。ちょうど同じ図書委員会で毎日顔を合わせていた、聡美先輩。学生の時、誰よりもお世話になった、大切な存在。
「・・・ひさしぶり。こんなところで会うなんて、ふしぎだね」
「そう、ですね。」
「いつ以来かな?最後に話したの、卒業式の時、だっけ?」
「・・・たぶん。そうかもしれないです。」
俺は、突然現れた先輩に対してなんと反応を返していいのかよくわからなくて、とりあえず頭の中の記憶を整理しながらおぼろげな返事を返していく。不思議と、さっきまで朦朧としていた意識がいつの間にかはっきりと戻っている。
聡美先輩はかすかに笑いながら
俺の前にすり寄ってくる。
「話そうよ、久しぶりに」
「・・・いいですよ。座りましょう」
その言葉を耳にして
死にたいという衝動もやがて落ち着いた。
僕と先輩は、池から離れた。
聡美先輩も、おかしなもので
なぜか俺と似たような格好をしている。
全身白のワンピースを着ていて、そこに学生の時と何黒髪のさらさらな髪を束ねた、ポニーテール姿。
でもそれが、いやに清純さを強調していて
学生の頃の淡い気持ちがよみがえってくる。
ちょうど森の開けたところに大きな木が生えていて、俺と聡美先輩はその木の下に腰を下ろした。露で濡れた若草が、二人の真っ白な服を湿らせていく。
「先輩、全然変わってないですね」
「そう?」
「姿も、髪型も、全然変わってないですね」
「ふふ、俊一君こそ相変わらずだよ」
久しぶりに、こんなに素直でストレートな会話を交わしてる。胸の奥がくすぐったくなる。
僕と先輩は、なんだかおかしくなって笑ってしまった。こんな感覚、すごく久しぶり。遠い昔、高校時代の時のことをすぐに思い出す。夕方の図書館で話しながら二人で笑いあったりする、そんな記憶が頭の奥からよみがえってくる。
「懐かしいね。その服、高校の制服に似てる」
「そうですか?」
僕は胸を張って、着た覚えのない白いシャツを見せてあげる。
「うん。卒業式の時以来に見たかも。」
「あ……。高校の制服も、こんな感じだったから」
「だよね。すごく似合うよね。シャツが」
その言葉で、思い出す。
高校の時の苦い思い出。
「……ありがとうございます」
謝辞を返したけど、僕の心の中には
小さなさざ波が立っていた。
高校2年生時。ちょうど、先輩が卒業式を迎えるその日。僕はドキドキして苦しかった。その日の記憶はあまりない。本当はその時、先輩に告白するつもりだった。
でもね。
「付き合ってくれるの?」
「うん。祐君が、私でもいいって言うなら、付き合ってもいいよ」
「よかった。ありがとう・・・」
あと一歩遅かった。
先輩はいろんな人から人気だった。だから、僕の目の前で、他の男に取られたんだ。後から聞いたことだが、
別にしょうがないことじゃないか。先輩は僕よりも一つ上。きっと年下の男なんて子供だとしか思っていないだろ。だから、僕より素敵な人に出会ってくれてよかったじゃないか。そう、無理やり気持ちを整理して、きれいさっぱり忘れることにした。
「・・・懐かしいね。高校時代。たくさん遊んだし、本も読んだし。楽しかったなぁ」
「・・・本当に。そうですね」
複雑な気持ちを隠すかのように、濁した言葉でその場をしのぐ。
「どうかな?私、今も綺麗?」
僕はその姿に、心の奥がうずいて
気付いた時にはこう口走ってた。
「先輩」
我慢が効かなかった。
「好きです」
なんでそんな話を、こんなタイミングでするんだろうか?自分でも言ってることがなんかおかしいぞ、と思いながらも、口からは勝手にそんな言葉がつらつらと発せられている。
「本当に?」
「本当に。」
「・・・ありがとう」
先輩は少し恥ずかしそうにはにかんだ。
それにつられて、僕の表情もすこし緩む。
あの時伝えられなかった想い。
ここで、ようやく伝えられた達成感。
僕は、先輩に触れたかった。
「綺麗ですよ、聡美先輩」
すっと、先輩の顔に手を伸ばす。
「来たらだめ!」
大声で先輩は叫ぶ。
その勢いに、僕は伸ばした手を引っ込めた。
「えっ?」
僕は先輩を抱きしめる寸前で踏みとどまった。
呆気にとられてしまう僕。
「こっちに来たらだめだからね」
「えっ?それ、どういう・・・?」
一瞬、その言葉が理解できなかった。
「俊一くん、君はまだここに来たらいけないの」
「どういうことですか」
「信じられないかもしれないけど、ここは現実と死後の世界をつなぐ場所なの」
意味がわからなかった。
「えっ、じゃあ、なんで僕はここに……?」
「私は、俊一くんを引き留めに来たの」
引き留めに?
