凡庸な悪 ――アーレント (6)

 早朝、変な時間に目が覚めてから、妙に目が冴えてしまっていた。

 することもなく、軽くシャワーを浴びてから、朝方の街を歩いた。この間咲き始めたと思っていた桜は、いつの間にか、既に五分咲き程度に開いていた。無地のエプロンを着たどこかの店員が、歩道に箒をかけている。踏まれて汚くなった桜の花びらが、歩道の隅の方に邪魔そうに押しのけられていく。

 ゆっくり外で朝飯でも食べようかと思ったが、思ったより時間はつぶせずに、諦めて早めに現場入りした。監督以外まだ誰も来ていない。イヤホンを耳にはめながら、いたずらに台本のページをめくる。

 どれだけしっかり台詞を固めていても、その場の雰囲気や他のカットによって、流れが大きく変わることもある。映画もまた生き物みたいな妙なライブ感がある。余白を残しておくほうが自然に演れますよ、と津原は言っていたが、ボールペンとマーカーで書き込みだらけの台本には余白なんてほとんど残っていない。

 不意に津原が横に座った。イヤホンを外すと同時に、「どうですか、曲の方は」と話しかけられる。

「ん、まあまあ」

 立川はつい強がる。「そうですか」と言って、津原の目が立川の手の中をちらりと覗いた。

「意外だな。立川さんは、自由に演技したい方だと思ってた。そういえばアドリブとかもあまりやらないですね」

「そんな余裕ねえよ、所詮素人だぜ」

 肩をすくめる立川。「僕、もしかしてけっこう無茶言ってました?」「今頃気づいたの?」

「もっと優しくした方がいいですか?」

 悪事を見咎められた子どもみたいな顔で、津原は言った。その言葉がすでに意地が悪い、と立川は思う。話を聞くに、「役者を委縮させるような真似はするな」と師匠に釘を刺されたらしい。

「よせよ。そういうの、逆にやりづらいから」

 立川は言い捨てる。素人だからと実力不足を容認されるより、プロと同じように容赦なく絞られるほうがずっといい。

「すごくひたむきな方なんですね、立川さんって。そういうところも羽山さんと似てる気がします」

「本気で言ってる?」

 半分本気で、半分冗談。のつもりだったのに、思ったより尖った声になった。

「色んな人に色んな話を聞きに行きましたけど、やはり似ていますよ、あなたたち親子は。羽山さんからたくさんのものを受け取ったんですね」

「でも俺はどーせ偽物なんだよ、カントク」

 脚本の中盤から終わりにかけて。自分の過去をほじくり返されるようなシーンがいくつもあったのを思い出す。

「“あなた”はそんなことで揺らぐんですか?」

 大丈夫ですよ、と津原は言った。慰めるというよりは、言い聞かせるような声音だった。

「大丈夫です。僕が保障しますから」

 何をだよ、と立川は小さく笑った。


『「タカはつくづく報われないな」

 コピー用紙の束を揃え、“狩岡”はぶっきらぼうに言う。目線は夕刊の一面。『立川幸さん、第一子。お相手は……!?』父親を公言していないことをいいことに、様々な憶測が飛び交っている。大企業の社長、共演者の俳優、政治家の跡取り、他にも色々。その中に“タカト”の名前もあるから余計に複雑だ、という顔。

 家族のステレオタイプはまだ色濃い時代だ。未婚の母となる“幸”は、例に漏れずいい顔はされなかった。

「本当にタカじゃないのかよ」

「むしろ心当たりがあってほしかったよ」

「……そりゃご愁傷様だな」

 “狩岡”から渡されたコピー用紙を、「お、さんきゅ」と受け取る“タカト”。

「まあ、幸さんがしあわせならそれでいいよ」

 ページを繰りながら言うと、「泣けるねえ」と温度の低い返事が返る。

「今回のもいいね。ジャケット、ヒサに任せてよかった」

 何かを誤魔化すみたいに、“タカト”が言った。


 狭いベランダに、狭い夜空が映る。携帯電話の丸いボタンを押して、しばらくコール音だけを聞く。

「ご懐妊おめでとう」

「へえ、祝ってくれるの」

 “幸”は少し意地悪な声で言った。

「新しい命なんだから、祝福以外ないでしょ」

 言葉とは裏腹に、どこか悲しげな顔。

「じゃあ私は、ひどい母親かもね」

「どうして?」

「医者にもう堕胎できないって言われた時、死にたくなったから」

「……そう」

 “タカト”は無意識にベランダの下を見た。死にたくなる、という気持ちを、どこか理解しようと努めるみたいに。

 しあわせになってね、と“幸“は言った。今までよりずっと優しい声で。

「幸さんもね」

 その声に“幸”が答えることはなく、「じゃあそろそろ切るね、おやすみ」という声と共に、通話が切れた。ツー、ツー、という音だけが、夜の中に虚しく響いた。

 その電話を最後に、その後二年ほど、“タカト“と”幸“は交流を断つことになる。

 “タカト”はそれからも地道に曲を作り続けた。年末の音楽番組への連続出演と、初のミリオンセラー。それとは対照的に、“幸”は芸能界から一時距離を置く。代わりはいくらでもいる世界だ。あれほど天才と呼ばれ、あるいは「売女」と蔑まれた“幸“も、次第に忘れられていく。

