人間は社会的動物である ――アリストテレス (6)
どれだけやりきれない日々ばかりでも、自分の歌を聞いてくれる人は、ほんの少し――顔を覚えられるほど少しではあったが――存在していた。そのうちの一人はOLで、観客たちの中では一番夜遅くにここを通る人だった。きっと通勤圏内なのだろう。
最初は遠慮がちに一瞥をくれるだけだった女は、次第に足を止めてくれるようになり、一曲分たっぷりと聞いてくれるようになり、小銭をそっと置いてくれるようになった。目の前で聞いている人がいる時間は、彼にとっては希少な、心安らぐものになった。
いつしか立川は、その人が来て、去っていくのを、一日の終わりの合図にしていた。気づくとその、てきぱきとした歩き方を目で追っていた。
ある日、聞いていたと思った女が急に踵を返して走り去って、心臓が凍った。ほら、期待なんかするから。意地悪な自分がそう言って詰ってくる。そうだよな、人間なんて所詮そんなもんだよなと、苦い感傷に浸りながら歌を続けていたら、女は小走りでこちらに戻ってきた。ヒールを履いたままの足で、よくそんな風に走れたものだと、立川は他人事のように思った。
「ごめんね、遅い時間だから、あまりいいものは売ってなかったんだけど」
コンビニ袋を傍らに置き、礼を言う間もなく、女は立ち去った。袋の中身はあつあつに温められた弁当とほうじ茶で、「あたたかいうちに食べてね」と付箋紙が添えられていた。ぎゅうっと胸の真ん中が熱くなった。夢中になって食べた。涙で味がわからなくなったが、今まで食べたどんなものよりも美味しいことだけは間違いなかった。
コンビニ袋の下には、ひっそりと、替えの弦が忍ばされていた。
久しぶりにまっさらな弦を張って、鳴らした。六つ分の和音がじんわりと心を揺らした。
先日の弁当と、弦のことについて女に礼を言うと、「自社製品なの」と彼女は少しだけはにかんだ。「営業させてもらっちゃった。なかなか抑えやすくて響きもいいでしょう?」
はっきりとした色の口紅が、冬の夜空によく映えていた。
その日もまた、いつもと変わらない一日だった。心が何かを感じるのにも疲れてしまって、決まりきったルーティーンをただただこなすように、彼は歌った。
女もまたいつも通りの時間にやってきた。空気が澄んでいて静かな夜だったから、立川はゆっくりとしたアルペジオの曲を歌った。クールダウンにはちょうどいい。もとより、激しい曲を歌う体力もなかった。
息を吐き終わると、ひとりぶんの拍手が聞こえた。つられたようにぱらぱらと何人かの拍手。胸がいっぱいになり、立川は思わず顔を伏せる。嬉しくないわけがない。けれど、空気のようにすごした短くない歳月は、少なからず彼を卑屈にさせていた。
「声の張りがこの間までよりずっといい。ちゃんとご飯を食べれてるからかしら」
「……おかげさまで」
一日二食ありつけることも、この頃増えていた。それは少しばかり前に進んでいる証拠なのかもしれないが、安易なぬか喜びはかえって自分を傷つけるものだと、立川は学んでいた。
「今のはオリジナル?」
「全部そうだよ。今までの」
今日はもう終わりにしよう。なんだかひどく疲れている。ペグを緩めながら、立川はおざなりに答える。
「私、あなたの歌、好きよ。粗削りで、力強くて、切実で。だけど少し悲しいのね」
褒められているのか、馬鹿にされているのか、いまいちわからない口調だった。
びゅうと風が抜ける。耳が寒さでちりちりと痛かった。
顔を上げることができなかった。畏れ多いと思った。
「――ねえ、もっとたくさんの人に聞かせたくはない?」
耳を疑った。
「あなたには可能性があると思うの」
「悪いけど、メジャーでやる気はないから」と、わざと先回りをするように彼は言った。スカウトなら願ってもないはずなのに、肝心な時にいつも素直になれない。
だって、今さら差し伸ばされた手を取って、裏切られない補償がどこにある?
