トラック11

人間は社会的動物である ――アリストテレス (1)

 借金のカタとして友人に劇場に立たされてから、しばらく立川は小劇団の役者として生活していた。劇団『プラトニック』は小さいが、堅実派の劇団だった。著名なプロデューサーが立役者らしく、業界では多少有名だというが、門外漢の立川には何のことやらさっぱりだった。

 相変わらずのヒモ暮らし。相手も同じ劇団の女優で、互いに経済的な余裕はなかった。稽古は厳しく、求められることも多い。「初めての割に筋が良い」と褒められたのは最初だけ。学生演劇すら経験のない立川は、何度も失笑を買ったし、叱責された。圧倒的な実力のなさは嫌でも痛感させられる。自分が劣等生になるのは初めての経験だった。

 何をやらされても小器用にうまくできるタイプだったのに、劇団での彼の扱いは、まるで大人と子どもだった。それが悔しかった。音響まわりの仕事を手伝って小銭を稼ぎながら、気づいたらムキになっていた。音楽以外のことにこんなに執心したのは初めてだった。

 立川は必死だった。舞台での立ち方、身体の動かし方、発声の仕方。隅々まで気を張って、他の役者たちから吸収するように努めた。往来にじっと座って、人間の仕草を観察する日もあった。子どもを連れた母親、高校生、勤め人、犬の散歩をする老人、制服を着た小学生、ティッシュ配りの若者、ホームレス。それぞれの個性を、表情を、歩き方を、立川は飽くことなく見ていた。

 最初は補欠か、ほんの脇役を貰えるのが関の山だった。それでも、自分以外の役でもすぐに台詞が出てくるまで、何度も脚本を読みこんだ。少しでも語彙を増やそうと、躍起になって小説や詩集を読んでいた時みたいに。

 台詞に気に入った表現があると、曲に使えるかもと一瞬でも思うことが、無性に悲しかった。ギターはずっとケースに入れたまま触っていない。

 負け続きは癪だった。少しでも認められたかった。

 自分のいた世界を、音楽を、少しでも忘れていたかったのかもしれない。あるいは、音楽を辞めて何者でもなくなった自分に、何か肩書が欲しかったのかもしれない。自分の弱さを思い知った。何かとつながっていないと、俺はこんなにも不安で仕方ない。

 役にハマった瞬間の、自分から“自分”が脱げて、ふわりと飛翔するような感覚。舞台に注がれる視線の熱。ボーカルとして舞台に立っていた時ほどの自由度はないが、それでも彼は演じることの魅力に惹かれた。

 一方、水面下で密やかな遊びは続いていた。相手は同じ劇団の女優ばかり。バレたら厄介なのはわかっていたが、その緊張感と背徳感が良かった。プラトニックとは対極な遊戯は、体のいい息抜きだったが、結局は些細なことで破綻した。稽古場の空気はどうしようもなく悪くなった。プロデューサーに叱られたのもあり、さすがに懲りた。

「せっかくお前にやろうと思ってた役があったのに」

 吐き捨てるように言われ、立川は察した。自分が少しずつ、ただプロの世界に迷い込んだ“子羊”ではなくなってきていたこと。立川は初めてまともに自分の行いを反省した。

 少しずつ、少しずつ、役を与えられることが増えていく。

 インディーズでの快進撃には到底及ばない、ゆっくりとした歩みだったけれど。


 中江藤里に初めて会ったのは、休みの日、往来をじっと眺めていた時だった。

 貰える役が大きくなっていくのと比例して、『プラトニック』では経営不振が囁かれていた。今どき、演劇業界はどこも不景気だ。ここより大きな劇団が頓挫したという話も聞く。その現実から逃れるように、立川はぼんやりと物思いにふけっていた。その最中のこと。

