凡庸な悪 ――アーレント (9)
『大きなホールでのライブを経て、それから、タカトの生はあっという間に終わりに向かった。音楽監理局との抗争、メディアからのバッシング、背中を押そうとするファンの声。年ごろの“息子“とはぎくしゃくしたし、家族を知らない“彼”には、見せるべき「父親の背中」がわからない。
ミュージシャンとしても、父親としても、“タカト”は最後まで迷い続けた。
今まで受けられていた仕事が、どんどん減っていく。家にいなければいけない時間が増えると、“陽介”はあからさまに窮屈そうな顔をする。
「やっぱりさ、楯突くんじゃなくてうまくやらなきゃ、生きてけないんだよ。食べていくためにはお金がいるでしょう。世の中、きれいごとばかりじゃないんだから」
所属するレコード会社からも、あからさまに苦言を呈される始末。「息子さんだって、まだまだお金がかかる歳なんだからさ」
『
あなただったらどうする? “幸”の遺影に向かって“タカト”は問いかける。
「親父さ、何考えてんの」
“陽介”に冷たく言い放たれて、苦笑する。「へらへらしてる場合じゃないでしょ」
と、“陽介”。全くの正論だった。
「俺たちは、考え続けなければならないと思うんです」
ある日、ラジオ放送で“タカト”が言ったこと。奇しくもこれが、公の場で彼が語った最後の言葉となる。
「今、音楽には大きな障壁が生まれようとしています。
――文化は血で、自由と思考の土壌です。そして、一度失われたものを取り戻すのは、とても難しい。
自分の歌で俺は、様々な思想家たちの言葉を引用してきました。彼らはずっと、時には不遇に陥れられながらも、たとえ毒杯を注がれても、考えることをやめなかった。
かつて、『日本に哲学なし』と中江兆民は言いました。確固とした主義主張がなく、目先のことにとらわれて議論に深みや継続性がなく、こざかしい知恵はあるが偉大なことは成し得ず、常識はあるけれど、常識を超えたことをなすことができない、と。厳しい言葉ですね。
哲学の根幹は、考える、という行為そのものです。俺たちにはたぶん、それが圧倒的に足りない。それは今も同じだと思います。
哲学、と聞くと、なんだか難しくてややこしいイメージを持つ人も多いかもしれません。だけど哲学とは、愛や自由や正義とは何か、生きる意味とは何か、そういう、何もかもを失っても最後まで残るような問いと、直面することです。
もう一度、ちゃんと考えてみませんか。自由とは何か、正しさとは何か。道徳とは、倫理とは、何か……」
“タカト”の言葉がどれほどの人に届いたのかは、わからない。
それを確認することもできず、さる三月の夜、短い遺書をいくつか残して、“タカト”は東京湾に身を投げる。前日から雪の予報があるほど寒い日だったが、当日は雪にはならず、みぞれの混ざった雨が灰色の雲からぼたぼたと落っこちていた。
呆然と棺を見つめる“陽介”を抱き留めてくれる人は、もうない。卒業式も、中学の入学式もまだなのに、一足早く中学の制服に身を包むことになった“陽介”を、誰もが遠巻きに眺めるばかりだった。失意の底にある小さな少年は、母の死の時よりも少し大きくなったその背中に、重すぎる絶望を背負う他なかった。
斎場でうなだれる“陽介”の横に、“狩岡”が座った。
「辛かったな」
そう言われても、“陽介”は泣くことすらできなかった。
「なあヒサさん」
「ん?」
「三位一体説によれば、イエスは神の子であると同時に神なんだ」
粗末な木のベンチの上で、足を揺らす“陽介”。だぶだぶとした袖から覗く手が、しっかりと指を組んで握られている。
ステンドグラスの明かりがゆらりと揺れる。
「だったら俺も、神になれるよな、ヒサさん。親父がそうだったんだからさ」
その言葉を最後に、映画は終わる』
そんなこと言ったっけな、ととぼけると、横にいた狩岡から「バッチリ言ってたよ」と小突かれた。
