7

 スヴェンが気配を感じて顔を上げたのとドアが開いたのはほぼ同時だった。鴉の濡れ羽色の髪と同じ双黒の瞳が鋭く光り、来訪者を捉えようとする。


 遠慮なく力任せに開け放たれたドアは激しく音を立てた。ここはアードラーに宛がわれたスヴェンの仕事部屋だ。緊急時でもない限り、ノックもなしにやって来る人物は数えるほどしかいない。


 眉間に皺を寄せ文句のひとつでも言おうとしたが、その前に部屋に現れた人物が凄みのある声で呟く。


「五分前の自分を呪い殺したい」


 珍しく厳しい顔つきのルディガーが低い声で吐き捨てる。スヴェンは発言の内容で大方の事情を察知し警戒を緩めた。


 アードラーとして夜警団に関することならさっさと本題に入るはずだ。しかもルディガーなら冷静に。この男の感情をこんなにも激しく揺す振るのは、スヴェンとしては、ひとりしか思いつかない。


「俺は呪術には詳しくない」


「真面目に返すなよ」


 冷たさを孕んだスヴェンの言葉にルディガーは苦々しく切り返した。顔に手をやり、大きく息を吐くと大股でスヴェンの方へ寄ってくる。スヴェンは再び書類に視線を戻した。


「どうせまた余計なことを言ったんだろ」


 やれやれといった面持ちで告げたスヴェンだが、すぐにルディガーから倍になって返答があると踏んだ。しかしスヴェンの予想ははずれる。


 妙な沈黙に、改めてルディガーを見上げれば、なんともいえない表情をしている。いつもの余裕ある笑みもない。


「どうした?」


 スヴェンはようやく話を聞く態勢をとった。ルディガーはしばし視線を泳がせてから語りだす。


「油断した。足をすくわれたよ。照れるか冷たく返されるのは想定内だったんだ。その後、真剣に畳みかけるつもりだったのに」


「……話が読めない」


 スヴェンのツッコミを無視してルディガーはため息をつく。先ほどのセシリアの言葉が彼女の追い詰められた表情と共に何度も脳内で繰り返されていた。


『……責任は別の形でとりますから。私はあなたのために命を懸けますし、そばにいます。ですが、それは副官としてです。元帥は私を気にせず、いい人がいらっしゃったら自分の幸せを考えてください。それが私の願いでもあるんです』


 拒絶にも似た力強さで一気に捲し立てられ、さすがのルディガーも呆気にとられる。セシリアはルディガーと視線を合わさないまま続けた。声のトーンはいささか落として。


『……ドリスの元でエルザさんに偶然お会いしました。ドリスの従姉だそうで、体を壊し離縁して彼女の元で養生しているそうです。元帥のこと、気にされていましたよ。ドリスも望んでいましたし、よろしければお会いになってください』


 やっと伝えられたと安堵する気持ちと不必要に感情が乱れている自分が情けなくなり、セシリアは「着替えてくる」という名目もあって、挨拶も早々に部屋を出て行った。


 ひとり取り残されたルディガーはしばし状況についていけなかった。軽くとはいえ“結婚”という言葉を口にして、最終的には相手から元婚約者に会ってやれと言う内容で締めくくられるとは。


