(9)ストゥルベル城にて
それは遠く地上から見上げるよりもずっと大きく、そしてしなやかだった。
リームの手のひらほどもある漆黒の鱗は、わずかな残陽に輝いてきらきらと宝石のようだ。
その宝石が敷き詰められた場所に、リームはいた。
「な、なななな、なにが、どーゆうっっっっ!?!?」
「あっはっは! 落ち着いてよ、リーム!」
腹の底から笑うティナにばんばんと背中を叩かれても、リームは一向に落ち着けなかった。
目の前には黒い宝石のような鱗が覆った背。ほっそりとした首に続き、体に対して小さな頭には2本の角が生えている。左右には大きな皮膜状の翼。これだけ 大きなものが側で動いているのに突風を感じないのは、結界のおかげなのだろう。竜は翼ではなく魔法で飛ぶという。
――そう、竜、なのだ。
リームはクロムベルク王国を守護する黒竜の背に乗っていた。
「ファラさんの名前って、あまり国民に知られてないんですね」
『竜にとって名前は神聖なものですから。なるべく広まらないようにしているのですよ』
音ならざる音が声となって耳に届く。音でないことは確かなのに、人間はそれを音として捉え、声として認識した。ファラが人間の姿をしている時とまったく同じ、柔らかく暖かい声だ。
「……お、王妃様……?」
『なんですか? リーム』
呆然と呟いた言葉にさも当然のように応えられて、リームはふうっと気が遠くなるような気がした。
夢だとしても突飛すぎる。何故、飛ぶ姿を見上げて祈っていただけの一般国民たる自分が、畏れ多くも王妃様の背に乗っているのだろうか。溶ける鍋よりも飛び跳ねる皿よりもずっとありえない。
『……大丈夫ですか、リーム。飛ぶ速度が速すぎますか? 結界を張っているので大丈夫なはずですけれども』
「ほら、リーム、石像みたく固まってないで、まわりを見てごらんよ。昼は昼できれいだけど、夜の風景も良いもんよ」
反応のないリームにファラとティナが声をかける。しかし、その声も耳に入らないようだった。
「……なんで、どうして……こんなことに。やっぱりお祈りせずに神殿を抜け出したせいかなぁ? あぁ、光のヴォルティーン様、運命のメービス様、時空のクゥノス様、大樹のフィーグ・ラルト様、どうかお許しください。そしてか弱き人の子に祝福を……」
目をつぶって祈りの言葉を呟くリームには、その祈りの言葉を聞いてなんとも微妙な表情をするティナは目に入っていなかった。
「あー、ファラさん、ストゥルベル領ってどこにあるんですっけ?」
『北東の方角です。領都のストゥルベルは港町なのですよ。そうですね、大体2刻もあれば到着するでしょう』
「ふーん。そこの領主の娘なわけね、リームは。さらに、母親がファラさんの義理の従姉妹……ってことは、エイゼル様の従姉妹なんです?」
『えぇ、先王の弟君がリームの祖父にあたるのです。弟君には娘しかおりませんから、今のところリームがストゥルベル家の跡継ぎということになります』
「うーん、聞いてるだけでややこしそうな家柄……」
聡明なリームは聞こえてくる会話を聞こえなかったことにした。自分の理解を超えているし、理解したくもない。
意を決してピノ・ドミア神殿から逃げ出したのに、その意味がまったくなくなってしまった。
このまま屋敷に連れて行かれたら、なし崩しに貴族の娘として籠の中に囚われてしまうのではないか。
リームはティナの服の裾をぎゅっと掴んだ。
「ティナ……私は貴族の子になるなんてイヤ。これからも雑貨屋で働きたいし、お金を貯めたら魔法学校にも行きたいです。もし、屋敷に閉じ込められそうになったら、連れて逃げてくれますか?」
ティナは笑ってリームの頭を撫でた。
「そんな心配してたの? だいじょーぶよ。会うだけだって、ファラさんも言っていたでしょう。万が一、リームの意に反して手元に置こうとしたとしても、私が絶対連れ出してあげるから」
『ふふふ、ティナちゃんの保障があれば、これ以上心強いことはありませんね。リームは良い勤め先を選んだものです』
王妃様と旧知の仲らしいこの不思議な雑貨屋の店主は、一体何者なのか。
想像もできないけれど、リームは店主に頼るしかないのだった。
雲の合間からちらちらと星がきらめく夜。
港町ストゥルベルの高台にある領主の城に、黒く巨大な影が舞い降りた。
魔法の明かりでそれを向かえる魔法士たち。一列に並ぶ衛兵たち。中庭は物々しい雰囲気に包まれている。
ティナとリームがその背から降りたのを確認すると、黒き竜は闇に包まれてその形を変えた。
