8

 再び静寂が部屋を包み、セシリアは行儀悪く背もたれに体を預け天井を仰ぎ見た。焦点がぶれて平衡感覚がおかしい。小刻みに睡眠はとっているものの疲労感が拭えない。


 膨大な情報を整理するためおもむろに瞳を閉じ、しばらくそのままでいると部屋のドアが控えめにノックされる。


 スヴェンかライラのどちらかがなにかを忘れたのか。


 ところが、顔を出したのは自身の上官だった。


「遅くまで頑張るね」


 セシリアは軽く息を吐いて、ルディガーから視線をはずす。彼もまた団服を着ていた。


 ルディガーはスヴェンと違い、今日は城内で事務処理と打ち合わせが主だったはずだ。おそらく自分に気を使ったのだと悟る。


 少し部屋を使わせてほしいと事前に申し出てはいたが、こんな時間にやってくるとは思ってもみなかった。


「ご自分の部屋なんですからノックは必要ないと思いますが」


「セシリアがいるのをわかっていて無遠慮に開けるほど無粋じゃないさ」


 やりとりを交わしながらルディガーはセシリアの方へ近づく。


「お気遣い感謝します。どうされました?」


「心配になってね」


 端的な回答にセシリアの心が揺れた。上官に心労をかけるのは副官として申し訳ない。


「もう休みますから」


 弱々しく答えると、ルディガーはセシリアの正面ではなく右隣のスペースに座ってきた。なので、彼を追う形でセシリアの視線も自然と横に向けられる。


「それもある。でも、責めているんじゃないかと思ってね」


「なにをです?」


 すかさず尋ね返すと、ルディガーがセシリアをじっと見つめる。互いの目線が交差し、ルディガーはゆっくりと口を開いた。


「ディアナ嬢が亡くなったことを」


 ほんの刹那、ふたりの間に沈黙が走る。正確にはセシリアがとっさに返せなかったからだ。奥歯をぎゅっと噛み、一拍遅れてからセシリアは冷静に聞いた。


「なぜです? 私は彼女と直接知り合いではありませんが」


「でも、生きているときの彼女を知っている。彼女がアスモデウスに接触した情報も掴んでいた。なのに、なにもできなかったってね」


 淀みない言い分にセシリアは眉をひそめた。とはいえまったく違うと反論もできない。なので別の角度から返してみる。


「やけにはっきりと言いきりますね」


 セシリアの声はいつもより低く冷たいが、ルディガーはものともしない。


「言い切るよ。セシリアのことを、ずっとそばで見てきたんだ」


 きっぱりと告げられ、セシリアの心は今度こそかき乱された。彼が言っているのは上官としてだ。そしてルディガーの言い分はそれなりに的を射ていた。


 見透かされたのが悔しいような、自分の未熟さを責められたような。ぎゅっと膝で握り拳を作り、すっきりしない頭で続ける言葉を懸命に探す。


 ところが、セシリアが言葉を紡ぐ前にルディガーがいつもの調子であっけらかんと違う話を振ってきた。


「ほとんど飲んでないじゃないか」


 もったいないとでも言いたげな口調だ。ルディガーの視線の先には、セシリアの正面に置かれたカップがあった。


「一口頂きました」


 ライラが部屋を去る際に、片づけを申し出たがそれをやんわり断っていた。中身はすっかり冷め、わりと残っている。色は酸化したのか、淹れたてよりもややくすんでいた。


「もらおうかな」


 なにを思ったのか、あまり美味しそうにも思えないお茶に対し、ルディガーはにこやかに告げてきた。途端にセシリアは怪訝な顔になる。


「冷めていますし、飲みかけですよ?」


「かまわない」


 セシリアは肩を落として、再び資料に手を伸ばし目を通しだした。ルディガーはセシリアの方にさらに距離を縮め、彼女のカップに手を伸ばす。


 せめてカップを彼の方に寄せればよかっただろうか。気遣いができなかったのをわずかに悔やんだが、もう遅い。


 ややあってカチャと音を立て、カップがソーサーに戻されたのを音と気配で感じる。


 さすがに、ひと声かけようとセシリアは資料からルディガーの方へ首を動かそうとした。すると思った以上に彼の顔が近くにあり、驚く間もなく肩を掴まれ強引に口づけられた。


 予想外の展開にセシリアは目を丸くする。すぐさま抵抗しようとしたが、それより先にルディガーがセシリアの腰と後頭部に手を添え、逃げるのを阻んだ。


「んっ……んん」


 唇をきつく結んで顔を背けようとしたが許されず、そのままソファに倒される。ルディガーに覆いかぶさられ、硬いソファを背にし、ますます逃げ道がない。


 彼の肩を押すもびくともせず、逆に唇を重ねたまま頬を撫でられる。彼の目は真剣そのものだ。


 訴えかける眼差しに、相手がなにを望んでいるのか読めた。これ以上、拒否し続けるのが無駄だというのも理解する。


 観念してゆるゆると唇の力を緩めると、おもむろに口内に液体が注がれる。口移しされたものは、さっき飲んだ状態よりも渋みがましている。


「ふっ…ん」


 吐き出す選択肢もあったが、おとなしく嚥下し、それを確認してからルディガーはゆっくりとセシリアを解放した。


 飲み干せなかったお茶がセシリアの唇から流れていくのを、ルディガーは舌を這わせ舐め取る。


 口移しよりもそちらの行動にセシリアの心臓は跳ね上がった。反射的にルディガーの肩を強く押す。


「っ、彼女に、なにを指示したんです?」


