凡庸な悪 ――アーレント (7)
『“狩岡”の仕事部屋は、いつ来ても雑然としている。今日も足の踏み場がないほど、コピー用紙やら絵具のチューブやらキャンバスの木枠やらが散らばっている。
「ヒサんち相変わらずきったねえなあ」
「いきなり来ておいてご挨拶だな」
サイドテーブルの上のものを床に払い落し、“狩岡”は不満げにカップを置く。イーゼルの上には書きかけの絵がひとつ。“狩岡”にしては珍しく小さなサイズだ。
カップを持つ指に指輪がついていることを、“狩岡”は目ざとく見つける。何か言いたげな“狩岡”を遮って、「次のシングルの曲、できたんだけど、聞かない?」と“タカト”は言った。
『アンガージュマン』
手刷りのCDに、油性ペンの手書きの文字。
「……今度は誰の言葉なんだよ」
「サルトル。社会参加って意味。エンゲージメント、だよ。英語だと」
“狩岡”はまた“タカト”の手元に目を向ける。薬指につけられた細身の指輪。
“幸”はさしずめ、“彼”にとってのボーヴォワールといったところか。
「人生は偶然の連続だけど、あの子にとっての俺が必然の愛になれたらいいなって」
「惚気か?」
「まあいいから聞いてくれよ」
“狩岡”はしぶしぶといった様子でCDをラジカセに差しこむ。しかめっ面のまま、一本煙草に火をつけた。
煙草がすっかり短くなってしまう頃、曲は終わった。
「これ、また俺に描かせてくれんの?」
「もちろん」
“タカト”はにこりと笑う。「今回もよろしく頼むよ」
「あいつのすごいところは、」
後に“狩岡”は、“タカト”の告別式で語る。
「誰もが『これは自分のために書かれた歌だ』って思えるような、言葉の力だったと思う」
世界中で自分がひとりぼっちだと思った時、ぱっと光を差してくれるような、不思議なあたたかさと強さがあった。そう言った。
「正直俺は、タカと直接かかわるようになる前から、あいつの歌に何度も拾い上げられてた。たったそれだけのことで、クソムカつくことも死にたいほど悲しいことも、ほんの少しだけ耐えられる気がした。その“ほんの少し”の連続で、俺は今まで生きてきた」
真っ黒なスーツとネクタイ。声は淡々としているのに、弔辞を握る手がかすかに震えていた。
「優しくはないし、大袈裟に慰めたり、甘やかしたり、『君は一人じゃない』なんてストレートに言うような真似はしない。だけど、俺たちがここにいることをわかってくれている。赦してくれる。あいつの歌は、そういう歌だった」
「陽介」
”タカト”は保育園の中に向かって呼びかける。“陽介”はぱっとこちらを見て、「お父さん!」と顔を輝かせる。駆け寄ってきた“陽介”を抱き上げると、きゃーっと嬌声を上げて喜んだ。
「今日もお父さんがお迎えなのね、いいわね」
「うんっ」
“タカト”はそっと“陽介”を下ろし、保育士に微笑みかける。
無邪気に頷く“陽介”の手を引く“タカト”。ふくふくとした小さな手の感触が柔らかく、温かい。
「おうち帰るの?」
「いや、お母さんの病院が先だな」
歩道に父子二人分の影が伸びる。
入籍から約四年が経っていた。“幸”は女優として復帰しながらも、子宮の悪性リンパ腫の治療のために入退院を繰り返していた。とはいえ病状は少しずつ回復しており、数週間もすれば今回も退院できそうだと言われていた。
「ねえお父さん」
時折この子は、何かを察したような顔をする。大人が言葉に出して言わないことを、肌だけでなんとなく感じ取っているようなのに、肝心なことを直接は訊かない。手を握ったまま、“陽介”が尋ねる。「空はさ、どうして青いの?」
“タカト”は少し考えるそぶりを見せ、「そうだなあ」と空を仰ぐ。春の空は淡くかすんで、その青みは薄い。夕方の陽の色が少しずつ侵食し、黄色と混ざった色になってきている。
「そもそも、俺たちの認識している“青”は本当に全部同じ“青色”だと思う?」
この人はまた何か難しい話をしようとしているな? “陽介”の顔がそんな警戒と共に固まった』
その日の撮影の終わりごろ、狩岡が面白がって様子を見に来た。「うちの陽介が迷惑をかけてないか」と、まるで保護者を気取るような台詞と共に。
マイクやカメラの片づけをしながら、津原がにこやかに対応する。
「彼はよくやってくれてますよ。やはり声が良いですね。若い頃のマーロン・ブランドみたいだ」
「物は言いようだな。俺はずっと、喉風邪拗らせたみたいな声だと思ってた」
おい聞こえてんぞ、という立川の声は無視される。
――みんなからかってくるんだ、変な声だって。
――大丈夫。お前の声は父さんとお揃いだよ、陽介。
