7

 セシリアはルディガーの自室のドアの前で悶々としていた。もうここまで来たら腹を括らないといけない。とはいえ、なかなか踏ん切りがつかない。この感覚には覚えがあった。正式に副官として着任する前夜、彼の部屋を訪れた際にも同じ気持ちだった。


 あのときは先にドアを開けられてしまったが、今は部屋の主の状態を考えたらないだろう。セシリアは思い切って小さくノックし、ややあってドアを開けた。


「失礼します」


 ルディガーの自室はあまり変わっていなかった。ベッドの上で上半身を起こし、書類に目を通していたルディガーはセシリアの姿を視界に捉え、目を白黒させる。


 先に口を開いたのはセシリアだ。


「横になっていなくて大丈夫ですか?」


 久しぶりの再会なのにも関わらず、あれこれ思う間もなくまずは彼の体勢について尋ねた。へッドボードに体を預けているとはいえ、体を起こしていて平気なのか。


 おかげでルディガーも素直に答える。


「こっちの方が楽なんだ」


 左頬には布が当てられ、羽織っただけのシャツの合間からは巻かれた包帯が覗く。痛々しい姿にセシリアは顔を歪めた。


「それよりもセシリア」


 不意に真剣な面持ちで話しかけられ、セシリアは体を硬直させる。ルディガーは持っていた書類をサイドテーブルに置き、彼女にもっとそばに寄るよう指示した。


 セシリアは早鐘を打ちだす心臓を押さえ、一歩ずつベッドサイドに近づく。緊張で口の中が渇き、自分の唾液を飲み込んだ。


 ベッドのすぐ傍ら、ルディガーの手が届く距離でセシリアは立ち止まった。するとルディガーは下から窺う視線を彼女に向ける。


「怪我は? 薬の下手な後遺症は残っていないか?」


 ルディガーの口から飛び出した内容があまりにも意外で身構えていたセシリアは今度は違う意味で固まった。そんな彼女にルディガーは呆れた表情で続ける。


「俺が動けないのもあって、どうせまた無理してるんだろ。ジェイドにも伝えたが、スヴェンにでも任せて、少しは……」


 そこでルディガーの言葉は途切れた。セシリアの両目から静かに涙が零れ落ちていたからだ。泣いていると気づいたのはどちらが早かったのか。


 セシリアとしても感情をコントロールする間もなく、ほぼ無意識だった。


 唇を真一文字に引き結び、必死に耐えるも流れる涙は止められない。様々な想いが涙と共に溢れ返る。この涙の理由はなんなのか。


 ルディガーはセシリアの顔をじっと見つめてから、そっと彼女の手を取った。そしてさらに自分の方へとゆるやかに促す。


 ルディガーがなにを求めているのか理解できたが、セシリアは静かに抵抗した。


「お体に障りますよ」


「いいからおいで、命令だ」


 そう言ってベッドの端に腰を下ろさせ目線を合わせると、ルディガーは体に力を入れてセシリアを自分の元へと引き寄せた。


 セシリアは躊躇いつつも、おとなしく彼に身を委ねる。ルディガーは自分の腕の中に収めたセシリアの頭を控えめに撫でた。


「悪かった、心配かけたね」


 その言葉がセシリアの心を大きく揺らし、さらに涙腺を緩ませた。


 頬を伝う涙は熱くて、呼吸も乱れる。こんなふうに感情を晒け出すのはいつぶりなのか。上官の前で泣くなんて副官失格だ。


 責めて欲しかった。自分の詰めの甘さや判断ミスが今回の件を招いた。不甲斐なさを叱責すればいいのに、彼が一番に気にしたのは副官である自分のことで、それが心苦しくて、申し訳ない。