 肩で息をしてセシリアは乱暴に尋ねた。ルディガーは改めて至近距離でセシリアを見下ろし笑顔で答える。


「やっぱり気づいていた?」


 ルディガーの反応で自分の中の予想を確信に変える。


 ライラが部屋を尋ねて来たときからセシリアはライラが自分の意志だけでお茶に誘ってきたのではないと考えていた。


 この時間にセシリアがここにいるのは、かなり稀な状況なのにも関わらず、ライラは自分を探した素振りを見せなかった。


 仮にセシリアの自室を訪ねた後でこちらに足を運んだのだとしても、この部屋はルディガーの仕事部屋だ。


 ライラならルディガーのお茶も念のために用意しそうだが、カップに余分はなかった。最初からライラはセシリアがひとりでここにいると知っていたからだ。


 それにライラはセシリアがお茶を飲むのをかなり心配そうに見守っていた。そこでなんとなく彼女の目論見に気づき、セシリアは失礼を承知で一口でお茶を止めておいたのだ。


 やはり、すべては上官が裏で手を引いていたらしい。セシリアは真面目な顔で自分に覆いかぶさったままのルディガーに告げる。さっきの彼の台詞を拝借して。


「私だってそばであなたをずっと見てきましたから」


「お、その殺し文句いいね」


「ふざけないでください!」


 冗談交じりに返され、セシリアはついに感情を露わにした。そして不意に焦点がブレ、目を瞬かせる。


「ライラには強めの睡眠効果のあるお茶を頼んだんだ」


「なんっ」


 とっさに抗議しようとするもルディガーがセシリアの唇に指を添える。思わず眉をひそめるセシリアにルディガーは真面目な面持ちで言い聞かせた。


「少し眠った方がいい。集中力も落ちている。現に今だってろくに抵抗できなかっただろ。俺じゃなかったらどうするんだ」


 先に一口飲んだのもあってか、頭の中にもやがかかりだす。それもあってセシリアは、いつもよりも飾らない言葉で返した。


「……あなた相手にも気を張り詰めていないといけませんか?」


 常に周りに対してセシリアは警戒心を巡らせている。それはルディガーとふたりのときもだ。けれどルディガー自身にはそこまで神経を尖らせていない。信頼しているし信用している。


 いつもなら『すみません』で片付けるのを、このときばかりは本音が漏れる。


 意表を突かれたルディガーは、大きく目を見張ってからすぐに切なげに顔を歪めた。


「その切り返しずるいね。叱る気も失せるよ」


 そして自分の肩を押していたセシリアの手を取り、自身の頬に添えさせた。衝動的にセシリアは手を離そうとするが、ルディガーが掌を重ねているので叶わない。


 先日、エルザが彼に触れていたのを思い出す。真っ白で傷ひとつない綺麗な手。ライラもそうだった。対するセシリアの手は、剣を扱うので傷や痣も絶えない。


 そんな自分の手がルディガーに触れるのは、なんとなく後ろめたかった。


 ルディガーはセシリアの微妙な心の機微などを無視して彼女の手を頬からずらし口元に持っていくと掌に音を立て口づけた。


「セシリアは優しいからね、ひとりで抱え込まなくていい」


 “優しい”ではなく“弱い”の間違いではないだろうか。そう返したいのに、声に出せない。


 本当はルディガーの言う通り、セシリアは自身を責めていた。ディアナの件はなんとか防げたのではないか。早く犯人を見つけないと、ドリスだって危ないかもしれない。


 その不安が眠りを妨げる。情報を集め、調べて動いていないとなにかに押し潰されそうだった。


『平気だよ。彼女の死を悼んではいるけれど、自分が気落ちするほど肩入れした覚えもない』


 自分はルディガーみたいに上手く割りきれない。冷静さを心掛ける一方で感情移入もしてしまう。弱い自分が情けない。そして……。


 もしも私になにかあっても、あんなふうに切り捨てられるのかな。


 副官なのだからそれでいい。とっくにルディガーのために命を捧げる覚悟はできている。 


 副官として、妹分として大事にされていると自覚する反面、彼の本音がどこにあるのかいまだに掴めない。そんな彼が過去に兄を失い、その予防線として誰にも深入りしないし、させないのなら。自分に対してもそうなら……。


 目の奥が熱いのは寝不足だからだ。セシリアはなんとか掠れた声で小さく呟く。


「悪い夢、見そうなんです」


 ルディガーは穏やかに微笑んだ。捕まえていたセシリアの手に自分の指を絡める。


「大丈夫、見ないよ。俺がそばにいる」


 額を重ねられ、優しい口調にセシリアは瞼を閉じる。昔からこの手に、この声にずっと心を落ち着かせてもらってきた。


「おやすみ、シリー」


 唇にかすかに温もりを感じ、セシリアは落ちるように眠りについた。


『先生には簡単なことよ』

『項から背にかけて死斑はあったが、どうも薄い』

『実は私、あの家で忘れ物をしたけれど、返ってこなかったことがあるから』

『そう。例えば……不都合な真実を隠すために、とかな』

『ヴェターは雨が降りそうになると花の色が薄い水色から濃い青に変わるんです』


 膨大な記憶と情報がセシリアの頭を駆け巡る。


 あと少し、あと少しですべて繋がりそうなのに――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る