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セシリアは初めてルディガーの婚約者に会ったときを思い出す。兄から彼の婚約者の存在を聞かされた数日後の話だ。
たまたまルディガーが彼女と一緒にいたところに、兄のセドリックと共に遭遇したのだ。こういうのを想定して兄は自分に先に彼女の存在を教えていたのかもしれない。
ルディガーはいい機会だといわんばかりにいつもの笑顔をトロイ兄妹に向け律儀に……無神経にセシリアに彼女を紹介してきた。
自身の身内も夜警団の団員として活動しているというクレンマー卿の娘エルザはルディガーよりもひとつ年下で、おとなしそうな娘だった。
赤みがかった茶色の髪はまっすぐで光沢がある。ルディガーの肩にも届かない身長のセシリアとは違い、彼女の背はルディガーより少しばかり低い程度で隣に並ぶと、とてもお似合いだった。
エルザはやや腰を屈めセシリアに視線を合わせてくる。そんな気遣いさえもセシリアにとっては気に入らない。
『はじめまして、エルザ・クレンマーです』
『……セシリア・トロイです』
『セシリアちゃんね。ルディガーから聞いているわ。その年で剣の腕がすごくて、頭もいいって。妹みたいに可愛がっているって』
セシリアはその言葉で頭に血が上り、顔が赤くなる。少なからずプライドを傷つけられた。瞬時に言い返したくなる衝動を必死に抑える。
彼女とはたった三つしか違わない。なのにエルザはルディガーの婚約者で自分は妹でしかない。ルディガーがなにか口を挟んだがセシリアの耳には届かない。
『悪いね、ルディガー。先を急ぐから。エルザ嬢もまた』
セシリアの肩をすかさず抱いたセドリックがフォローをする。セシリアも形だけの挨拶をしてそそくさとふたりのそばを離れた。
直視できなかったものの親同士が決めたからというのもあってか、ルディガーとエルザの距離や雰囲気はそこまで親密そうなものではなかった。それだけがセシリアを慰める。
しばらくしてセシリアが言葉とは裏腹の調子で兄に投げかけた。
『素敵な人だったね』
『そうだな』
心のどこかで否定して欲しかったのを、兄はさらりと肯定してきた。おかげでセシリアは眉をつり上げる。
『でもシリーも十分に素敵だよ』
すかさず付け足された言葉にセシリアは目を白黒させた。セドリックは改めてセシリアと目を合わせ微笑む。いつもの困惑気味な表情だった。
『って、ルディガーなら本気で言うんだろうな』
セシリアは頬を紅潮させ、唇をわなわな震わせた。しばらくして瞳から大粒の涙が零れ落ちる。
わざとセシリアの感情を揺さぶって泣く理由を作ってやると、セドリックはセシリアとの距離を縮めて頭を優しく撫でた。大きくて温かい手がセシリアの涙腺をさらに緩ませる。
『こうでもしないと、お前は素直に泣けないからなぁ』
昔から厳しい父の手前、セシリアは泣くのが苦手だった。子どもだろうが、女だろうが泣けば父は鬱陶しそうな顔をし、機嫌をさらに損ねてしまう。
感情を露わにすれば、相手に付けこむ隙を与える。そう叱責されてきた。
おかげで、ずっと我慢して泣かないようにしてきた。ルディガーに婚約者がいると聞いたときもショックではあったが泣きはしなかった。
そんな中、セドリックだけはいつもこうして溜め込んでいるセシリアの感情を吐き出させてやる。
『大切な存在は妻や恋人だけとは限らないだろ? セシリアが割り切れるなら、これからもあいつのそばにいてやれ。ルディガーがお前を必要とする日が必ずやってくるから』
軽く鼻をすすってセシリアは涙声で尋ね返す。
『……兄さんがそばにいるのに?』
副官の兄ではなく、自分がだろうか。セドリックはいつになく真剣な面持ちで答えた。
『未来は誰にもわからない。見返りが欲しいなら辛くなるだけだろうから勧めはしないが。そのときが来たらセシリア自身が決めればいい』
