君が忘れてしまっても

人鳥風月

第1話 望まぬ出会い

私の人生は数々の不運に彩られてきた。

生まれは分からず孤児院育ち。道を歩いて出会すのは鳥のフン、犬のフンあと泥水。

商店街の福引は毎回ティッシュで、大抵次に回した人が一等を出す。

電車の遅延は朝飯前、時によっては車さえ止まる。

何故か怪我をする様なことは無いが、地味な不幸の数々。

一つ一つ上げていけばキリがない。

……しかし、私の人生は不運であっても決して不幸ではなかった。

孤児院の先生と仲間たちは私の家族だ。世間一般の家族とは呼べなくとも、彼等がいる所が私の帰る所なのだ。

学校に通う歳になってからは友人も出来た。私の生い立ちを色眼鏡で見ない得がたい友人達だ。

かくして私の人生は幸せと呼ぶに値するものだったのだ。

閑話休題

そう、私は不運だ。

……だからと言ってこれは無いだろう。



目の前をゆっくり歩いていく男。

校内にも関わらず革靴を履いて黒装束に身を包む姿、血のように紅い唇から零れる真珠色の八重歯、そして黒々とした闇を湛えるがらんどうの眼孔は異様の一言に尽きる。

整っていると言えなくもない青白い顔を苛立ちに歪める男に気付かれないように、掃除用具箱の中で必死に息を殺す。

男は目が見えている筈もないのに、教室の中を見渡し人が隠れられそうな箇所を探していく。

不味い、直にこの用具箱も開けられてしまうだろう。

しかし、絶妙なバランスで収まっている用具箱の中は少し身動ぎしただけでも崩れてしまうような危うさがある。

打開策を考えている間にも硬質な足音は此方へ向かってくる。

どんどん早くなる鼓動が五月蝿くて聞こえてしまいそうで余計に焦り、手のひらにじっとりと汗をかいているのを感じる。

そして、ついに足音が止まった。

断末魔のような音を立てながら扉がゆっくりと開かれた。


射し込んできた光を遮るように男の顔が入ってくる。

死人のような顔からは想像出来ない生温い息が鼻先に当たる。

狭い用具箱を覗いて一言、

「……酷い臭いだ」

そう呟いて男は教室を出ていった。



痛いほどに脈打つ心臓が今更に自分は恐怖を感じていたのだと告げる。

足音が遠く離れたことを確認して、そろそろと掃除用具箱から出る。

何故かは分からないが幸運にも私は逃げられたらしい……いや、そもそもこんな事に巻き込まれている時点で不運なのか。

息を整えながらどうしてこんな事になったのかと事の始まりに思いを馳せる。




至って平凡な朝だった。

いつも通りにバグを起こして鳴らないアラームに頼らず起床、みんなで朝食を摂る。降ってくる鳥のフンとばらまかれている犬のフンを回避しながら登校。

友人____七海ななみと挨拶を交わしながらホームルームの始まりを待つ朝。

「先生遅いね」

「それな〜八時半過ぎてるよね」

「今日って職員会議の日だっけ?」

何時もなら始業の鐘より早く教室にいる担任が八時四十分を過ぎても来ない。

「何かあったのかな?」

「何かって?」

「ほら、最近の……」

「……あぁ」

おそらく彼女が言いたいのは最近起きている連続誘拐事件のことだろう。

一番最近はここから二駅離れた街の高校生が、先月は隣の市の中学生。その前は……どこだったか。

今年に入ってから相次いで誘拐事件が起きている。攫われたのはほとんどが中高生で一度に複数人攫われることもあり、被害者は既に莫大な数になっている。

犯人から身代金の要求などもなく、それこそ神隠しのように人が消えてしまうらしい。

警察も躍起になって犯人を探しているが、まだ有効な手がかりは見つかっていないようだ。

だから最近は少しでも不審者情報などがあると職員会議が開かれ、早退の指示が出ることが増えた。

「確かに最近の事件、結構近いところで起きてるよね……」