「どういう……これは、夢ですか?」
「夢……まあ、夢みたいなものと思って」
「いい、私の言うことを信じて。私に触れたら最後。私と一緒に、死の世界に引きずり込まれるの。だから、絶対触れたらいけない」
「そんな・・・」
僕は茫然とした。
俺は今死にかけているという事実。
どうしてもそれが信じきれない。
「俊一君。気持ちはうれしい。でも、私たちはまだ離れていなきゃいけない。君は、この世界から戻らないといけない。でないと、二度とこの世界からは出られなくなるの。」
聡美先輩は、状況を飲み込めていない僕に対して、諭すように、ゆっくりと話してくれた。そして、もう時間が少ないこと。僕は、早くこの森から抜け出さないと、現実の世界に戻ることができなくなるということを教えてくれた。
「ごめんね、やっと会えたのに、こんなことになって……。」
先輩は、悲しさと申し訳なさを混ぜたような、複雑な表情をしている。
「でも、俊一くんには、まだ未来がある。まだこれから先いろんな道を歩んでいける。だから、まだ死んじゃいけない。だから、私は俊一くんを止めに来たの。その気持ちは、わかってほしいの」
まっすぐ、ブレのない真剣なまなざしで見つめる先輩。その姿を見て、俺は迷った。このまま先輩と向こうの世界へ行ってしまうのか、それとも、自分ひとりで現実の世界へ戻るのか。苦しい。難しすぎる決断だった。
しかし先輩は、さらに言葉で背中を押してくる。
「お願い、俊一君。これが最後。私がじゃあね、って言ったら、そのまま振り向かないで、森の中に走って。絶対私のことを見たりして、振り向いたらもう戻れなくなるから。本当に、お願い」
「そんな、先輩はどうなるんですか?」
「私はいいの、また向こうの世界に戻るだけ。何も変なことは起きないから」
あっけないお別れ。
唐突な再会から、まさかこんな展開になるとは思ってもいなかった。
「やっと会えたのに、こんな早いお別れで、ごめんね」
と、詫びてくれた。
「いいんです。どんな形でも、先輩に会えたことが嬉しいですから。どうか、気にしないでください」
精一杯の虚勢を張って、僕は先輩にこう返した。
先輩は少し寂しそうな顔をして、
「じゃあね」
俺の横を通り抜けていった。
そのままその姿を追っていたかったが、俺は先輩の言うとおり、振り向かず、まっすぐに走り続けた。暗い森の中、道とも言えない草木の中を掻き分けながら、もがくように、必死でばたつく死ぬ前のバッタのように、動けなくなるまで走り、それでもなお、両手でもがいて前に進んだ。
そのうち、体の感覚が遠ざかっていく。
俺は死ぬのか?
それとも生きるのか?
それすらもわからないままだった。
深く白い霧の中で、俺の意識は混濁した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
記憶は、すぐに闇から引き戻されていく。
目覚めると、そこには白い天井が広がっていた。
おぼろげな目で周囲を見渡せば、自分の腕や体中にチューブが刺さり、ベッドのあちこちを這っているのがよくわかる。
「・・・俊一?わかる?生きてるのよね?」
「・・・ああ、もちろん」
その瞬間、母の顔がわあっと泣き濡れた。
そのまま私の体に突っ伏して、えんえんと声をあげて泣いている。
一瞬自分の身に何が起きていたのか、記憶になかった。が、それは意外とすぐによみがえってくる。そうだ、ちょうど昼時、飯を食べに行こうとしてオフィスで急に倒れて、そのまま意識を―。
「俊一さん、あなたは脳梗塞で倒れていたんです」
主治医らしき白衣の男が俺に語りかける。
「非常に危険な状態でしたが、奇跡的に手当てが間に合いました。あともう少し遅ければ、亡くなっていた可能性が高いです。」
俺は茫然とした顔で主治医の姿を見る。
「まあ、状況がまだ飲み込めないでしょうが、とにかく今は安静にしていてください。手術が終わった今が一番の正念場です」
そう俺に伝えると、主治医は看護師を連れてそのまま部屋を出て行った。
「・・・倒れたのか、俺は」
「・・・職場から搬送されたって連絡が来て、もう怖くて怖くて、死んだらどうしようって・・・怖かった・・・」
母は、私の目の前で止まることなく泣き続けている。
よほど、私の状態は深刻だったのだろう。
俺は、ベッドの柵に突っ伏して泣きじゃくる家族を、ただ茫然と見ていた。
やがて、容体は落ち着いた。
ひとまず家族は隣室で休むこととなり、
俺のベッドには静寂が戻ってくる。
俺は、なんで帰ってこれたのだろうか。
先輩は、なぜあの池のほとりにいたんだろうか。
思えば、先輩はちょうどひと月前、以前から口にしていたジャーナリストという夢をかなえた直後、中東を取材中に市街地での自爆テロに巻き込まれ、若くして非業の死を遂げていた。
葬儀に行った時、こんな話を聞いていた。
「あの、失礼ですが、垣田俊一さんですか?」
「ええ、そうですが・・・」
「はじめまして、私、聡美と中東取材に同行していた、カメラマンの新藤と申します。ぜひ、俊一さんにお伝えしたいお話がありまして」
カメラマンは、俺にこんな話をした。
「彼女はいつも、日本に帰ったら俊一という素敵な友人と、たくさん酒を飲みかわしたいと、口癖のように語っていました。それほど聡美にとって俊一さんというのは、かけがえのない存在だったんだろうなぁと、我々も驚きながら、その話を笑って聞いていました」
聡美先輩の想い。
いままで一度もろくに聞いたことなかったけど、まさか人づてに素直な気持ちを聞くことになるなんて俺は思ってもいなくて、そのまま男泣きしたことを思い出す。き上げてきた思いが、止まらなくなっていた。
そんな言葉を聞いてすぐ、俺はベッドの上で死んだほうがマシなぐらいの苦痛と闘いながら、この生命を維持しようとしている。宿命と言われればそれまでだが、偶然とは思えないタイミングだった。
あの池のほとりで出会った先輩、あの言葉。引き留められたからには、この天命を全うしなければ。
まだ死ねない。
こんな終わり方では死ねない。
生きなければ。
病室からかすかにうかがえる
都会の星のない暗い空。
俺はその遥か彼方に向かって、思いを飛ばした。
ありがとう。
そちらで会えるまで、もう少し待っててください。
大好きな、先輩。
―完―
死のほとりに手をかけて 瑞野 蒼人 @mizuno-aohito
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