「ならなおさら好都合ね」という女の言葉に、今度は自らの正気を疑った。幻聴だろうか、これは。都合の悪い現実から目を逸らしすぎた末路だろうか。
「あなたに投資したい。満身創痍じゃなくって、万全な状態で全力なあなたの歌を聞いてみたいの。いけないかしら」
根負けして顔を上げる。うっすらとした明かりに目が眩んだ。満月と街灯を背に受ける女の顔は、立川とは対極に、自信に満ちている。
その瞬間、天啓に近い直感が、真っ白な光となって脳裏に迸った。
立川はずっと幽霊だった。ほとんど誰の目にも留まらず、誰にも干渉されず、社会から黙殺されていた。いくら叫んで喚いても、彼は世界のどこにも存在していなかった。
――俺を見つけてくれたんだよ、あいつは。
こういうことなのか、ヒサさん。
ぞくぞくとした甘い痺れが白い息を震わせる。
「……投資?」傷つかないために、彼はむやみに笑い飛ばす。「なんでそんなこと」
「あら、いつの時代にも、芸術家に
そう言って、女――白石茜は優美に笑った。
先にガタが来たのは身体の方だったらしい。あの後すぐ、「考えとく」と女に背を向けようとしたら、世界がぐるりと逆さまになった。そのままの流れで、彼は保護された。重たい風邪と栄養失調と貧血。どの道行き倒れる寸前だったらしく、真っ白な病室の中で仰々しくチューブが繋げられた。「この状態でよくストリートライブなんてやってたね」と医者からは呆れられた。
中学生の時に一度、虫垂炎で入院したことがある。その時は病院のベッドが固くて寝れたもんじゃなかったのに、今度はそんなこと微塵も感じなかった。アスファルトで蟻と添い寝することに比べれば天国そのものだった。寝ても寝ても眠くて、しばらく死んだように眠っていた。
茜は忙しい仕事の合間で時折立川の様子を見に来た。果物籠片手にやってきたはいいが、彼女は林檎を剥くのがびっくりするくらい下手だった。皮が指より厚い。今にも手を切りそうだ。危なっかしくて見ていられなくて、結局林檎は立川が剥いた。するすると皮を削いでいく手つきを見て、茜は「上手ね」と感心したように言っていた。いや、あんたが下手すぎるんだよと立川は思ったが、口には出さなかった。
まだこの女が信用できると決まったわけじゃない。しゃくしゃくと林檎をかじりながら立川は考える。油断をしたら付け込まれるだけだ。
退院して茜の家に上がり込んでからも、立川はしばらく警戒心をぴりぴりと尖らせていた。三食と風呂と寝所つきの生活は久しぶりすぎて手に余った。しかも藤里のマンションに負けず劣らずの立派な部屋だ。とはいえ、実家の援助ではなく自身の稼ぎによって借りているという点では、決定的に違っている。
まずは風呂に入るように言われた。薄汚いという自覚はあったから、立川は大人しく従った。鏡に映る自分の身体は、しばらく見ていないうちに随分と貧相になっていた。顔色も悪い。髭くらいは剃っていたものの、髪は伸び放題だったからひどい有様だった。よくこんな男を拾おうと思ったものだ。
果実のような匂いのするシャンプーで何度も髪を洗った。最初は泡立ちが異様に悪かったけれど、何度か洗ううちにきちんと泡立つようになった。お湯を張った湯船なんていつぶりだかわからない。湯船の中では何度も寝入りそうになった。
風呂からあがると、茜はダイニングテーブルで、ワインを片手にチーズの欠片をつまんでいた。手招かれるまま、対面に座る。
チーズを勝手にとって、ひょいと口に入れた。カマンベールチーズ特有の癖のある味。
「なんで俺のこと拾おうと思ったわけ?」
腹を探るつもりで尋ねたら、「だって、あまりにも健気だったから」と言われた。
「捨て猫が雨に打たれながら必死に鳴いているみたいだったんだもの」
そろそろペットも欲しかったしね、と茜。「ペット、ねえ」と立川は復唱する。たいした性格だ。人を人と思っていないとは立川もよく言われたものだが、張り合えるヤツには初めて会った。
「あなた、シンデレラのお話は知ってる?」
唐突に茜が切り出す。
かぼちゃの馬車が出てくるアレだろうか。小さい頃に絵本で見た以来だが、一応知ってはいる。「まあ」と、釈然としない様子で立川は頷く。
「プリンセスが出てくる童話にはありがちなんだけど、あれってよく考えるとひどい話だと思わない? だって魔法使いも王子様もいなかったら、あの子は一生灰かぶりのままなんだもの」