「ほんと、塾の帰りとか怖すぎて毎回親呼んでるもん」


七海と喋っていると、突然校内放送の前触れのチャイムが鳴った。

『…ジッ……ジジジッ…ジジッ…』

「うわ、何怖っ」

スピーカーから流れてきたのはテレビの砂嵐の様な途切れ途切れの不気味なノイズ。

放送の内容は聞き取れそうにない。

何だろう、嫌な感じだ。

例えるならそう、嵐の前の静けさの様な…


『…え…すか……こ…送…聞こ……職……さ…』


だんだん音声がクリアになってくる。

しかし、この放送は誰が掛けているのだろう。放送を流すのは大抵、副校長なのだがどう聞いてもこれは彼の声ではない。

清らかさの中に艶を含んだうっとりするほど美しい女性の声。

ずっと聞いていたくなるような、呼ばれているような不思議な声。


『聞こえますか、この放送が聞こえた人は職員室まで来て下さい』


ようやく明確に聞き取ることが出来たが、その内容に首を傾げる。

「……この放送、変じゃない?」

そう七海に問いかけて返事が来ないことを不審に思って見て、愕然とした。

いつも表情豊かな彼女が全くの無表情でぼんやりと座っている。

「ちょ、どうしたの!?」

声を掛けても肩を揺すっても反応がない。

ふと、あまりにも教室が静かすぎやしないかと教室を見回すと、クラスメイトはみな彼女と同じように虚空を見つめてぼんやりとしていた。

「何、これ……」

時計は八時四十五分を示し、始業の鐘が鳴っている。

異様な教室に対して、あまりにもいつも通り過ぎたそれは却って不気味さを感じさせた。



一限目の数学の教師が来る気配はなく、時計の長針が十二を示した辺りで腹を決めて廊下へ出る。

外を走る車の排気音が聞こえるような静寂の中、私の足音だけがパタパタと鳴る。

隣のクラスも、そのまた隣のクラスも同じだった。

私の他に動いている人は居ないのだろうか。

……いや、少なくとも放送をかけた人物がいるはずだ。

確か放送では職員室に行け、と言っていた。

他に行く宛もない。

私は一階の職員室へ向かった。



職員室も教室とほとんど変わらず生徒の代わりに魂の抜けたような先生達が居るのみだった。

内接する放送室への扉を開こうとした時、腕を強く引かれてたたらを踏む。

「ッ……!?」

驚いて振り返ると何のことは無い、袖口が壁から飛び出た釘に引っかかって引っ張られていただけだった。

外そうと腕を振っても繊維に引っかかってしまったのかなかなか取れない。

制服の袖口を裂くのは嫌なので、膝を着いてゆっくり取り掛かる。


突如、けたたましい音を立てて放送室の扉が開かれる。

「……何だ、誰もいないのか。期待外れだな」

扉を開けたのであろう人物は低い声でぽつりと零した。

私が居る位置は扉の影に当たるので、声の主からは死角になって私がいることに気付いていないようだ。

声をかけようとした時、ふとこれは誰の声なのかと疑問を持った。


結果として、一瞬の逡巡が明暗を分けた。


「また適当に何人か連れて行って終わりか……最近のニンゲンはハズレばかりだ。そうは思わんか?」

「そうね……何十年か前までは鋭いニンゲンも多少居たのだけれど、最近はほとんど見ないわ……」

退屈そうな男の声に応えたのはあの放送の主だった。

穏やかな声とは裏腹な会話の内容に、私の脳内では警報が鳴り響いていた。

「この前のは特に酷かったな、わざわざ姿まで見せてやったというのに泣き喚くばかりだった……あれでは眷属どころか家畜にもならん、せいぜい餌だな」

「魂も貧弱で、すぐに死んでしまいそう」

「まぁ、ろくに抵抗レジストも出来ない連中なら仕方がないか……」

こいつらは何を言っているのか。

頭が理解することを拒否している。

「俺は適当なやつを見繕ってくる。お前は放送を続けろ」