 でも、それよりもっと大きくセシリアの心を支配していたのは恐怖だった。怖かった。また失うんじゃないかと思った。


 そんな複雑な本音も全部見透かされている。やっぱりルディガーには敵わない。……きっと一生敵いはしない。


「元帥」


 セシリアの呼びかけに、ルディガーは彼女に触れていた手を止める。しばらくの沈黙の後、セシリアは深呼吸して調子を整えてからルディガーの顔を見た。


「私が兄の……親友の妹だから、幼い頃から知っているからあんな真似をしたなら……っ、もう私を副官から降ろしてください」


 最後は思わず顔を逸らし、声も震えてしまった。ルディガーの元を訪れたら、言わなければと決めていた。


 こんなはずじゃなかった。セシリアが副官になったのは、ルディガーを守るためだった。命に代えても守ると決めていたのに。


 自分のせいで、一番大切な人をこんな目にあわせてしまった。これでは本末転倒だ。


『彼は自分のせいで兄を奪ったからって責任を感じてその妹につきっきりだって』


「……私に責任を感じるのは、もうやめてください」


 本当はもっと早く言うべきだった。向き合うべき問題だったのかもしれない。この六年間、彼の副官としてそばで仕えていたのは、本当は誰のためだったんだろう。


 耳鳴りがするほどの静寂に包まれ、自身の息遣いと心音だけが耳につく。心臓が痛いくらい強く打ちつけて、セシリアは目の奥が熱くなるのをぐっと堪えた。


「違う」


 唐突に鼓膜を震わせた言葉に、セシリアは意表を突かれる。おずおずと顔を上げルディガーを見れば、彼は切なげに顔を歪めていた。


「違うんだ、シリー。そんなふうに思って君をそばに置いていたわけじゃない」


 そっとセシリアの頬に触れ、ルディガーは顔を近づける。彼のダークブラウンの双眸がセシリアを捕えた。


「俺を買いかぶりすぎだよ。シリーのためなんて優しい理由じゃない。俺が君を誰にも渡したくなかったんだ」


 そこでルディガーは一呼吸間を空けた。しっかりとした語調で言い聞かせる。


「愛しているんだ。誰よりも大切だから副官とか親友の妹とか関係なく、君を守るのは当然だろ」


 セシリアは瞬きひとつできず、起こっている現状が受け止められなかった。


「信じられない?」


「だって……」


 思わず副官としてではなく、素のままで返してしまう。ルディガーは苦笑して呟く。


「シリーの言った通りだよ」


 まったく。遠い昔にすでに彼女本人に言い当てられていた。


『なによりあなたが負けたのは、私を見くびっていたからよ。まだ子どもだって、妹みたいだからって』


 見くびっていたのだ。セシリアはいつまでもルディガーにとって変わらない存在だと。親友の妹で、ルディガーにとっても妹のようで、後を追いかけてくる小さな子どもだった。


 それがいつのまにこんなに綺麗になって、剣の腕を磨いて、自分のよき理解者になって、手放せない存在になったのか。


 守ってやらないと、と思いながら守られていたのは自分の方だった。


「とっくに妹にも子どもにも思えない。もうずっと前から俺の負けだよ」


 セシリアの青色の瞳が揺らめき、みるみるうちに涙が溜まる。ルディガーは目尻にそっと口づけた。セシリアは目を閉じて受け入れる。続けておもむろに唇が重ねられた。


「副官を降りるなんて許さない。俺のもので一生そばにいるんだろ」


 強く言いきるルディガーに苦笑しつつセシリアはルディガーの右頬に手を伸ばし、指先でなぞる。セシリアから彼に触れるのは滅多にないことで、縮まった距離に応えたかった。


「なら、もうあんな無茶はしないでください。心臓が止まるかと思いました」


「善処するよ」


 ルディガーは触れていたセシリアの手に自分の手を重ね、指を絡める。そのまま自分の口元に持っていき彼女の掌に口づけた。


「俺の幸せを願ってくれるのは有り難いけど、俺を幸せにできるのはエルザでもなければ他の女性でもない。シリーだけなんだ……だから俺と結婚してくれるね?」


 射貫くような眼差しに、真摯な声。セシリアとしては動揺よりも困惑の方が大きい。


 ほんの少し間を空けてから眉尻を下げて小さく答えた。


「こだわりますね」


「こだわるさ。俺は欲張りなんだ、シリーの全部が欲しいんだよ」


 すかさず返され、セシリアは伏し目がちになりなる。


「私、あなたの理想の家庭を築くのは無理です。結婚したとしても、おとなしく帰りを待つだけなんてできません。妻としてよりも副官としてどこまででも共に行きますよ?」


「いいね。俺の一番の理想は、シリーがずっとそばにいることだから望むところだ」


 セシリアの不安を払拭する穏やかな笑顔だった。反対に胸が詰まってセシリアは泣き出しそうになる。ルディガーはセシリアの額に軽く口づけた。


「そんなことを気にしてたのか……シリーはあれこれ気を回し過ぎなんだよ」


「ルディガーは色々と無茶し過ぎです」


 さりげなく名前で呼んだセシリアの額にルディガーが自分の額を合わせた。


「そう。だから、ずっとそばにいてもらわないと困るんだ」


 軽快なやり取りに今度こそセシリアは笑った。こんなにも満たされる気持ちになるのはいつ以来なのか。


「で、返事を聞かせてくれる?」


 茶目っ気交じりの問いかけにセシリアは改めて姿勢を正して、ルディガーを見据えた。


「ずっと、ずっと好きでしたよ。この命もこの体も……心もすべてあなたに捧げます」


 言い終わるのと同時に唇が重ねられる。セシリアは素直に口づけを受け入れた。長い間、そばにいたのに遠かった心がやっと交わる。


 何度も角度を変えて触れ方に緩急をつけながら繰り返されるキスの合間に、ルディガーはふと昔を思い出した。


『ルディガー、俺になにかあったらセシリアを頼むな』


 准団員としての訓練を終え、明日から正式にアルノー夜警団の団員としては配属が決まった晩。盃を交わしているとセドリックはなんの前触れもなく告げてきた。


 おかげでルディガーは幼馴染みの発言に大きく目を見開く。


 セドリックの表情は内容とは裏腹にあっけらかんとしたものだった。とはいえ、たしなめずにはいられない。


『お前な、縁起でもないことを言うのはやめろよ。それに託す相手が違うだろ』


 そういうのは、いつかセシリアが結婚するであろう相手に対してだ。今のところセシリアはまったくその気がなさそうだが。


 ルディガーだってセドリックと同じで、いつどうなる身かわからない。セドリックは苦笑してルディガーを見つめた。


『そう言うなって。あいつを上手く泣かせてやってほしいんだ』


『そこは泣かすな、じゃないのか?』


 意味が理解できず、ルディガーは訝しげに尋ねる。セドリックから答えはなく、意味深な笑みを浮かべているだけだ。思わずルディガーは尋ねる。


『……セドリック。なんで俺に言うんだよ?』


『お前には、生きる意味が必要だと思って』


 ルディガーがなにかを返そうとすると、先にセドリックが『それに』と続けた。


『唯一あいつを“シリー”って呼ぶ存在だからな』


 あのときのなにもかもを見通しているかのような彼の笑顔をルディガーは一生忘れない。


 ああ、やっぱり。お前には、全部こうなるとわかっていたのか。


 セシリアを守るためにも、彼女に再び同じ思いをさせないためにも、絶対に生きるのを諦めたりはしない。ルディガーは強く誓って、セシリアを抱きしめる力を強めた。

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