王子様に選ばれたから、ハッピーエンド。女の子向けの童話は概してそういう物が多いという茜の所感は、立川にとっては目から鱗だった。そんなことを考えたこともなかった。
「殿方から選ばれるために、可憐で、謙虚で、献身的で、純粋な天使でありなさい。女の子はね、多かれ少なかれ、そういう呪いをかけられながら育つの」
家事もできないんじゃお嫁に行けない、残り一つに手を付けるような子はお嫁に行けない、雛人形を仕舞い忘れると嫁に行き遅れる、どうせお嫁に行くのだから女の子に学をつけても仕方ない、云々。だれかに嫁ぐこと、選ばれることこそが女の人生の本分であり、そうでない人間は負け組とみなされる。そしていずれ子を設け、育て、子や夫にかしずくことが美徳とされる。
なんの感慨もなさそうに、茜はつらつらと並べる。
「私、我ながら、勉強ができる方の子どもだったんだけど、昔から父や親類に言われたのよね。『賢すぎる女はモテないぞ、男はちょっと馬鹿なくらいの女が好きなんだから』とか。お盆に帰った時も、『女はバリバリ仕事できるより、謙虚で気が利く方が大事なんだ』『そろそろ焦らないと売れ残りになっちまうぞ』とか。まあ別に、悪い人たちじゃないんだけどね。ちょっとデリカシーがなくて、自分の価値観を疑うことがないだけ。そういう意味では普通過ぎるくらい」
そういった価値観は、男女の境なく内面化され、時には脅しに近い形であちこちですり込まれている、らしい。例えば、脱毛サロンの中吊り広告。例えば、ダイエットサプリのコマーシャル。例えば、雑誌やテレビなんかで使われる“女子力”という言葉そのもの。
立川が思い出したのは、ボーヴォワールの言葉だった。曰く、“人は女に生まれるのではない、女になるのだ“。女性性は社会によってつくられるという言及。
「私は昔からそういう風潮があまり好きじゃなくてね。だって、『選ばれる』ことを待つのは、受け身そのものじゃない。自分の人生の舵取りを他人にさせるってことでしょう? 自分の人生くらい自分で選んで生きたい。なんで女だからってそれを望んじゃいけない? そんなの誰が決めたの?
――だからね、私は、選ばれる人間よりも、選ぶ人間になろうと思って生きてきた。童話のお姫様よりも、私がなりたかったのは、フェアリー・ゴッドマザーのほう」
女は仕事はそこそこがいいとか、収入が高すぎると男を気後れさせるとか、周囲のアドバイスは尽きることがない。そういうものを微笑みで受け流しながら、それでも彼女は揺らがずに、外資系企業の営業職に打ち込み、男性社会のエスカレーターを登っていった。もっとも、有言実行できるのは彼女の能力と、それなりの幸運が成せるものなのだろう。
「別に主人公になれなくてもいいの。私の人生は別に、さして劇的なものでなくてもいい。だけど私が誰かの人生を劇的に変えられたとしたら――物語の結末を左右するほどの力を持てたら、そっちの方が素敵じゃない?」
「なるほど。じゃあ茜サンにとっては、俺がシンデレラの側ってわけ?」
「そういうこと」
冗談なのか本気なのか、茜はそう言ってまた微笑する。「だって、シンデレラストーリーは夢追い人の特権でしょう?」
シンデレラストーリー。どん底からの逆転の快進撃。華やかで人目を引く派手さがあるが、誰しもがそこにたどり着けるわけじゃない。あの童話は、フェアリー・ゴッドマザーの恩恵を受けなければ成り立たない。
そして今、立川は見初められたのだろう。皮肉なことだ。
「私はね、見てみたいの。自分が選んだ人間が、自分の手で運命を打ち破るのを」
強い目だった。挫折を知らない人間特有の、一ミリも揺るがない確信と自信。
「それってすごく傲慢じゃない?」立川は苦笑まじりに尋ねる。
「あら、傲慢じゃない人間なんているの?」
茜は少しも臆さない。
正直な話、立川にとっては渡りに船以外の何物でもなかった。虫がよすぎて怖いくらいだ。
「ひとつ訊きたい」
この女は投資と言ったが、人間ひとり食っていくだけでも相応の金がかかるだろう。機材の提供も考えればそれ以上。自分にとっては美味すぎるくらいの話だ。だがヤツにとってはどうだ? いたずらに金が流れていくだけ。実入りはなにもない。
あまりにも胡散臭すぎる。
「この話、あんたにメリットがあるようには思えないんだけど」
美味い話には裏がある。この世界の不文律だ。
「メリットならあるわよ」
余裕そうに髪を掻きあげる茜。「あなた、ロックがやりたいんでしょう?」
どくん、と心臓が跳ねた。
馬鹿な。俺が持っていたのはアコギ一本だぞ?