「王妃ファラミアル殿下とそのご友人、ご到着ーー!!」
衛兵達の敬礼に、優雅にドレスの裾を払いながらファラミアルは微笑みで応えた。
「……やっぱり帰っちゃダメ?」
「何言ってんの~。ここまで来たんだから、顔ぐらい見ていきなよ」
ふかふかの絨毯が敷かれた石造りの廊下を、侍女に案内されながら歩いていく三人。
リームにしがみつかれっぱなしのティナは相変わらずの笑顔だ。やたら仰々しい出迎えにも、城の重厚な装飾にも何の驚きも受けないようで。
「ティナって……宮廷魔法士だったんですか?」
「え、何で???」
そのリームの質問にこそ、一番驚いたようだった。
お召し物をご用意いたしました、と案内されたのは、衣裳部屋だった。つやつやと光る上質の布でできたドレスは、どれも繊細な刺繍のレースがふんだんにあしらわれており、街の店では見たこともない。
しかし、リームは頑なに着替えを拒んだ。それが自分に似合うとは到底思えなかったし、なんだかドレスを着てしまえば貴族の世界に入ってしまうような気がしてイヤだったのだ。
侍女にしか見えない姿の自分を見れば、母親だと自称する人も子供にするなんて言わないに違いない。
そう思いながら……胸の奥は何故か重かった。
「わたくしは、別の部屋に居りますわ。リーム、緊張しなくていいのよ。いつも通りのあなたでいてちょうだい」
侍女が左右に控えた大きな扉の前。ファラは優しくリームに声をかけるが、リームは緊張の余り言葉が出ず、ただこくこくと頷くしかなかった。
「あー、私も別室にいたほうがいいのかなー?」
「ダメ! それはダメ!!」
この上ティナにまで離れられたら不安すぎる。リームは必死の思いでティナの服を掴んだ。もうティナの服のすそは握られっぱなしでしわくちゃだ。
「わーかった、わかったから。ほら、さっさと行きましょ」
「ちょ、ちょっと待ってください。まだ心の準備が……」
「んなもん、いつまでたってもできないものでしょ。さ、お願い」
ティナが侍女に合図すると、目の前の扉がゆっくりと開かれた。
リームは、どきどきと鳴る自分の心臓の音でまわりの音がよく聞こえない。
――部屋の中は白を基調とした家具が並び、豪華な中にもすっきりとした調和のある部屋だった。
花が飾られたテーブルセットと柔らかそうなソファは無人。奥に続くもうひとつの部屋に、なんだか人だかりが見えた。
「ほら、行くよ」
「うぅ……」
ティナに半ば引きずられるように部屋へ入るリーム。奥の部屋には、何人もの侍女に囲まれて、床にうずくまっている女性がいた。背を向けているので顔は見えないが、流れるような金髪がごく淡い桃色のドレスに映える。
「フローラ様、リーム様がおみえになりました」
「あ……」
侍女の声に、女性は驚いたように息をのんで、そして――振り返った。
大きく見開かれた翡翠の瞳、陶器のような白い肌は頬にほのかな赤みがさして、人形のように愛らしい。まさに貴族のお姫様というに相応しいひとだった。
このひとが……母親? まさか、何かの間違いだ。母親どころか、結婚しているようにすら見えない。
リームと女性が見つめあったのは、ほんの一瞬だった。
振り返った女性は、突然、その大きな瞳からぽろぽろと涙をこぼした。
「ああ……リーム、私……」
ひっくひっくと泣きじゃくる女性。周囲の侍女は慣れた様子でハンカチを何枚も準備している。
――ええと、どうすればいいの? リームはティナを見上げるが、ティナは意味ありげな視線を返してくるだけ。
もう一度、女性に視線を戻す。めそめそと泣き続けるお姫様。言わなきゃ。私は貴族の子になるつもりはないって。
口を開いて、息を吸って……でも声が出てこなくて。
リームは――逃げ出した。
「ちょっと、リーム!?」
ティナの声を振り払うように、驚く侍女を押しのけて、部屋の外へそして城の外へと向かって駆けてゆく。
このままもう一度逃げ出そう。私は誰の子にもならない。貴族なんて二度と関わらない。
女性の泣き顔がよぎる。あの女性は私に何を言いたかったのだろう。泣き顔はとてもつらそうで、でもどこか嬉しそうだった。
しかし無心に走るリームに、複雑な城の出口を見つけられるはずがなく。
「……あれ?」
いつのまにか自分がどこにいるのか、分からなくなってしまったのだった。
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