第1話 女神、あるいは天使の微笑み

───堪らず叫んでいた。自分でも、口にしてから気づくほどに無意識的に……。それくらい、衝撃的だったのだ。生まれてこのかた、運命だとか奇跡だとか、そんなものはないものなのだと思って生きてきた。すべては偶然で起きた確率の気まぐれで、この世に都合の良いことなんてないと───。


しかしその考え方は今、完膚無きまでに崩れ去ることとなる。奇跡は、あったのだ。


「……榎並、席に着け。ていうか俺、昨日の朝にも言ったろ」


担任の木内がそうため息混じりに俺を窘める。その言葉を受けて、俺は空になった脳みそを動かし始め、思考を息吹かせた。


───昨日の朝、つまりホームルームにそんなことを言っていたのか。まるで聞いていなかったのはたしかに俺が悪い。それは反省する。しかし、これで点と点は線になった。言うなれば伏線回収ということだ。


昨日の藤枝及びクラスメイト諸々のテンションが妙に(気持ち悪いくらいにと置き換えてもいいくらいに)高かったのは、間違いない。原因は、これだ。このオス豚が密集しオスの臭いにただれまくりオスの根城と化した悪夢の密閉空間に、一人の女の子が転入してきただなんて───文字通り夢のような現象である。なるほどと頷き、俺もまた昨日の彼らのようなテンションを抱いてしまった。


「……なんだよ、榎並は聞いてなかったってことか。道理で昨日はテンションが低かったわけだ」


隣の席の藤枝が納得したように分析する。俺もまたこいつの態度の原因を突き止めることができたので、互いに互い、テンションの相違の真実を掴み合った。


「榎並が話を聞いてなかったんで、改めてもう一度説明する。桐崎は体が弱く、受験の時期が遅れてしまい、結果的に特別枠としてうちの男子校に転入してきたわけだ。……ま、もちろん異性なわけだから、最初のうちはどう接していいかわからんだろうけど、それは桐崎も同じだ。お互いに尊重し合って生活してくれ」


木内が眼鏡の位置を直しそう言うと、食ってかかるようにさっそくクラスメイト達が各々のアピールタイムをスタートさせた。


「よろしくな!花ちゃんって呼んでいいか!?」


「好きな男のタイプは!?」


「これから仲良くしてくれよ!」


「っしゃー!女子キターッ!」


「あ、後で連絡先とか……」


「席は!?席、俺の隣にきてくれーっ!」


まるで家畜のようなブヒブヒっぷりだ。これが性欲を持て余した男の末路か───。しかし、彼らの心情は理解に容易い。なぜなら、俺だって純粋に嬉しいからだ。


「……は、はい!私こそ、皆さんと早く仲良くなりたいです!」


はにかむ桐崎はまるで純白の天使のようだ。太陽が植物に陽射しを与え息吹かせるように、その笑顔を魅せられた彼らは下民のそれと似たように悶絶し出す。そこだけを切り取ると地獄絵図だ。モザイクで埋め尽くしたい。


しかし、改めて見ると本当に可憐な子だ。淡い茶髪は長く、滝のように光を放っている。瞳は綺麗な栗色を敷き詰めており、純粋無垢な清純さがたち込められていた。背丈はやや低く、庇護欲というのだろうか、そんなものが掻き立てられてしまう。まあ、彼らの場合は性欲が大半だろうが。


「それで、席についてだが……どうしたもんかね。席は埋まってるし、どこに───」


木内が言うと、真っ先に藤枝が怒鳴りつけた。


「俺の隣!俺の隣でお願いしますッ!」


「はあ!?てめえ藤枝!横取りだけは許さねえからな!」


「お前らみたいな汗だらっだらな男性ホルモンの集合体みたいな奴らの隣を、花ちゃんが許すと本気で思ってんのか!?冗談は汗拭きシートの使用量だけにするんだな!」


と、ラグビー部の筋肉ポジが叫ぶのだから面白い。絵に描いたようなブーメラン発言である。


阿鼻叫喚の議論沸騰の空間が出来上がると、木内が教卓を出席簿で叩き鎮まらせる。


「はいはいストップストップ。……お前らだけじゃ絶対決まらねえだろうから、桐崎には教室の真ん中に座ってもらう。それなら全員綺麗に平等だろ?」


「ぐぬぬ……それで平等のつもりかぁ……!」


現在前の席の一人が怨嗟の声を絞り出す。たしかに、振り向かなければ拝められない彼らにとってそれはあまり良い待遇とは言い切れない。圧倒的に、隣の席の人間の方が有利なのだ。



「───まあまあ、皆さん良いではありませんか。これまでのことを踏まえれば、後ろを振り返れば文字通りの花があるのですから。ありがたみは感じなければいけませんよ?」



と、そこで前の席の連中を宥めるように彼───白川 文緒しらかわ ふみおが発言する。彼はこのクラスの委員長を務めているためか、やはりこういうときの鎮め方は手馴れている。


「そうだそうだ。贅沢ばっかり言ってるとせっかくの福も逃げ込むぞ。……後ろを振り向いて、女の子が微笑んでくれた試しがお前らの人生であったか?───いやないね」


すっごい辛辣に木内が畳み掛ける。精神的負荷により失禁しそうだった前の席の連中だったが、だんだんと頷き始め納得する方向に傾く。


「ちっ、隣の席の奴を嫉妬の感情だけで呪い殺せるくらいだが……まあ、妥協してやろう」


とりあえずそれが前の席の連中の総意となり、場は落ち着いた。木内もそれを見て頷く。


「っし。じゃあとりあえず、これで朝のホームルームは終わりかな。お前ら、浮かれるのもいいけど、授業だけはしっかりな」


それが締めの言葉となり、木内は教室を見回してから出ていく。桐崎は最後にもう一度微笑む。


「えっと……よろしくお願いしますね」


と、それだけで再びクラス全体が祭りのように湧き始める。


ライブ会場のような空気が教室を包み込むと、なんだか俺もそれに乗りたくなってしまう。なるほど、これが───、


───青春なのだと、ふと思った。

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