第10話 彼女と彼らの文化祭
───目覚めは軽やかであった。水面から顔を出し、心地の良い陽射しをいっぱいに浴びたかのような……そんな、清々しい気分であった。
「……ん、うぅ」
思いっきり両腕を天井に伸ばしてみる。それだけで睡魔はどこか遠い場所へ掻き消えてしまったように感じられた。そして私はベッドから降りて、カーテンのもとまで歩み寄ると解放する───。
快晴が広がる青空を見上げて、私は薄く微笑んでみる。……うん、今日もちゃんと笑えてる。今日もちゃんと笑顔になれる。そう、自分に言い聞かせてみる。そうして私は自室を出て歯磨きと洗顔を終えてから、一階に降りてリビングに向かった。するとそこではちょうどお母さんが朝ごはんを並べているところだったので、「おはよう」と聞こえるように挨拶した。
お母さんは私に気づくと振り返り、少し隈の目立つ顔をこちらに向けて「……おはよう、花」と振り絞るような笑顔を作った。
「もうできてるから、たくさん食べて……」
「……うん。お母さんも、ちゃんと食べてね───?」
不安になってしまい、私はそんな言葉を投げかけていた。お母さんは、例えるなら不安定な銅像のような人だ。目を逸らしていれば、この人は簡単に崩れてしまうのではないかと思うくらいに───それくらいに、脆い。
私がそんな風に声をかけると、お母さんは少しだけ微笑んで「ありがとう……」と口を開く。私は頷いて、席に着いた。
「今日は文化祭なんでしょ?思いっきりお友達と楽しんできてね」
「うん。この短期間で、たくさんの友達を作れたんだ。今からすごく楽しみだよ」
私の言葉を聞いて、お母さんは安心したような表情を浮かべていた。やっぱり、お母さんには暗い表情よりもこっちの方がよく似合う。これからも学校のお話をたくさんして、こんな顔になってもらいたい───そんなことを思っていた。
「───もう大丈夫だから……私、ちゃんと楽しくやれてるから……安心してね、お母さん」
だからなのか、気づけば私はそんなことを無意識的に言っていた。するとお母さんはハッとしたように息を呑む。そう感じた矢先に振り返り、いつものように微笑みながら、付け足すように伝えていた。
「……そう。よかった」
───枯れた花のように、あるいは萎れた花のように……お母さんは、静かに安堵していた。
2
───文化祭当日は、学校全体が特別な雰囲気に包まれていた。賑やかさ、という点ではいつもとなんら変わらないが、今日という日は特に格別であった。
登校が終わった後は、体育館の自分の席に荷物を置き、それから前半と後半に分かれて校内での出し物を行う。前半の俺達は、後半は自由の身というわけだ。
「じゃ、行ってくるよ。……おい茅野!お前、花ちゃんに重労働させたら許さないからなっ!」
宣伝係の男子生徒達を引き連れた藤枝が、茅野に向かって食って掛かる。……くじ引き戦争の恨みはそう簡単には消えないらしい。
「大丈夫っす!俺と榎並くんで八割は片付けてみせるっすよ♪」
「っは!二十割は片付けろよな!」
なんだかわけのわからないことを口走っているが、結局藤枝達もまた宣伝の仕事に走っていった。あいつらの出来次第では、客も大幅に入ってくるに違いない。……といっても、ここに桐崎がいる時点で、ほとんど宣伝の意味などないのだが───。
というわけで、俺、茅野、桐崎はポーカーの台に配置。他ゲームのブラック・ジャック、ちんちろりんの担当の連中も、準備の方は良さそうだった。
「おいお前ら、間違っても桐崎に夢中になって連敗なんてするなよ」
俺がなおも見惚れている野郎共にそう声をかけると、彼らは「……そ、そんなことするわけないだろ!」と啖呵を切る。……なんて単純な思考。もしも桐崎に目を奪われて、ゲームのレベルが下がろうものなら、このカジノルームは一気に泥沼と化す───。俺が万が一の不安に駆られていた、その矢先のことだった。
「「他の出店なんてどうでもいいーっ!カジノだカジノぉぉぉおッ!!」」
カジノ目的では絶対にない奴らが、さっそく教室になだれ込んできたのだった。
3
前半の、怒涛のカジノ作業が終わる───。単刀直入に言って、本当に疲れた。普通にカジノの相手をするだけでもくたびれるというのに、連中はやはり桐崎目当てであるため、なにがなんでも彼女とゲームがしたいと叫び散らしては、桐崎が応じて順番に勝負をするというものだったのだ。……正直に言おう。こいつらはやはり、猿だ。