「えぇ、分かったわ…あんまり長引かせないで、が来てしまったら面倒だわ」

「もちろんだ、何人欲しい?」

「一人で結構よ、でも女にして欲しいわ……最近、男ばかりで飽きてしまったの。塩辛いものを食べた後は甘いものが食べたくなるでしょ?」

人を食物かなにかのように扱う会話に目眩を感じる。

何とかしてこの異常な空間から離れたかったが、相変わらず扉越しに男がいる以上私に出来ることは気付かれないように静かに隠れ続けることだけだった。

会話を終え、放送が再開されるのを聞いた男は優雅に職員室を後にした。

黒に包まれたその後ろ姿は吸血鬼か死神のようだった。

その背中が見えなくなるまで待ってから私も職員室を出る。

これからどうしたら良いのか分からない。

けれど、奴らに見つかってはいけないということだけは分かっていた。



助けを、呼ぼう。

その考えは天啓のように降ってきた。

電話するなり直接呼びに行くなりして助けを呼べば良いのだ。

職員室は校舎の奥に位置しているから教室を経由して昇降口に向かえばいい。

そうと決まれば行動は早かった。

リノリウムの階段を二つ登って、右に曲がって四つ目、そこが私のクラス。

怖いくらい静かな教室で自分の荷物を回収して一息着いていると、聞こえる筈のない硬質な足音が廊下から迫ってきた。

咄嗟に席に着いてクラスメイト達に紛れ込むようにぼんやりとした表情を浮かべる。

この足音の主は誰だ。

私の他に動いている人がいるのか、それとも……


あぁ、昔から知っていたことだ。

私の予想が当たるのは絶対悪いことに関してだけだって。

教室の扉をガラガラと開いたのは、職員室で見た男だった。

男は品定めをするように教室内を歩き回り、ついに私の真横で動きを止めた。

心臓が、五月蝿い。

バレたのか?それとも偶然?

背中に冷たい汗が流れる。

得体の知れない男への不安と恐怖が一気に膨れ上がる。

男が真っ白な指で掴んだのは……隣の席の七海の顔だった。

「ふむ……まぁこいつで良いか。他の連中に比べれば多少は美味そうだ」

その瞬間、恐怖を感じなくなる程の怒りを覚えた。

こいつは何様なのだ。

何の権利があって私の友人を、表情豊かで誰よりも優しい七海を、孤児院出身と言っても変わらない笑顔を浮かべてくれた彼女を、畜生のように扱うのか。


無意識だった。

七海を連れて行こうとしていた男の背に思い切り体当たりをしていた。

「七海に触らないでっ!!」

細い身体が飛ばされ、整頓されていた机の列を乱す。

「うぐっ……お前、動けるのか!?」

荒い呼吸の中必死に睨みつけた男の顔は驚愕と歓喜に染まっていた。

「とんだ上物がいるではないか、何年ぶりだろうなぁ完全に抵抗レジスト出来た奴は!!」

男は七海への興味を失ったようでがらんどうの眼孔を此方へと向け、真紅の唇を釣り上げて笑う。

「お前は食べるのではなく眷属にしようか……どうだ、永遠の命が欲しくはないか?ずっと今の若さと美しさを保つことが出来るぞ?」

「何、言ってるの……?」

「矮小なニンゲンに教えてやろう。俺は吸血鬼、永遠を生きる夜の住人。……さぁ選べ、従う眷属食われるエサか!」

「私は…あんたに従う気も食べられる気もない!あんたは泥水でも啜ってろ!!」

そう言い放って脱兎のごとく駆けだした。

背後からは男____吸血鬼の怒声が聞こえる。

こうして、命がけの鬼ごっこが始まったのだ。



思い返してみるとまるで現状が漫画や映画のようで、しかしどうしようもなくそれが現実であることを知っているから、思わずため息がでた。

助けを呼ぼうにもスマホは何故か圏外で、今は男から逃げながら昇降口を目指す他ない状況だ。

しかし、いつまでこれを続ければ良いのか。

永遠にあの男から逃げ続けるのは不可能だ。

かといって待っていた所で助けは来るのか?