「あなたの曲に好んで使われているコード進行、ゼロ年代の邦ロックに好んで使われていたものとよく似てるわね」
豊かに響く艶やかな声。茜は淡々と告げる。探偵がトリックの種明かしをするように。
「加えてあの技法と歌い方。誰の影響を受けているかは一目でわかった。そんな男が『メジャーでやる気はない』と言ったなら、選択肢は一つでしょう。違う?」
立川はお手上げのポーズを作る。同時に、少しピンときていた。
茜の勤め先は外資系の大手楽器メーカー。かつてはエレキギターやベースを主力として売り出していた。昨今その類の楽器は、音楽監理局が堂々と利権をのさばらせているおかげで、表のルートではどうしても値が吊り上がる。加えて「私は脱法音楽に手を出しません」と誓約書まで書かせる始末だ。客足は順調に遠のいているのだろう。
ロックの興隆は、すなわち顧客を呼び戻すことに直結する。
加えて自分が彼女の会社の楽器をステージで使ったらどうだ。成功すればするほど立派な広告塔だ。
立川は反撃のつもりで畳みかけた。茜は顔色一つ変えず、「たいしたものね」と感嘆する。
「そっちこそたいしたワーカホリックだな。会社が儲かったところで、温まるのはあんたの懐じゃないだろ?」
「さあ。出世の手札くらいにはなるかもね」
「それでも、不確定な要素に大枚をはたくことは変わらない。随分な賭けだ」
「夢や才能に人生をまるごと賭けるあなたたちには負けるわよ」
鼻につく言い方だったが、返す言葉もなかった。
もちろんあなたにも選ぶ権利はあると、茜は続ける。
「あなたにとっての“歌”がどんなものなのかは知らないから、私は何も言わない。私の誘いに乗るも乗らないも、あなたの意思を尊重しましょう。ただ、なりふり構わずどんなものでも掴もうとする、ということすらできないのなら、あなたにとってはその程度の夢ということね」
「藁とわかっていて掴むヤツはいないかもよ?」
「最後に笑うのは、蜘蛛の糸だとわかっていても掴むような人間だけよ」
そしてその中でも、成功できるかどうかは運次第なのだろう。カンダタのように途中で糸が切れたらおしまいなのだから。
「私は自分のできる限りの協力はするつもり。この言葉に嘘はないわ。
――選びなさい。私の手を取るのか、はねのけるのか」
ここまで煽られては、彼も黙ってはいられなかった。
これ以上堕ちようのないところまで堕ちた身だ。路上暮らしに戻って野垂れ死ぬか、彼女の野望にまんまと利用されるか。どの道、地を這うしか選択肢はない。どうせ負け犬なら吠えるだけ吠えてやる。
結局はよりマシな地獄を選ぶだけ。人生とは概してそんなものだ。
「十二時で魔法は解けないだろうな?」
「約束する。あなたが野心を捨てない限りはね」
「オーケー。乗った」
ベットだ。立川は賭けに出た。
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