「ほら、ジュース。……りんごでよかったか?」
「あ、ありがとうございます。……榎並くんも茅野くんも、お疲れ様でした」
俺が差し出したりんごジュースを、桐崎が受け取り一口呑む。ゴクッ、と小さい音が、彼女の喉から聞こえた。
「やれやれっす……。これじゃあ藤枝くんにぶっ飛ばされちゃうっすね。結局、三人の中で一番動いたのは花ちゃんなんすから」
腕を伸ばしながら、茅野が零す。たしかに、これでは仕事をしたとは到底言えない。今疲れているのは、なにもカジノ運営の作業でというわけでは断じてない。……桐崎信者の追い払い及び対応に酷く疲れているのだ。
「まあ、この後は自由に校内を回れるんだ。結果オーライってことで、後は楽しもうぜ」
「そうっすね。……あっ!藤枝くん達も帰ってきたっすよ!」
茅野が廊下の奥を指差すと、やつれ切った彼らが死にかけながら千鳥足でこちらに向かってくる。怖い怖い。
「……もう、この世界に希望はないのか」
「ああ、幻想郷の光が見える───」
「絶望を重ねた先に、絶望があるのか……」
そんな言葉をだらだらと零しながら、ゾンビのように顔色を悪くした彼らが目の前に来てドサドサと倒れ込んだ。が、俺は容赦なく藤枝を起こし捕まえる。
「何があったんだよ」
「いてててて!ちょっ、もうちょっと優しくしてくれよ!」
「こうした方が生き返るだろ。で?何かあったのか?」
「うぅ……実は、勧誘に行ったはいいものの、宣伝なんていらないくらいに人がいなくてさ……」
「だろうな。多分宣伝いらなかったと思うぞ?」
本当に気の毒な話だ。やはりどことなくは予想していたが、そんなことをせずとも客など腐るほどに入ってくる。……その要因が経営している以上は、無意味に等しい行為かもしれない。
「そしたら、オカマバーの連中に捕まっちゃって……それがこの結果だよっ!」
藤枝が眼科の死体を見下ろして叫んだ。瀕死の彼らの顔には、よく見ればいくつかキスマークが付いている……。これは惨い。それは死にたくもなるだろう。
「でも、楽しそうっすね♪俺も行ってみたいっす!」
へらへらと笑いながら、茅野がそんなことを口走っていた。こいつのメンタルは、ダイヤモンドを超えるほど硬いのかもしれない。
「まあドンマイ、でも喜べよお前ら。この後は桐崎も、お前らと一緒に校内を回りたいってさ」
「……あ、よろしければ、ご一緒に───」
桐崎がそう続けると、命が吹き返るように彼らは立ち上がる。ズバズバズバッ!と立ち上がる彼らはまるで猛獣だ。
「じゃあ、行くか。この人数だと、結構な規模になるけどさ」
「でも、それも楽しそうです。───茅野くんも、このまま一緒にいかがですか?」
桐崎が茅野に尋ねると、あろうことか彼は「あー、すいませんっす……」と断った。
「実はこの後、体育館のステージで軽音楽部の曲披露があるんすよ。その準備があるんで、皆とは一旦お別れっす」
「てことは、お前も歌うのか?」
俺の問いかけに頷くと、彼は満面の笑みで「はいっす!」と敬礼した。
「だから花ちゃんも、楽しみに待っててください!俺らの熱を、全力でぶつけますから!」
「わかりました。……そういうことなら、寂しいですけど、楽しみに待ってます!」
そう返されると、茅野はそのまま手を振って駆け出していった。───軽音楽部の出し物か。あの茅野の曲が聴けるとなると、なんだか楽しみになってきた。俺にできることはライブの成功を祈ることだけだが、それで桐崎達と盛り上がれるなら万々歳だ。
「進行で言えば、軽音楽部の出し物はラストになる。……ちょうどいいフィナーレになるな」
「はい。それまでは、茅野くんの分まで楽しみましょう」
頷き合い、俺達はこの密集具合いで校内を散策した。……クレープを食べたり、射的で景品を狙って落としたり、ミニゲームで盛り上がり───そんな、騒がしい時間を過ごせたと思う。
そうして時間は過ぎていき、やがて文化祭のラスト、軽音楽部のライブの時間になる。再び体育館に戻った俺達は、それぞれがステージの上に釘付けとなって立ち尽くす。……俺と藤枝と、その他大勢が並んで、その後ろもギュウギュウ詰めとなって文化祭の最後を見届けようとしていた。……いくつかのバンドが曲の披露を終えていくと、ついに大トリである茅野達のバンドが姿を見せた。