もし学校の外も同じように魂の抜けたような人々しか居なかったら…

私は、どうすればいい?

自問自答しても答えは出ず、不安が募るばかりで何の役にも立たない。

重たい足を引きずりながらノロノロと歩く。


ようやく昇降口までもう少し、という所まで来た時、突然後ろから口を塞がれ引き倒される。

「っ!?むー!!うむー!!」

死にものぐるいで暴れ、何とか手を剥がすことに成功する。

「いきなり何すっ」

「黙れ、良いというまで動くな」

振り返って抗議しようとした瞬間、喉を掴まれ床に身体を押し付けられる。

仰向けになった自分に馬乗りになっていたのは、自分と同じ____いや、自分より幼いくらいの子供だった。

「お前だ?悪魔……にしては随分脆い、かといって下級吸血鬼レッサー特有の牙も爪もない……しかしただの人間が半人半鳥セイレーンの歌を聴きながら正気でいられるか……?」


白磁の肌、黄金を紡いだ髪、大空を思わせる透き通った蒼の瞳。

神に愛されたとしか思えない美貌は宗教画の天使のようで、でも考え込むように言葉を零す姿は年老いた学者のようでまるで噛み合っていない。

「…あぁ、お前人間か、しかも自我が残ってる……珍しいな」

ぱっと手を離されて急に呼吸が楽になって咳き込む。

「手荒にして済まなかった」

反省しているのかいないのか分からないような簡素な謝罪に苛立つが、それより自分以外に動いている人間がいることに安堵した。

「ゴホッ……あなた、誰?どこから来たの?」

「それは……」



「見つけた、よくも俺に要らん手間をとらせたな。……お前は屍鬼グールにしてやろう。自我も尊厳もない俺の可愛い下僕だ、素晴らしいだろ?」

底冷えするような低い声が響く。

何時の間にか男がすぐ近くまで来ていた。

唇は弧を描いているが、その実全く愉快だと思っていないことがありありと分かる顔だった。

「ん、一人増えたのか?……ふむ、今回はつくづく運が良い。決めた、お前はあいつにくれてやろう、それで金色の方は俺の物だ」

そう言って満足気に笑う男はもう既に私達を手に入れたかのような口ぶりだ。

「……ねぇ、あなただけなら逃げられるかもしれないわ。あいつが喋ってるうちに早く逃げて!」

この子がどこから来たかは結局分からなかったけれど、この子は私と会わなければ男に見つかることも無かったかもしれない。

ならばせめて、せめてこの子だけでも逃がさなくては。

そう思って話しかけると、一瞬きょとんとした顔をして、その後可笑しくて堪らないといったふうに笑いだした。

「な、何がおかしいの!早く逃げて、じゃないと……」

「いやはやまぁまぁ……長生きはするものだな、こんな……こんな状況でも他人を守ろうとするお人好しに会えるとは……いやぁ笑った」


「どうした、余りの恐怖に気でも触れたか?」

気付けば男は眼前まで迫っていた。

「ふむ、自己紹介が遅れたな」

「何言って……」

私を背後に庇うような配置で男の前に立ち塞がる小さな背中。

「『境界の守護者フロンティア・ガーディアン』討伐部隊所属、レリック・グリード……お前ら風に言うなら猟犬だな。あぁ、覚えなくていいぞ。お前らに名を呼ばれても不愉快なだけだ」