「やっぱり最初から真面目に攻めるべきだった」


「お前の場合、それでも軽くかわされて終わりだっただろうけどな」


 ルディガーは否定せず、微妙な表情でスヴェンに視線を送る。そんなルディガーにスヴェンは改めて尋ねた。


「で、元婚約者には会うのか?」


「会うさ」


 思った以上にはっきりとした素早い返事に逆にスヴェンが虚を衝かれた。ルディガーは窓の外へと鋭く視線を飛ばした。


「セシリアがドリスの情報を欲しがっている。なら迷う必要はない」


「……相手はお前に未練があるんじゃないか?」


「相手がどういうつもりでも関係ない。俺が優先すべきはセシリアなんだ」


 きっぱりと言い切るルディガーにスヴェンはわざとらしく肩をすくめる。それを見て、ルディガーはやや気まずそうな色を浮かべた。


「お前にも彼女とのことは話しただろ」


 エルザとルディガーは幼い頃から親同士が決めた婚約者だった。なので自分の気持ちを突き詰める前に、彼女とは結婚するのだろうと自然と思っていた。


 とくにエルザに不服もなく、たまにしか会えない彼女をそれなりに大事にしていた。


 一方、ルディガーにとっては幼馴染みと剣の腕を磨く方が楽しく、アルノー夜警団に入団する未来を見据え日々鍛錬を積むのを重視するのは当然だった。


 セシリアは大事な親友の妹で剣の師匠の娘だ。気にかけるのは当たり前で、自分に懐くセシリアをルディガーも可愛がっていた。


 でもそれはあくまでも妹的な存在としてだ。それが崩れたのはいつだったのか。


「セドリックが死んだとき、俺はしばらくセシリアに会えなかった。合わす顔がないと思ったんだ。俺はお前以上にひどい。自分のことばかりでセシリアと向き合えなかったんだ」


 言葉にしようとすれば、そのたびに胃酸が上がり胸やけしそうな苦さと痛みが襲う。


 顔を歪めるルディガーにスヴェンの表情も険しくなっていた。親友を亡くした傷はそれぞれに深い。


「それでも、お前はセシリアを一番気にかけていただろ」


 直接会えなくても、帰還してからルディガーがずっとセシリアを気にしていたのは知っている。あのとき自分たちは十八歳かそこらだ。今よりもずっと覚悟も余裕も足りていなかった。


 ルディガーは少しだけ口角を上げる。


「あのとき上手く取り繕っているつもりで、正直いつ死んでもいいと思っていた。なにもかもが厭世えんせい的にしか見えなくて、自棄になっていたんだ」


 ところが、ベティからセシリアがまだ戻っていないと聞いてルディガーはあれこれ考える間もなく一目散に駆けだした。そのときに気づいた。自分はまだ、すべてをどうでもいいとは思っていない。


 もう失うのは御免だ。今までセシリアに会わなかったことをひどく悔やんだ。


「セシリアと向き合う機会に恵まれて、目が覚めたんだ。自分がなにを大事にしないといけないのかも」


 久しぶりに顔を合わせ、セドリックの死を責められるのも覚悟した。けれどセシリアは責めるどころかルディガーの心配までしてきて、それが同情でもなくまっすぐなものだったから上手くかわせなかった。