「確かに癖は強いですね」という津原の声で、はっと我に返る。
「生かすも殺すも僕の腕次第だから緊張します」
恐縮したように笑う津原。まったく面の皮が厚い、と立川は思う。あの表情で今日も何度リテイクを食らったかわからない。
お先に失礼します、と金髪の男が現場を出た。お疲れ様ですー、とまばらな合唱。
「あれ、ヒサさんだよ」と指をさすと、「人に指をさすなお前は」と腕を下ろされる。
「マジであの髪色だったの?」「俺も若かったんだよ」
人はどんどんはけていく。“陽介”も忙しいようで、母親らしきスーツの女とマネージャーと共にさっさと帰っていた。子役は伊達じゃないというべきか、彼の子どもらしからぬ演技力にはこちらも圧倒された。
悔しいが監督のキャスティングは秀逸だった。それぞれが上手く特徴をとらえている。
自分はうまく“タカト”になれているかどうかは、いまいち自信がないが。
「目の前に自分の偽物がいるってのは妙な気分だな」
ぼんやりとしていたら、狩岡が誰ともなくひとりごちた。
「俺なんかガキの自分と手つないだからね、ヒサさん」
「はっ、そりゃ傑作だ」
最初のシーンでは自分より若かった“タカト”は、いつの間にか自分の年齢を追い越している。自分が彼の享年に追いついてしまうまでは、きっとあっという間なのだろう。
たまには飯でも食うか、と狩岡。その声が少しだけ固い。
その目は自分を見ているようで、自分ではない何かを見ているような気がした。
「そうだね」
何も気が付いていないふりをして、頷いた。
神は死んだ。十五年前、ちょうどこの日に。
「お前の誕生日祝いもまだだったな。奢ってやるよ」
「じゃあ焼き肉で」
「このクソガキ」
焼き肉屋に出向く前に、二人はある霊園へと向かった。カトリック式の墓は仏教式に比べて場所を選ぶ。都内とはいえ電車でたっぷり一時間はかかる僻地に、その霊園はあった。普段はめったに出向くことはできない。
「何年ぶりかな」
日は暮れている。静かな霊園には人気もない。背の低い暮石が芝生の上にぽつぽつと並んでいる。さくり、と芝生を踏む音以外に、辺りには音も気配もない。
「お前のその格好は、喪服なんだな」
羽山貴仁の墓を探している途中、不意に狩岡が言った。
「ん?」
振り返った拍子に、ピアスがきらりと光る。
今日も立川は黒ずくめだった。グレーのワイシャツと、黒いジャケット。組み合わせを考えるのが面倒だから、似たような服ばかり持っている。
「……好きで着てるだけだよ」
わざとらしく微笑んで、立川はまた歩き始める。
「俺は、ちゃんと“タカト”を演れてると思う? ヒサさん」
「気にしてるのか」
「何が?」
「……いや」
「血がつながってないこと?」
言わずとも、目は何よりも正直だ。春のまだ冷たい夜風が、首の間を抜けていった。光源のないまっさらな夜空に、零れるような星々。
狩岡の目にあるように見える迷いが、実は自分を写したものであることは、わかっている。
親子、という判を押されることが、立川には二重の意味で怖かった。ひとつは、自分のやることなすことが、すべてタカトに還元されること。親の七光りだとか、血は争えないとか、遺伝子だとか、そんな言葉で片付けられること。
もうひとつは、それなのに、血すら繋がっていないとわかった途端、ややこしい関係性に顔をしかめられたり、挙句、親子と名乗ったことを嘘つき呼ばわりされること。
「お前らは、ちゃんと“親子”だよ」
「そう見える?」
「だってあいつは、ちゃんと“親父”だったろ」
「……そうだね」
あった、と立川は小さく声を上げた。羽山貴仁。その名前を見ながら、自分がまだ羽山陽介だった頃を、なんとなく思い出した。
花屋で買った白いカーネーションを、墓前に置いた。
指を交差させ、握り込む。静かに目を瞼を下ろす。
今の自分より一つ歳を重ねた頃、タカトは“父親”になった。俺はまだヒサさんからガキ呼ばわりされてる始末で、精神的な成熟も歌の実力も、あんたにはまだまだ届きそうにない。
――追いつく。絶対に。
映画の出演に掲げた条件は二つ。ひとつは、主題歌を『倫理観』が請け負うこと。
もうひとつは、タカト追悼ライブへの協力。自分たちには資金も後ろ盾も宣伝力も、何もかも足りない。お互いがお互いの宣伝を行う形で、立川は協力を仰いだ。だから、映画が公開されるよりも前に、少なくとも開催の目途を立てなければならない。
――俺は必ずやり遂げるよ。これ以上あんたに負けてらんないからな。
目を閉じたまま、立川は強く手を握り込む。
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