そう言って不敵に笑う子供____レリック・グリードに私は目を奪われた。

「さぁ、起きろ【強欲マモン】、仕事の時間だ!」

小さな手を覆っていた黒い手袋の下から紺碧の紋様が現れる。

「捕らえろ」


あっという間だった。

突然現れた大きな腕が男を捕らえ、恐ろしいほどの力で締め上げる。

腕は紋様と同じ紺碧で炎のように常に揺らめいていて、しかし確かな質量を持ってそこにあった。

「ぐあっ……き、貴様が……あの忌々しいだと!?どうしてここを嗅ぎつけた!」

「ウチの諜報部隊は優秀でね……中級吸血鬼ミドルになったばかり、といった所か。さて、今までに攫った人間は何処にやった?食ったのか、まだ生きてるのか」

淡々とした問いに男は嘲笑で返す。

「はっ……そんなもの全て食ったに決まっているだろう。本当は眷属が欲しかったんだがなぁ……つまらんニンゲンばかりだった」

男への嫌悪と恐怖がさらに募る。

本当に……こいつは人間を何だと思っているのだろうか。

「……そうか、予想通りの畜生で安心した。これで心置き無くお前を殺せる」

紺碧の腕の拘束が強まり、男は身動ぎは愚か声すら出せないようだった。

何時の間にか紋様のある手にはほっそりとした銀色のナイフが握られていた。


「眠れ怪物、永遠に」


それはなんの躊躇いもなく振り下ろされ、寸分違わず男の胸を貫いた。

「………!!!」

「ヒッ……」

男の身体が拘束を逃れんと藻掻く。

不思議と血は流れず、声にならない叫びを上げ続ける男もその胸から生えている銀色もまるで夢を見ているようで現実味が無かった。

大きく身体を震わせたのを最後に、男は灰となって空気に溶けるように消えていった。

「死んだ、の……?」

「アレは元々死んでいる。在るべき姿に戻っただけだ」

思わず零れた言葉への返答に、結局分からなかった質問を思い出した。

「結局……あなたは何なの?」

「先刻も言ったが、境界の守護者フロンティア・ガーディアン討伐部隊所属レリック・グリード。それ以上でもそれ以下でもない。簡単に言うなら何だ…退魔師エクソシスト、ヴァチカンの奇跡狩り……ニホンなら陰陽師、か。まぁ要するに『境界の守護者フロンティア・ガーディアン』ってのは『この世』と『それ以外』の間の境界を護る組織だ。先刻の男は大体百歳位の吸血鬼で、最近起きてる誘拐事件の犯人でもあるから討伐要請がウチに来たんだよ」

分かったか?

とばかりに首を傾げられても、すんなりあぁそうですかと受け入れられるほど幸せな頭をしていない。

「何、それ……そんな非現実的なことありえない……」

「非現実的だろうと何だろうとお前の見た物は変わらないし信じたくないなら信じなくても良い。……が、無知と弱さは罪だ。死に際に後悔するなよ」

理解の範疇を超えた出来事の連続で、私の精神は限界だった。

……これを不運の一言で済ますには無理がある。

朝から無意識に溜まっていたのであろう疲労と緊張の糸が切れたことが重なり私の意識は闇に沈んでしまったのだった。




私が意識を手放した後、放送を掛けていた女の人____半人半鳥セイレーンという海の妖魔?だったらしい____は捕えられ、連続誘拐犯が催眠ガスを流して生徒を誘拐しようとした所をたまたま遅刻した生徒が通報したことにより事なきを得た、というシナリオで学校には一応の平穏が訪れた、らしい。

