第7話

「何読んでるの?」 


あの日、図書室で出会ってから、なんとなく僕たちは会話をするようになった。

場所は決まって図書室の隅っこの机。

僕だけの城は、僕たちの城へと変わっていた。


「くだらない本だよ」

三嶋葵はいつもそっけなくそんなことを言う。

一度、それなのになぜそんな本を読むのか、と尋ねれば、

「じゃあ安達は山の上の静かな森でしか呼吸しないの?」

と逆に質問されてしまった。


三嶋葵にとって、読書とはすなわち呼吸なのだ。生きるために、生きとし生けるものすべてが当然行う行為。彼女は息を吸うように本を読む。そこに選択の余地はない。


「安達はここで何してるの?」

そんなことを聞かれたのは、若葉の緑もいよいよ濃くなってきたころ。

もう出会ったときから1ヶ月もたっていた。

それなのに今更ながらの質問はあまりにも三嶋葵らしいと思う。


三嶋葵は、まずはすべてを受け止めるのだ。

こういうものである、と言った余計な邪念を挟むことなく、ただ受け止める。

だから、僕という存在も、ただここに在るものとして受け入れていたのだろう。

それが何故か、1ケ月の時を経て、僕に興味を持ってしまったらしい。


その事実が、なんとなくうれしい。

だからこそ真摯にその質問に答えなければならない。

とは思ったものの。


「僕は…」


…僕は何をしているのだろう?


どこにいても居心地が悪くて、流れ流れてここまで来た。住みやすいキレイな水を求めて魚が川を泳ぐように。

それでも、たどり着いたここで何をしているのかと問われると、どう答えていいのか分からない。


それでも、嘘だけはつきたくなかった。

この不器用に真っ直ぐに生きている彼女が純粋に疑問に思った僕自身の事に、嘘はつけなかった。


「僕はただ、流されるようにここへ来ただけで、君のように目的があるわけじゃないんだ」

絞り出すように紡いだ言葉。

「ふうん」

三嶋葵は淡々と相槌をうつ。そこには何の感情も見当たらない。


「こんなの、ただ逃げてるだけだ。それは分かってるし、逃げることが最善の方法だとも思わない。でも、どうしても逃げたかったんだ。…カッコ悪いだろ?」

あまりの恥ずかしさに、最後の方は消えそうな声になってしまった。

ただ逃げている僕。

その事実をまざまざと見せつけられてる気がして。


聞こえなかったのか、三嶋葵は何も言わない。

彼女との間でこんなに無言が気まずいのは初めてだった。

なんとか言葉を探そうと必死な僕と対照的に、三嶋葵は変わらず本を読み進める。


「…あの、」

僕が声を掛けようとしたとき。

「いいじゃん、それで」

真っすぐなまなざしが僕を刺す。

「安達はそれでいいんだよ」

途端に僕の心に温かいものが満ちてくる。


いいのか。

いいんだ。

僕はこれでいいんだ。


何者でもない僕に焦り、苛立ち、どうにもならなかったのは僕自身で。

それでも逃げることしかできなくて。

そんな自分に絶望して、それでもただ時は流れて。


いいんだ。

そんな僕でもいいんだ。


「苦しくて逃げたのなら、そしてそれを自分が分かっているなら、それでいい。私だってただ単に息苦しいから本を読んでいるだけ。安達と同じだよ」

その瞳は強くやさしい。

他人に興味がなく、独特のペースで生きているような三嶋葵のこんな慈愛に満ちた顔を知っているのは、きっと僕だけだろう。

それがどうにも恥ずかしいような誇らしいような、そんな気持ちだった。


「…ありがと」

それだけは伝えたくて。

必死に言葉を絞り出す。


三嶋葵はきょとんとした顔をして、それでもなんとなく頷いてくれた。

なぜお礼を言われたのか、きっと分かっていないのだろう。

それでも思う。

逃げている後ろめたさから救ってくれたのは、間違いなくこの目の前にいる少女だから。


僕を認めてくれてありがとう。

逃げている僕をまるごと受け止めてくれてありがとう。


そんな気持ちをすべて込めたありがとうは、分からないながらも届いたようで。

「安達、なんか情けない顔してる」

そんなことを言う彼女の顔がうっすら赤らんでいたことを、僕だけが知っていた。

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