「なんて生意気なクソガキだと思ったんだよ俺は。忘れるわけがない。さっさと神にでもなんでもなってくれ」
「そりゃ荷が重いなあ」
なんてことを言ってくれたんだ、俺は。過去の自分に向かって毒づく。
「役者さん全員クランクアップでーす!」
監督の大きな声が響いた。同時に、その場にいた全員からの、折り重なるような拍手が響く。狩岡もつられたように拍手をしていた。
走り抜けるような濃い毎日が、やっと終わる。そう思うと、自然と肩から力が抜けた。
さっさと帰ろう、と思った時。「立川さん」と呼び止められ、立川はくるりと振り向く。
津原が大きな花束を抱えていた。
「お疲れ様です」
がさり、と渡された花束を、立川は戸惑いながら受け取った。花束は大きくて重くて、自分の手には余る気がした。花粉の甘い匂いがする。少しだけ泣きそうになったのを誤魔化すように、「やっと解放されると思うとせいせいするよ、カントク」と悪態をつく。
「名演でしたよ。ぜひまた一緒にお仕事させてください」
露骨に顔をしかめたら、「冗談ですよ」と笑われた。
「カントクはまだまだこれからだろ?」
「そうですね。今度は僕が地獄を見る番です」
「……地獄だってわかってんならもーちょい優しくしてくれてもよかったと思わない?」
すみません、と相変わらず反省など欠片もしていない様子で、津原は曖昧に笑う。
「まったく、カントクはなんでそんな頑張れんのかなあ」
茶化すように言ったら、「我々凡人には努力しかありませんから」と、どこか自虐的な笑みが返る。
「次に会うのはレコーディングですか。音楽家としてのあなたが見れると思うと、楽しみです」
声は出さず、立川は口元だけで笑ってみせる。
疲労で頭はじんじんと痺れるのに、無性に手が動かしたかった。
何かがぶっ壊れてる今なら書けるかもしれない。紙とボールペンを引っ張り出して、半ば投げやりにペンを走らせる。躊躇いがちな一行目を超えれば、ダムが決壊したみたいに、言葉が雪崩れてくる。手が追い付かなくて、どんどん文字が乱れていく。
一枚目。だめだ、と首を振る。
二枚目。もはや言葉ですらない何かを書き連ねながら、体力は尽きようとしているが、意地だけでペンを走らせる。
「ちょっと陽介、そんなところで寝てるの?」という茜の声が、遠くで聞こえた気がした。気づくと身体は思うように動かなくなっていて、意識は沼の底にずるずると引っ張り込まれて、落ちた。
目が覚めると、大量の殴り書きの山があった。無理な姿勢で寝ていたガタがきて、首も肩もあちこち痛かった。全身打撲をした時みたいだ。痛む身体に鞭を打って、ぐしゃりと曲がったコピー用紙を拾い上げる。
全くどれもこれもひどい。死骸の山みたいな言葉の羅列だ。てにをはもめちゃくちゃ、誤字脱字のオンパレード。
だけど、どんなゴミの山でも、何もないよりはずっとマシだ。削って、削って、ゴミの山からどうにか使える材料を拾い上げた。言葉とメロディーを探して、試行錯誤の末、今までになく滅茶苦茶で、苦し紛れで、いびつな何かが生まれた。
忘れないうちに録音する。インスト音源をかけながら歌ってみる。あと少し、自分の美味しい音域を増やしてやるか。
自分好みに成型していく。途方もなく長く苦しく、息継ぎをしないで泳いでいるみたいな気分だった。一進一退を繰り返しながら、暗闇の中を手さぐりで進んだ。ある一点で光を捉えて、それに向かって休む間もなく手を進めた。
「っは、」
息も絶え絶えに、立川は床に倒れ込んだ。できた、と口にして湧き上がってきたのは、喜びでも安心感でもなく、得体の知れない涙だけだった。解放感、だろうか、これは。自分でもよくわからない。
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