『どうもっすー!皆、全力で楽しんでるっすかー!?』
マイク越しに茅野が大きく聞くと、「「おぉーっ!!」」とその場の生徒達が手を挙げた。
聞く話によれば、茅野のバンド───アンチゼロはこの学校の中でもトップに人気のあるものらしく、こうしてファンも多いらしい。おそらくはその要因として、普段ちゃらちゃらとしている茅野が曲の披露になった途端に全力になる姿であろう。いわゆるギャップという火種が、こうしてファンに魅力を注ぐわけだ。……俺は初めて聴く立場に当たるので、今からとても期待していた。
『曲を披露する前に、皆に一つ言いたいことがあるっす!それは、今日っていう文化祭が俺にとっての特別だってことっす!』
茅野はそこまでを言うと、眼下に佇む一人を見据えて───もう一度だけ、マイクを強く握りしめる。
『俺の高校生活一年目を、強く強く塗り替えてくくらい、胸が踊った二年目───それは、全部全部、俺のクラスに転入してきた、彼女のおかげなんす!』
「……ぇ?」
桐崎と茅野の目が、そこで合う。大衆もまた桐崎の方を向くと、口々に声を発していた。
「そうか。茅野と花ちゃんって、同じクラスなのか」
「羨ましいなー。付き合ったりとかはしてないの?」
「これって告白なんじゃね?」
ザワザワ、ザワザワザワとその場は声と声で溢れていく。そんな中を、力強い茅野の声が支配していた。
『───男子校に女子校生っ!そんなこと、漫画か何かみたいな展開じゃないすか!俺は自分の心臓が熱く熱くヒートアップしてくのを感じたんす!そして、だから……だからこそ、俺は伝えたいと思いました!』
世界の秒針が、重く重く動いていく刹那に、
『───桐崎 花って人間に、俺はどうしても近づきたいって思いました!だって彼女は、俺の───』
降雪がスローモーションになるにつれて、
『……いや、なんでもないっす。とにかく俺は、この曲を彼女のために、全力で歌いたい、その一心で今!……ここにこうして立ってるっす』
降っていた雨が無音に固まる矢先───、
『───見えない明日を、全力で駆ける』
彼らの演奏が、始まった───。
ギターとベースが生み出す広大な音色に、辺りは一気に引き込まれる。惹かれ、繋がれ、結ばれる。そんな世界が、そこにはあった。
そして茅野の歌声が、それらをカバーするように、放たれる。
熱量のボリュームを上げて上げて上げて、最大限の場所へ。俺達はいつからか、観客から立ち会い人へとなっていた。
……なあ、茅野。お前は───この曲で桐崎に、何を伝えたいんだ?
そんな疑念が瞳に宿る。動かない。……動かせないのは、彼らの灯す火のせいで。
彼らの紡ぐライブには、力がある。人を巻き込み、大地を揺るがすくらい、強大な力が。そんな嵐の中に身を置かれた俺達は、その一点の光だけに惹き込まれていた。
曲名の通りだった。見えない明日という、不安の詰まるその日を穿つための力が、体の芯まで捩じ込まれていく。その度にこの身は震え、感動に至り、究極の感情を与えてくれた。
「───きり、さき?」
そこで気づく。隣を見て、それに。……彼女は、その丸い瞳から、ただ一筋、涙を零していた。それは暗がりの体育館では酷く鮮明に光って見えて───ただただ美しかった。
「なんで───」
曲が終盤に入ると同時に、俺の目は今度は、茅野の方を向いていた。その顔色を見て、ようやく気づき始める。
───あいつは、無理をしている。
不安定であった。ボロボロであった。そんなのは、ここから見ていてもわかってしまった。茅野はその顔を青くして、ふらふらとその体を倒しそうになって、それでもなお、そこにそうして存在していた。……しかし演奏は終わらない。そしてその果てに、俺は───俺達は、見た。
どさり。
「───っ、茅野ッ!」
───ステージの上に倒れた、茅野の姿を。そして誰もが、その曲のフィナーレに、見とれていた……。
それが、文化祭のラストだった。
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