「すみません、今お時間いいですか」

 ベンチに座っていた立川に、緊張した様子の声が降ってくる。透明人間のつもりでベンチに座っていた立川は、最初、それが自分に向けられた声だと気づかなかった。

「あのお」と遠慮がちな声がもう一度聞こえて、立川はやっと顔を上げた。

 若いけれど地味で華のない子。それが第一印象だった。素材はいいのに、垢抜けていない。高校の同級生の女子にも、こんな感じの子、いたな。なんでその丈で履くの? ってスカートの履き方と、上まできっちりと留められたボタンが、余計にそう思わせた。ふわふわとしたショートボブも、パーマではなく単なる癖っ毛なのだろう。

 絵のモデルになっていただけませんか、と彼女は言った。

 すぐ傍の喫茶店で話を聞いた。全体的に色素が薄く、化粧っ気のない顔に浮かぶそばかすが、よく見るとなかなか可愛らしい子だった。

 絵描きでも目指しているのかと思ったら、音楽家志望だと言うから、立川は驚いた。音大に通いながら、コンペやらオーディションやらに応募しては落ちているらしい。

「なんでそれで絵のモデルなわけ?」

「わたし、インターネットで曲を発表してて。PVの絵とかも、自分で描いてるんです」

「すごいな。器用だね」

「……昔から、オタクだったから、わたし。漫画もアニメも大好きだったし、授業中にも落書きばかりしてて。だから絵は描けるんです。いつも同じ構図ばかりで、そんなに、上手くはないけど」

 表情に少し陰が差す。学校という場所は、素直に若さを消費して楽しめる人間と、そうでない人間がいる。彼女はたぶん後者だったのだろう。教室の隅っこで目立たないように息を殺しているような子たち。

 生クリームとチョコレートソースをかき混ぜながら、飲むケーキとでも言わんばかりの甘いコーヒーをしゃりしゃりと飲む。

「なんで俺に目を付けたのか、聞いてもいい?」

 藤里は少し困った顔をして、「あんまりこういうこと、男の人は嬉しくないかもですけど」とはにかむ。

「目の感じが、好きな女優さんに、なんだか似てたから」

 ふうん、と平然を装いながら、立川はチョコチップを奥歯でかみ砕いた。

 夢見がちな少女みたいな顔をして、藤里は語り出す。

「昔の映画によく出ていた人です。もう死んじゃってるんですけど、すごくきれいな人で、強くて、カッコよくて、大好きなんです。きれいな人って、女の人でも男の人でも、気後れしちゃってあまり話しかけられないんですけど、立川さんはまとっている空気というか、あまりにもピッタリでビビッときて、だから、思わずというか」

 好きなことになると早口になるのは、確かに少しオタクっぽい。

 そこで彼女は、ぽっと頬を赤らめる。「ごめんなさい、こんなのまるでナンパですね」今更気がついたのか。立川は心の中で突っこむ。「あのっ、下心とかはないので、本当に絵のモデルだけなので」あたふたと手を振って弁解する藤里。

「わたしの好きな女優さんも立川さんっていうんですよ。すごい偶然ですね」

 びっくりするくらいニブい台詞。立川は思わず笑ってしまった。

「俺も役者の端くれだよ。『プラトニック』って劇団なんだけど。わかる?」

「ああ、聞いたことあります。プラトニックって由来がプラトンのあれですよね。名前見て気になってたんです」

 タカト、好きで。恥ずかしそうに、けれど嬉しそうに彼女は言う。「今度見に行ってもいいですか?」

「なんなら、チケット貰ってくれると助かる。ノルマがあってさ」

 異性として惹かれたわけでは、たぶん、なかった。童顔も、垢抜けなさも、薄っぺらい体つきも、女というにはあまりにも子どもじみていて、むしろ手を出すことに気後れする要素だった。遊ぶならもっとわかりやすく女を誇示しているほうがいい。刹那的な遊びの関係に持ち込みたいとは、だから思っていなかった。

