ワレスの秘密

ワレスの秘密 1



 やわらかに木々の芽吹く星の月が終わり、火の月に入ると、ユイラの森は目にしみるほどまぶしい鮮緑に、どこもかしこも染めあげられていた。

 若葉が金色の日差しを受けて、エメラルドのように輝く。

 花の香りをふくんで吹きぬける爽やかな風。

 何もかもが夢のように美しく、心地よい。


 この景色のなかをハシェドと二人で歩く。

 それは先月、ハシェドが地下牢に入れられていたときから、どうしても叶えたいワレスの願いだった。

 あのとき、冥府の底の暗闇のような地下で、このままハシェドを失ってしまうのではないかと思った。

 あの陰鬱な気分を払拭したい。

 ワレスの運命を思えば、決して明るい未来が待っているはずはないが、せめて今、この美しい景色のなかでは忘れていたい。

 ワレスが本気で愛した人は、必ず死んでしまうという運命を。


 記憶にあるかぎり幼少のころからの、この奇妙で残酷な定めのために、ワレスはハシェドへの思いを隠していなければならない。愛していないふりをしなければ、ハシェドの命を奪ってしまうから。


 だが、それにしてもワレスだって人間だから、ときとして激情を抑えきれないこともある。あの地下牢のなかで、ワレスに愛されないと言って泣くハシェドを見て、思わず抱きしめてしまった。あれはやりすぎだったろうか。



 ——ジェイムズのことは、もう過去だよ。それが今、わかった。



 ささやいて、抱きしめて、抱かれてもいいとまで言った。

 あれはハシェドにはどんなふうに聞こえたろう。

 ハシェドの気持ちを翻弄していなければいいのだが、このごろのハシェドのようすを見るとわからなくなる。

 ワレスを見るときのハシェドの目に、以前にはなかった甘い蜜がある。

 それはワレスにとっても嬉しいことだが、同時に困ることでもあった。前述のごとく、ワレスはハシェドを恋人にするわけにはいかないのだ。


 アーチに手を出したのは、もちろん、そのせいだったが、着工式の場で再会したのは予想外だった。

 たしかに相手が純情な素人だと承知の上で誘惑したことは、ワレスに非がある。

 しかし、それにしても、あそこまで本気になるとは思ってもいなかった。

 泣かせた罰だろうか。

 よりによって別れ話をハシェドに聞かれてしまうなんて。


「おまえの思いにはこたえられない」


 死神に取り憑かれたやっかい者と縁が切れて、喜ぶべきことなんだとは思いもしないで、泣きじゃくるアーチを残して歩きだした。そして、ワレスはそこに立っているハシェドと鉢合わせした。ワレスも驚いたが、ハシェドも困りきった顔をして、目を伏せた。


「……すみません。サムウェイ小隊長がお呼びです」


 この距離なら、ハシェドにも充分、ワレスたちの声が聞こえたはずだ。問題はどのていど聞かれたかだ。


(気づいただろうか? アーチネスの言っていた身代わりが、おまえのことだと?)


 だが、それなら、もっと嬉しそうな顔をするはずだ。あるいはいつも近くにいる自分の身代わりがなぜ必要なのか、疑問に思うはず。

 そのわりには、ハシェドの表情は冴えない。いったい何を思っているのか気にはなったが、追及すると泥沼にハマりそうだったので、あえてワレスは何事もなかったかのようにふるまった。


「そうか。サムウェイがな。着工式の支度が整ったかな」


 ハシェドはだまってワレスのあとについてきた。

 なんとなく気づまりな沈黙。


 本隊に帰ると、サムウェイが難しい顔で魔法使いと話していた。魔法使いはワレスのよく知るロンドではなかった。顔に覆面のようなフードをかぶったままなので、男だか女だかもわからないが、声の感じは女だ。


「何かあったのか?」


 ワレスがたずねると、小柄な女の魔法使いは冷静な声で告げる。


「森のなかに怪しい気配があります」

「それは、この場所であった怪異のせいか?」

「いいえ。それとは別ですが、とても強い力の持ちぬしです。ただ……通常の魔物の気配とも異なるので、一概に危険とは言えません。ですが、用心するに越したことはありません。くれぐれも個人での行動はつつしんでください」


 それでわざわざ呼び戻したわけだ。

 ワレスは自分のことよりも、一人で残してきたアーチが心配になった。ずいぶん気落ちしていたから、ほっておいたらずっとあそこで泣いているかもしれない。彼に恋しているわけではないが、死なせるのはかわいそうだ。


 ワレスは帰ってきたばかりの道をひきかえした。急いで走っていったが、すでに森林警備隊の仲間が迎えにきて、本隊のほうへつれ帰るところだった。


(案ずるまでもないか)


 安心して本隊へ戻った。

 だが待っていたハシェドの顔つきを見て、ワレスには別の心配ごとができた。

 やはり、ハシェドはさっきのワレスとアーチの会話を聞いたのだ。悲しげな顔で目をそらす。

 たぶん、ハシェドはワレスの気持ちを悪いほうに誤解している。

 愛していると告げるわけにはいかないが、ハシェドを悲しませたくはない。


 その後、着工式はつつがなく終わった。しかし、ワレスの心は落ちつかなかった。

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