 守らないといけないと思ったのは、セドリックの代わりだとか、兄を失わせた後ろめたさとかじゃない。


 森での一件を経て、ルディガーは極力セシリアのそばにいるようになった。エルザと会う時間を割いてでもセシリアを優先した。


 そんなとき、エルザに曖昧に切り出されたのだ。


『ルディガーがセシリアちゃんを気にするのも理解しているわ。後ろめたさでそばにいてあげないとって思う気持ちも。でも、それはいつまでなの? 結婚してもずっと?』


 エルザがなにを言いたいのか、すぐに見当はついた。結婚話も進められておらず、婚約者として自分は彼女を不安にさせている。


 それなのに、なにひとつ彼女を安心させてやれる言葉が見つからない。いつもなら表面的だけでもなにかしら取り繕えていたはずだ。


『このままなら……他にも私との縁談を希望してくださる方もいるのよ』


 これは駆けなのだと。こうまでしてエルザはルディガーの気を引こうとしている。わかっている。


 しばらくして、気迫に満ちて今にも泣き出しそうなエルザにルディガーは導き出した答えを告げた。


『君が幸せになるのを祈っているよ』


 あからさまに傷ついた表情を見せるエルザ。それでも自分の決断は揺るがない。


 ルディガー自身、長年の婚約者に対して薄情だと思った。一方で肩の荷が下りたとどこかでホッとしている自分もいる。


 今は空いた時間をセシリアに使いたかった。後ろめたや罪悪感なんて冗談じゃない。ましてや頼まれた覚えもない。すべて自分で選んで望んだ。


 少しずつ笑顔が戻るセシリアを見て、ルディガーも自ずと笑えた。彼女を気にしつつも本当はルディガー自身がセシリアのそばにいると安心できた。


 だからといって、まさかセシリアを副官にするとは、このときは微塵も想像していなかったが。こんなにもかけがえのない存在になるとも。


「今まで散々、妹扱いをしてきたんだから一筋縄ではいかないのは承知の上だろ」


 たしなめているのかフォローしているのか。スヴェンの発言を受けルディガーは机に手を置き、体を預けて姿勢を崩した。


「そうだな。さらには副官にしてしまった」


「それは本人の希望だろ」


「でも、どんな形であれ彼女を縛っているのは俺だよ。セシリア自身が副官を望んでいるからって言い訳して、本当は誰にも渡したくなかった。スヴェン、たとえお前が相手でも」


 セシリアがルディガーの部屋を訪れたあの夜、上官として、セシリアにとって兄的存在のままでいるなら叱ってでもなだめてでも、上手く諭してなにもせずに帰すべきだった。


 なのに改めて気づかされた。セシリアはもう自分たちの後を追いかけていた子どもではなく、ひとりの大人の女性で、とっくに自分の進む道に対して覚悟を決めている。


 エルザのときには湧かなかった手放したくない強い想いと奔る独占欲に驚いた。冷静に賢く生きてきたつもりだったのに、衝動的な感情はどこから来るのか。


 誰かと幸せになって欲しいなど、託す気持ちにはまったくならない。セシリアの気持ちが向くのは自分だけでいい。彼女に触れるのも、その瞳に映すのも。


 当初、セシリアはスヴェンとルディガーの副官として任命された。だが結果的にルディガーの副官として収まっているのが現状だ。不服を唱える者もいない。


 ルディガーの一連の告白にスヴェンは呆れた面持ちになる。


「最初に言っただろ、俺に副官は必要ない。セシリアは自分でお前のそばにいるのを望んだんだ。今さら俺に妙な後ろめたさを感じるな」


「スヴェンにはないさ。あくまでもセシリアに対してだよ」


 ぬけぬけと返すルディガーにスヴェンはつい眉根を寄せた。しかし、続けられたルディガーの声は神妙なものだった。


「そばに置いて、自分のエゴなのにも関わらず、あの子の願いも叶えたつもりだった。上官という立場で、安全な高い位置から見下ろしていたんだ」


 副官になったセシリアは、まっすぐで一生懸命でいつも必死だった。ルディガーの役に立ちたいと、それだけを叶えるために言葉通り自身を捧げている。


 そんな彼女に妹として扱ってきた手前もあって、あっさりと翻った自分の本心を告げるのは難しく、気も引けた。


 副官として揺るがないセシリアの気持ちを汲んでやるのが上官の務めだと思っていた。だからいつも自分たちの関係を曖昧にしか表現できなかった。


 セシリアは自分にとって特別で、自分のものなのだと口にして、それはセシリアに対してではなくルディガー自身が確かめたかった。


 上官と副官になって、互いに言わなくても伝わることが増えた。居心地のいい関係を築けてきた。けれど、どちらも本心を秘めたままでは、それ以上深くには触れられない。


 踏み出すのは自分からだ。たとえセシリアが望んでいないとしても。


 そもそも最初に上官としての枠を踏み越えたのはルディガーの方で、言い訳などとっくに無用だ。


「そろそろ俺も本気で向き合わないとな。もう六年だ」


 暗かった空から静かに雨が降り始め、大地の色を変えていく。細やかな水滴が窓を滑っては跡を残していった。


 ルディガーは笑みを浮かべ、誰にでもなく呟く。


「この状況をセドリックが見たら一発くらい殴られてるな」


「いや、あいつはきっと笑っただろ。しょうがないって顔してな」


 スヴェンの返答にルディガーは目を見開く。そしてゆるやかに目を閉じた。


「そうかもな」


 小さな声は外の音にすっと溶けた。徐々に雨脚が強くなっていく。しばらく雨は止みそうになかった。

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