 ある日の夜更け。収録の終わった帰り道、“タカト”は一本の電話を受け取る。およそ二年ぶりになる“幸”からの電話だった。

「羽山くん、助けて」

 震えて、余裕のない声だった。

「このままじゃ私、子ども、殺しちゃう。助けて」

 “タカト”の顔つきが真剣になる。家の場所を聞き、忘れないうちにタクシーに飛び乗った。


 おむつや子ども服やおもちゃやプラスチックの食器が散らばるマンションの中。“幸”は一人で泣いていた。傍らでは小さな子どもが、長座布団の上で泣きつかれたように眠っている。片頬の頬だけがほんのりと赤い。

 床に散らばるものを避けて歩き、“タカト”は“幸”の傍に膝を落とす。“幸”はすがりつくように抱き着いてきた。その背中をこわごわと撫で、「ずっと一人だったの?」と“タカト”は尋ねる。顔を胸元にうずめたまま、頷く“幸”。

「父親は?」

「結婚、してるから。別の人と」

 懺悔するような口ぶり。“幸”の目からぼろぼろと涙が溢れ始める。

 食べかけのまま乾いたパン。淹れっぱなしのまま冷えたお茶には、うっすらと埃が浮いている。

 自分のことすらままならないまま、“幸”は一人で育児に向き合わざるを得なかったことに、“タカト”は気が付く。

 子どもが産まれたばかりのころは“幸”を何かと気遣っていた“母親”や“マネージャー”も、今ではほとんど連絡をしてくることもない。何をどうすればいいのかわからない中、育児書を読み散らかしては不安になりながら、“幸”は必死に戦っていた。

 しかしもう、限界が来たのだ。

「頑張ってたんだね、一人で」

 “幸”は子どものようにしゃくりあげながら、首を横に振る。「私なんか、」その先の言葉は声にならず嗚咽になって漏れる。

「私、わからないの、お母さんにも、頼れなくて、ずっと泣き止まなくてイライラして、どうしたらいいかわかんなくて、叩いちゃった、こんなに可愛いのに、時々殺したいほど憎く見えるの、どうしよう」

「幸さん」

 はっきりとした硬い声音で、“タカト”は告げる。憔悴しきった様子で、“幸”は恐る恐る“タカト”を仰ぐ。

「……俺はね、“家族”を知らない。どんな人が良い親でそうじゃないのかも、何が普通なのかも、はっきりとはわからない。だけどね、たぶん、幸さんと一緒に、この子の保護者になってあげることは、できると思う」

 ひとつ、“幸”がしゃくりあげる。

「結婚、しませんか」

 “幸”はまた激しく首を横に振った。「だめ、こんなの、羽山くんまで背負う必要ない」

「言っただろ。俺は心の底からあなたを尊敬してるんだ。今もそうだよ。俺はずっと幸さんのことが好きで、同じくらい、あなたの子どもだって愛おしい」

 “タカト”は腕に力を込める。大事なものを抱え込むように。

「力になりたいんだ」

 一緒に家族になりませんか。

 もう一度“タカト”は告げる』


 “幸”役が自分の下で小さく身体をよじった。

「立川ちゃんさあ、“タカト”として今一番しちゃいけないことしてるの、わかってる?」

 相変わらず説教がましいことだ。「あのシーンを撮る前だったらぶっ殺してたよ、こんなの」

 細すぎる脚はびっくりするくらいに滑らかだった。目も鼻も耳も手足も、身体から香ってくるにおいまで、彼女は何もかもが精巧な作り物みたいだった。

 立川は苦しそうに、無理やりせせら笑ってみせる。

「生憎俺は、“タカト”と違って欲望だらけなわけ」

 声もどこか、どろどろとした欲望に濁った。太腿を抱え、深く腰を沈めると、重い息と一緒に彼女が顔をしかめた。

 彼女の身体はやっぱり細すぎて、無理に上にのしかかると折れてしまいそうだった。抱きしめるにもあまりに頼りない肉体を、立川の手は持て余す。汗をかいているはずなのに、中も外も、彼女の身体はどこか冷えている。だから、繋がっているはずなのに、肉体の境界がはっきりとわかる。

 汗が喉を伝ってすべり落ちた。

「可哀そうだね、立川ちゃんは」

 小さな手が首元の指輪に手をかけた。わずかに首が締まる感覚。

 何もかもを誤魔化すみたいに、キスをする。

 自分の中が欲望で一杯になれば、余計なことを考えずにすむ気がした。


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