そのときはいつ来るのか。どういうときを指すのか。尋ね返したい気持ちを封じ込ませるほどに兄の表情は摯実そのものだった。
季節が巡り、セシリアは十四歳になった。変わらないと信じて疑わなかったものも少しずつ移ろい、変化していく。気持ちも、見た目も、自分を取り巻く環境さえも。
真正面からしかぶつけられなかったルディガーへの恋心も、だいぶ自分の中で折り合いがつけられた。エルザと共に会う機会が何度か訪れたのもある。
彼なりに同性として仲良くして欲しかったのかもしれない。余計なお世話だとイラつくよりも、ルディガーらしくて苦笑した。
もちろん彼を前にすればまだ胸も痛むし、切なさで苦しくもなる。一方で涼しげな仮面を身につける術も覚えた。
久しぶりに会ったルディガーには『シリーも大人になったんだな。昔は会えば、すぐに駆け寄って抱きついてきたのに』と残念そうに言われた。
この年でさすがにそこまでストレートな態度はもう取れない。しても問題だ。彼には婚約者もいるのに。
やっぱり自分はまったく異性として意識されていないのだと痛感したが今更だ。
十八歳になるのにルディガーはまだエルザと結婚していなかった。夜警団に入団してからずっと忙しくしているからなのか、他に理由があるのかはセシリアの知るところではない。
その事実にどこか安心している自分もいて、いっそのこと踏ん切りをつけるためにも、さっさと結婚してはっきりと止めを刺して欲しいとも何度も思った。
セドリックたちは十五の年を迎え、正式にアルノー夜警団に入団した。最初の一年は准団員として訓練を積み、剣の実習や団員としての心構えなどを叩きこまれる。
そこで脱落する者も少なくはないが、その間に各々の個性や適性を見られ一年後に正式な団員として役に任命されるのだ。
現アードラーの推薦もあり、剣の腕も申し分なくルディガーやスヴェンは入団三年目にして同年代の者で結成された小隊の長を任されている。
セドリックはそんな彼らをサポートしつつ団員たちへの配慮も怠らない。おかげで彼らの業績はセシリアの耳にも入ってきていた。それはいいことなのか、悪いことなのか。
最近、夜警団が緊張状態にある国境付近や国外に派遣されるなど、他国を必要以上に刺激しているという不穏な話がどうも多い。
国王の意向らしいが『必要最低限の介入を』というアルノー夜警団の基本理念に反しているのでは、と疑念を抱く者も少なくはなかった。
しかし不敬罪で捕まりたくもない。声を大にして言える者はいないに等しかった。
おかげでセシリアとしては手放しに彼らの活躍を喜べない。頻繁に会えなくなったのを寂しく感じるよりも先に心配が付きまとう。
待つだけなのはもどかしい。セシリアも次の年で十五歳になる。結婚も夜警団への入団も許される年齢だ。
厳しい冬を耐え抜き、草花や動物が目覚める春近く。空が澄み切ったある晩、月は闇夜にその姿をすべて晒けだし、煌々と輝いていた。
自室の窓からセシリアは空を眺める。落ちてきそうなほどの大きな満月は神聖さを湛えつつ逆に胸騒ぎも覚えさせる。
たしか今、兄たちは南国境付近へ赴いているはずだ。あそこは殊更情勢が不安定だと聞いている。この月は彼らも照らしているだろうか。
セシリアは兄から譲り受けた短剣を鞘から抜いて慎重に窓際に置いた。刃の部分に月を映し、静かに願う。
どうか皆、無事でありますように。
今回もきっと大丈夫だ。そうに決まっている。彼らが戦場に身を置く機会は何度もあった。それなのにセシリアの心を覆う陰はいつになっても晴れなかった。
空にも薄雲が現れて月をぼやかせていく。まるでなにかの予兆だった。
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