虫の声
金糸雀
第1話 奴等の声
ある夏の夜、僕は仕事を終えて帰宅し、部屋着に着替えた後、スーパーの総菜を食べながら缶ビールをちびちび飲んでいた。発泡酒ではなくビールというのは、給料日後ゆえのちょっとした贅沢である。明日は仕事が休みだからいつも多めに飲んでも大丈夫だという解放感に浸っていた。
その時、声が聞こえた。
「あぁ、暇だなぁ」
男のものとも女のものともつかない、でも強いていうなら男の声だろうか。なんだか、テレビアニメで声をあてていれば誰なのか一発でわかる、癖のある男性声優を彷彿とさせるような、一種独特な声である。
僕は一人暮らしだし、テレビも今はつけていない。だから、僕以外の者の声など聞こえるはずがないのだが。一体誰の声だろうか。僕は、立ち上がって耳を澄ませて、声がするのはどちらだろう、と探った。どうも、家の外ではなく、中、それも、キッチンの方から聞こえるような気がするのだが。しかし、キッチンには勿論、人はいない。
おかしいなぁ、空耳かなぁ、などと考えながら首を捻っていると、また、声が聞こえた。
「あぁ、ほんっと暇。ここ居心地いいけど、暇なのは困るわぁ」
退屈を持て余しているような響きだが、一体何者だ。
キッチンに行き、更に探し、僕は声の発生源を突き止めた。
声の発生源―それは、冷蔵庫とシンクの隙間に仕掛けておいた、ゴキブリホイホイだった。
つまり信じがたいことだが、どうやら僕の耳に聞こえているのは、あの黒くて平たくて足の速い嫌われ者、ゴキブリの声のようなのである。
僕は今起こっている現実が信じられず、恐る恐る、しゃがんでゴキブリホイホイを引き出し、持ち上げた。ゴキブリホイホイの中からは、「うわ動いた」とかなんとか、声が聞こえてくる。やはりゴキブリホイホイの中のこいつが、しゃべっている。
僕はしゃがんだ姿勢のまま、手に持っているゴキブリホイホイに向かって、
「おい、さっきからしゃべってるのはお前か?」と尋ねてみたが、返事はなかった。試しに同じことをゴキブリに向かって念じてもみたが、やはり反応はなく、ゴキブリホイホイからは僕の問い掛けとは噛み合わない、「あ、俺もしかして捨てられるの?」といった声が聞こえてくる。
とすると僕は、ゴキブリの声が聞けるのであって、ゴキブリと話せるわけではないし、あくまで一方通行の意思疎通しか行えないということか。別にゴキブリと相互交流を持ちたいわけでは全くないから、別に構わないが。
僕はゴキブリホイホイを1度床に置き、収納スペースからゴキジェットを取り出した。
そしてゴキブリホイホイに向かって、思いっきりそれを噴射した。
「うぅっ……」
筆舌に尽くしがたいゴキブリの悲鳴に、僕は顔をしかめた。とても聞けたものじゃない。しかも、力尽きるまでが長い。僕は体感ではたっぷり30秒ほどゴキブリの悲鳴に耐え、静かになったことを確認した後、ゴキブリホイホイを燃えるゴミの袋に入れた。ゴミの日は週末を挟んであと3日ほど先だ。こんなもの早くゴミに出してしまいたいが、ルール破りをするわけにはいかないから、致し方ない。
僕はこの出来事を、きっと酔っているせいで聞こえるはずもない声が聞こえたのだ、きっとそうに違いない、と自分に言い聞かせながらしこたま飲んでそのまま寝た。
しかしこれは始まりに過ぎず、翌日から、身のまわり至るところからゴキブリ―奴等の声が聞こえてくる日々が始まった。
奴等は本当にどこにでも、
「ゴキブリは1匹見たら30匹いると思え」という言葉通り、いや、それ以上に、恐ろしい数、奴等がそこここに棲息していることが、なまじ奴等の声が聞こえてしまうためにありありとわかってしまう。声の数は多すぎて聞き取れない場合も多かったが、たとえば家で静かに過ごしている時などは「あぁ腹減った」だの「あ、卵産まれそう」だのという声が、ざわめきの中から聞き分けられることもあった。