何故こんなあやふやな言い方なのかといえば、これらは私自身が見聞きしたことでは無いからだ。

私は今、これまでの人生で踏み入ったことの無い所謂高級ホテル、と言われる場所にいた。

意識を失った後、私はそのままこのホテルへ運ばれたのだとレリック・グリードの同僚?の男性が教えてくれた。

建前としては催眠ガスを深く吸ってしまった生徒に後遺症等が無いかの検査をする、という名目らしいが。


「あの、結局私は何で連れてこられたんですか?」

普通だったらもっと騒いだり慌てたりするのかもしれないが、今までの不運と共に在った人生の経験と、思考を鈍らせる疲労が私から恐怖の二文字を消した。

目の前で優雅に紅茶を飲む子供____レリック・グリードに質問をぶつけると、ちらりと視線を寄越した後深く溜め息を吐いた。

「お前、不思議に思わなかったのか?他の人間が半人半鳥セイレーンの声に意識を奪われてる中自分だけ自由に動けること、大した訓練もしていないのに吸血鬼から逃げ続けることが出来たこと」

「それはまぁ、気にはなりましたけどそれ所じゃ無かったです」

「それはそうか……端的に言おう、お前は悪魔に取り憑かれてる。その悪魔はお前を守っているようでな、そいつのお陰でお前は半人半鳥セイレーンの声の影響下でも問題なく動けたし、多分吸血鬼から逃げ続けられたのもそのせいだ」

「……は?」

驚くほど透明度の高い蒼い瞳が真っ直ぐに此方を見る。

そこに冗談や悪ふざけの色は見られなくて余計に混乱する。

「そんな……巫山戯た話、通用するのは小学生までですよ?吸血鬼とか悪魔とか……そんなの御伽噺にもならない」

自分でも声が震えているのが分かる。

返答はあくまでも淡々としていて、それがまるで世界の真理であるように聞こえる。

「巫山戯てなどいない……人間は目に見えないものは愚か、目に見えるものさえ都合が悪ければ無かったことにする。それは自ら自分の首を絞めることに他ならない。客観的に冷静に考えろ、眼球のない人間に視力があるのはありえない、普通の人間は銀のナイフで胸を貫かれても灰にはならない。ならば何故あの男はそうなった?……普通の人間じゃないからだ」

「嘘、そんなこと……ありえない」

本能ではとっくに理解していた。

男が、明らかに自分とは違う異質なものだと。

でもそれを認めてしまったら、私が見てきた、生きてきた世界は何だったというのだ。

「さぁ、選べ。今日起きたことを全て忘れていつも通りの日常に戻るか、こちら側の人間として生きるか」

「こちら側、って……?」

「世界には神秘が満ちていることを知る側、何も知らない人間と人ならざるものとの境界線が交わらないように守護する側……守りたい『何か』を守ることが出来る側」

守りたい『何か』と言われて、孤児院の家族達の顔が浮かんだ。

決して現実にはなり得ない仮定の話だが、もし今日学校を襲った男が孤児院を襲ったとして、もし私の家族の誰かが攫われたとしたら……

背筋が凍るような恐怖を覚えた。

この仮定は今となっては決して起こりえないことだけれど、もし万が一にでも起こってしまったとしたら、私はきっと耐えられないだろう。

「もし私がそっち側に行ったとして……それで本当に守りたいものが守れるの?」

「あぁ、保証しよう」

「……その言葉、忘れないでよね」

小さな黒手袋に包まれた手を取る。

これが私とレリックさんが最初に結んだ約束だった。




それからは怒涛の日々だった。

私は慣れ親しんだ街と学校、そして大切な友人と家族に別れを告げた。

私は養子としてレリックさんに引き取られることになったのだ。

外見からして私より歳下だと思っていたのだが、少々特殊な事情により実は遥かに歳上であるらしい。

だから書類上は何の問題もなく、私はレリックさんの養女となった。

「別れは済んだか?……恐らくもう二度と会えんぞ」

七海に転校することを告げて最後に二人で買い物に行って、オシャレなパンケーキを食べて、馬鹿みたいな写真を撮って……思い出を作った。

私が引き取られることを家族達は豪華な送別会を開いて、みんなで祝福してくれた。

「はい、大丈夫です」


さよなら愛しい家族達

私の人生は数々の不運に彩られてきたけれど、貴方達と会えた人生は幸福でした。

どうかこれから、お幸せに

……願わくば二度と出会いませんように


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