 立川はモデルの話を承諾した。もう少しだけ、この調子はずれな話を聞いていたかった。


 学生の身分にも関わらず、一人暮らしの藤里の家は立派なマンションだった。オートロック、完全防音。親から与えられたというその部屋には、豪奢なピアノやらドレスを置いておくクローゼットルームやらが当然のように設えられていた。とんだお嬢さんだ。呆気にとられる立川に、「女の子は、発表会でもコンサートでもドレスが同じだと、色々言われるから」と、慌てた様子で藤里が補足する。

 聞けば、母親は著名なヴァイオリニスト、父親はオーストリア人の指揮者。類まれな音楽エリート一家だった。

 母親との親子仲は悪くはないらしく、有名音大に通う藤里は、母親のヴァイオリンの伴奏をすることもあるらしい。だが、彼女はポップミュージシャンになりたいのだと言った。

 上流家庭で文化資本を存分に享受しておきながら? 彼女なら大人しくクラシック畑で花を咲かすこともできるだろうに。混乱する立川に、藤里は告げる。自分が一番つらかったとき――女子校時代、凄惨ないじめに遭っていたとき――彼女はあらゆるサブカルチャーに助けられたのだと。ポップス音楽、漫画、アニメをはじめ、映画やドラマ、小説、ライトノベル、ゲーム……とにかくあらゆる創作物に慰められ、勇気をもらったのだと。アニメの続きが見たいから来週までは。好きなアーティストのライブがある来月までは。そんな風に延命を重ねながらどうにか生きていたのだと。

 だからわたしは、ポップスで恩返しがしたい。同じように、つらい状況にある人を、少しでも励ませるものを作りたい。眩しいほどにまっすぐで純粋な熱意。

 彼女の曲もまた、その純粋さを体現したように、きれいで濁りのないものだった。巷に溢れているものにさらに輪をかけて、優しく、誰も傷つけない、一点の曇りもない世界。

 純度一〇〇%の善は、多くのコンペに応募しているらしいが、なかなか身を結ばない。動画の再生回数も思うように増えないのだと、彼女は嘆く。

「いいことを教えてやるよ。どんなコンテンツに人が群がるか」

 差し出された香りのいいお茶を飲みながら、立川は言う。

「死かセックスを匂わせること。これに人間はびっくりするくらい弱いよ」

 そして、立川が女たちを惹きつけていたのも、それによるところが大きかった。死と性のにおい。彼はそのどちらも持っている。

「せっ……」

 とうに成人はしていそうなものだが、藤里は中学生みたいに動揺する。

「匂わせる、というのがミソね。露骨すぎるのは好みを分ける」

「……それって、なんだかズルい気がする」

「ズルい? なんで? コンペなんて周りのヤツらを出し抜かなきゃいけないでしょ。使えるものを使うことの何がズルい?」

 立川はわざと皮肉に笑ってみせる。優等生・藤里は「倫理的に……」と気まずそうに口ごもる。

「リンリテキ、ね」

 彼女の弱さはたぶんそこなのだろう。

「まあ、セラピー的な癒しの音楽を必要とする人もいるのは事実だ。そういう方向性で開発していくのも、悪くはないと思うけど」

 藤里は釈然としない様子だった。気弱そうに見えて意外と強情なところがある。何か考え込むようにしながら、いそいそと絵の準備をしている。

「立川さんってもしかして、音楽やっていたことありますか?」

 不意打ちだった。目を丸くする立川。何かを察したらしく、藤里は焦って視線を泳がせる。

「なんで?」

「音楽の話になった途端、ちょっと顔つきが変わったから」

 怖がっているのか、藤里の声はどんどん小さくなる。ニブいのか鋭いのか、よくわからない子だな、と思う。そして、それが彼女のいじめられっ子たる所以なのだろう。こういう個性は概して人に疎まれがちだ。

「昔の話だよ」

 その声が自分で思っている以上に冷淡であることに、立川は気づいていない。藤里はそれにさらに怯えたようになる。

「ごめんなさい、わたしって本当、空気読めなくて……」

 自虐的に笑うのは防御反応なのだろうが、それが立川には余計に痛々しく見えた。

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