何が「腹減った」だ。お前らに食わせる飯はないし、「卵を産む」など冗談じゃない。お前ら、まだ殖える気か。
そう言い返したいところだったが、僕はあくまで奴等の声を聞くことしかできないので、ただ、込み上げる嫌悪感に耐えるしかなかった。
せめて家の中の奴等だけでも、「巣ごと駆除できる」と
奴等が、滅多に僕の前に姿を現さないのは、救いといえば救いだった。僕は、「見れば悲鳴を上げて逃げ出す」というほど奴等が嫌いではなく、ムカデやゲジゲジに比べればまだマシな方だとは思っているのだが、それでもやはり、好んで見たいものではなかったし、出てきた奴を仕留めに掛かれば、また、聞きたくもない声を聞くことになってしまう。そう思ったからだ。
奴等の声をできるだけ聞かないよう、イヤホンで耳を塞いでみるという方法も、試した。しかし、効果はなかった。当初僕は、奴等の声が耳に聞こえていると思っていたのだが、どうやらそうではなく、この声は脳に直接届いているらしい。テレパシーというやつなのか。よくわからないけれど。
つまり僕は、奴等の声と共存して生きて行くしかなさそうだった。
どうして僕が、こんなことに。
大いに嘆きたい気分だったが、聞こえてくるものは仕方がない。きっと、慣れるしかないのだろう――慣れることができる日が来るかどうかは、わからないけれど。
声が聞こえるようになってから2週間ほど経った頃、奴等の声が、明らかにこれまでとは異なる、危険な性質を帯び始めた。
大変だ。このままでは。このままでは、いけない。
焦った僕は、奴等の言っていることについて、まずは保健所に、次いで保健所に訴えた。奴等は恐ろしいことを企んでいる、と。
そのどちらにも相手にされなかった僕は、無駄な足掻きに終わる可能性が高いが、こうなったら最早僕1人で戦うしかない、と思い詰めた。とても仕事に行くどころではなかった。
僕は携行缶を両手に下げ、最寄りのガソリンスタンドに行った。
「奴等を焼き殺すために必要なんだ。これに入るだけガソリンを売ってくれ」
と店員に詰め寄ったが、曖昧に
「あぁこの人ね。危険なことを企んでいる奴がいる、どうにかしないと大変だ、みたいなことを何度も言ってきてましたよ。最初は電話で、しまいには押し掛けて来てね。――まぁ、ちょっとその――頭に、問題があるんでしょう」
警察官がそんなことを言っている。
違う。僕は正常だ。僕の話を聞いてくれ。本当に奴等が――。
しかし僕は、妄想と幻聴に支配されて大量殺人を目論む危険な精神病患者と
僕は屈強な男性看護師に押さえ付けられて注射を打たれ、意識を失った。
目が覚めた時には、狭い個室にいた。ベッドと、片隅に剥き出しの便器が設置されているだけの、何もない部屋だった。その部屋は内側からは決してドアが開けられないようになっていた。なんせ、ドアノブが付いていないのだ。そして私物の持ち込みは一切許可されず、トイレの水を流すことさえ、自分ではできない。監視カメラで見張られてすらいるようだ。これでは刑務所の独房に入れられたようなもの、いや、それ以上の人権侵害だ、と僕は感じた。
そして、「気持ちが穏やかになる」だとか言われて、いくつもの薬を飲まされた。僕は看護師の目の前で薬を飲み、その後は口を開けて見せて、確実に飲んだかどうかのチェックを受けなければならず、薬を飲むことを拒否するのは不可能だった。
そうして僕は、正常なのに薬を飲まされ、呆けて行ったが、奴等の声は聞こえ続けていた。その内容は日増しに激しさを増して行く。しかし僕には何もできない。どうせ言っても信じてもらえず、薬を増やされるだけだろう。
もう、僕には、ここで呆けて、時が来るのを待つ以外の選択肢はなかった。
そうして僕は、正常なのに薬を飲まされ、
もう、僕には、ここで呆けて、時が来るのを待つ以外の選択肢はなかった。
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