7

 苦しくて胸が詰まりそう。


 完全に脳が酸素不足だ。応え方もわからない。自然と漏れる甘ったるい声が自身のものなのだと思うと、羞恥心で逃げ出したくなる。


 とはいえ自ら言い出したのだから、なにも抵抗はできない。やめられるわけにもいかなかった。


 口づけが終わると、ルディガーはセシリアを一度強く抱きしめてからそっと彼女を抱え上げた。おとなしく体を預けていると、ベッドに仰向けに下ろされる。


 短くなったセシリアの柔らかい金色の髪がベッドに散る。肩で息をして目を見開いているセシリアにルディガーは覆いかぶさった。


 その表情は心配そうで、やるせなさそうで。彼の指先がセシリアの頬に触れる。こういうときになにを言えばいいのか、気の利いた台詞ひとつ浮かばない。


 でもこれは愛を確かめ合う行為じゃない。


「私は……後悔しません」


 震える唇で懸命に嘯く。刹那ルディガーは苦しげな面持ちになったが、おもむろにセシリアの額に口づける。まるで兄が妹にするかのような仕草。


 けれど、それを皮切りにキスは顔の至る所に落とされる。瞼、目尻、頬、そして唇へ。壊れ物を扱うかのごとく慎重に、それでいて優しくルディガーはセシリアに触れ始めた。


 ひどくでいい。機械的でいいのに。


『俺が断ったら、誰か他の男のところに行くのか?』


 行くわけない。最初から他の選択肢なんてなかった。その反面、胸の内にある秘めた想いを悟られるわけにもいかない。むしろこれで消すと決めた。


『きっと後悔する』


『シリーは大事な妹みたいな存在で……』


 ごめんなさい。妹にしか思えない私をこんな形で――。


 おそらく彼は自分を副官にする責任を感じている。それを逆手に取ってこんなやり方は卑怯だ。セドリックの件もあるのに、ルディガーにはさらに重いものを背負わせる。


 全部わかっている。いくら御託を並べてもこれは完全なセシリアのワガママとエゴだ。自分の中のけじめにルディガーを付き合わせている。


 でも、この先なにがあっても私はあなたのために命を懸けるから。あなたが誰と愛し合って結婚して、家庭を築いても。副官として変わらずにずっとそばにいる。


 ――だから許して。


 不意にセシリアの目尻から涙が零れ落ちた。おかげでルディガーの動きが止まる。


「シリー」


 名前を呼び、ルディガーはセシリアの頭を撫でる。


 その呼び方は嫌いだ。触れ方も。彼がいつまでたっても自分を子ども扱いしているようで、妹だと言われている気がして。


 もしも部屋を訪れたのが別の女性だったら、たとえば元婚約者のエルザだったら彼はどんな態度を取っていたのだろう。


 考えては虚しさが広がっていく。するとルディガーがふと尋ねた。


「辛いかい?」


 それは体がなのか、心がなのか。


 思えばルディガーはいつも曖昧な言い方をしても、核心に触れてくる。セシリアは言葉にはせず静かにかぶりを振った。


 ルディガーは固く握られているセシリアの左手を取り、やんわりと指を開かせる。掌には爪跡がくっきりと残り、赤くなっていた。労わるようにその手を口元に持っていき、彼女の手のひらに口づける。


 一連のルディガーの動作をセシリアは目を逸らせずに見つめていた。


 そして不意に視線が交わる。彼の表情は今まで見たことのない、妙な色香を孕んだ大人の男のものだった。


「なら、今は俺のことだけ考えてればいい」


 ひとり握っていた手に指が絡められ、ベッドに縫い付けられる。温かさに安堵してまた涙腺が緩みそうになる。


 それはこっちの台詞なのに。


 今だけでも、一瞬だけでも、自分のものになってくれたら……。


 心の中でそっと呟いて、セシリアは感情のスイッチを無理やり切る。最初で最後だと言い聞かせ、セシリアは余計な考えを止めて素直に身も心も彼に委ねた。


 翌日、真っ新(さら)の団服に身を包んだセシリアはスヴェンの元を訪れた後、ルディガーの部屋に向かった。緊張したのはほんの束の間、彼に会えば気持ちはすぐに切り替えられた。


 昨日、先に挨拶は済ませていたので、形式ばかりのやりとりを終え、セシリアは今日から正式にふたりの、ひいてはルディガーの副官になった。お互いに、昨夜の一件は口にはしない。


「では、どうぞよろしくお願いいたします」


 話が一段落し、セシリアは部屋を出て行こうと踵を返した、そのとき。


「セシリア」


 呼び止められセシリアはルディガーの方に向き直る。ルディガーは椅子から腰を上げ、机を回り込み大股でセシリアに近づいてきた。


「俺のために命を懸けるという誓いに偽りはないな?」


 気迫迫る勢いの彼に虚をつかれつつセシリアは迷いなく答えた。


「はい」


「わかった。なら上官として最初の命令だ」


 セシリアは改めて背筋を正し、ルディガーを見上げた。ルディガーはセシリアの真正面に立つ。


「勝手に死ぬのは許さない。その体に傷をつけるのも、誰かに触れさせるのも」


 思わぬ命令内容にセシリアは目をぱちくりとさせる。しかしルディガーは真剣な面持ちを崩さない。そっとセシリアの髪先に手を伸ばした。


「髪の毛一本でもだ。全部、俺のものなんだろ」


 確認してくるルディガーにセシリアは表情を引き締める。


「はい」


 力強くセシリアは答えた。自分は彼のものだ。だからといって彼が自分のものでも、ならないのも重々に承知している。それでも自分の決意は揺るがない。


 その信念を貫き、セシリアはルディガーの副官を六年務めてきた。彼女も今年で二十二歳になる。


 セシリアとルディガーは任務として恋人を演じる延長で口づけを交わしたりもしたが、体を重ねることはなかった。本当にたった一回だけ。  


 さらにセシリアが諜報活動する中で、標的が異性であっても寝る機会は一度も訪れなかった。セシリアの実力はもちろん、ルディガーの采配も大きい。


 必要以上に過保護なのは、やはり自分を妹分だと思っているからか、副官にした負い目を感じているからなのか、気にはしても、セシリアは聞けなかった。


 聞いたところでルディガーが素直に答える性格ではないのも知っている。


 自分のものだと度々試す真似をするのは、失う怖さを経験しているからだ。セドリックの件でルディガーもスヴェンも深い傷を負っている。


 ルディガーは殊更それを表には出さない。だから余計に、セシリアは彼の前で兄の話題に触れられなかった。


 セシリアの知る限りルディガーはエルザと別れてから恋人や婚約者などの浮いた話はひとつもない。気まぐれに寝る相手がいるのかもしれないが、セシリアにはわからない。


 余計な口出しはしないが、いつか兄の件を乗り越えて本当に大切な人を見つけて欲しいと願う。


 部下であり親友の妹である自分でさえ、すごく大事にしてもらっている自覚はある。過保護すぎるくらいだと何度も思った。


 彼に本当に愛される女性はきっと幸せだ。スヴェンだってかけがえのない大切な相手に巡り会えた。次はルディガーの番だ。


 もうとっくに自分の想いは封印した。痛むのは古傷だ。治ってはいるのに、こればかりはどうしようもない。


 ルディガー同様、その感情を表に出さずにいられるくらいにはセシリアも大人になった。

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