凡庸な悪 ――アーレント (4)

『事件はある一本のビデオと、その顧客リストの流出から始まる。その中には“ある大物司会者”の名前もあった。例に漏れず、それは“幸”との男女のやり取りを意味するものであったが、問題はビデオに映った“幸”の年齢だった。どう贔屓目に見ても大人びた中学生、実際の所は当時小学校高学年の“彼女”と、身元の知れない“男たち”との情事。匿名によるリークで、事務所は必死に隠そうとしたが、一度火が点くと煙が広がるまではあっという間だった。

「ビデオの撮影者は父です」

 記者会見。事務所から事実無根の嫌がらせだと否定するよう言われていた場で、“幸“は筋書きには全くない台詞を口にする。

 その一言で、どうにかして意地の悪い質問をしようとしていた“記者たち”の顔が、凍った。

「ではあのビデオはすべてご自身のものだと?」

「ええ、認めます。父に言われて、購入者と寝たこともあります。あのリストにある人とは全員会ったことがあります」

 ざわつき。傍らに控えていた“マネージャー”が“幸”を止めようとするが、とても壇上に近づけない。「本当ですか」「援助交際ということですか」“誰か”のヤジ。

「私は父から性虐待を受けていました。あのビデオもその延長上です。小金は稼いでいたみたいですけど」

「無理やり?」「ええ」「あなたが誘ったんじゃないですか?」「どうでしょうね」「楽しんでいたという気持ちは」「ありませんよ、今までに一度も」

「では処女はお父さんに?」“記者”の下衆な笑み。

「そうですね」つまらなそうに答える“幸”。

 現場は大混乱だった。最後には“事務所の社長“まで現れる始末で、お偉い大人たちが何かを繕うように必死に言葉を並べていたが、誰も耳を貸さない。

 ある音楽番組の控室。テレビに映る“幸”を眺めながら、“タカト”は目を見開いていた。

「そろそろ出番です」

 “スタッフ”に呼ばれ、我に返る。慌ただしくアコースティックギターを携え、“タカト”は楽屋を後にする。『真』『善』『美』三部作を収録したアルバムの宣伝だった。無事に曲を終え、帰路。一息ついた途端、タクシーのラジオで同じニュースを聞いた。

 児童ポルノの被害者であるにも関わらず、“幸”はその態度をはじめ、まるで罪人のように非難を浴びた。自宅には大量の手紙が届き、匿名の嫌がらせも後を絶たなかった。

「父親が死んでるからって、ふつう親をあんな風に言えるかよ、なあ。あれじゃ親も報われねえよ。鬼だ、鬼。あの女は」

 “タクシーの運転手“が言った。

「そうですかね」

「そうだよ、親父さんだってよ、そんなのやりたくてやってたわけがない。俺にはわかるね」

 はあ、と困ったように生返事をする“タカト”。

「だいたい、親のことまで売名に使おうなんてどうかしてる。そう思わねえか兄ちゃん」

「俺は……」

 “タカト”は口ごもる。“幸”をかばう言葉すら出てこなかった。

 あくる日の夜遅く。“立川幸”が何者かに殴られ重体だというニュースが流れる。

 意識の回復が確認された後、“タカト”は幸の“マネージャー”に「見舞いをしたい」と連絡を取ったが、「今あの子は身体を休めなければいけないので」「誰とも会える状況じゃありません」と断固として拒否された。

「お前あの立川幸と一緒の高校だったって?」

 飲みの席での噂話。「この後暇なら飲みいこうや」と、事務所の“先輩”に誘われ連れられた集まりは、半ばコンパのような会合だった。「この子が羽山くん? やだーかわいい!」と、すでに出来上がっていた“タレントの女”に抱き着かれる。

「なあ、ヤらしてもらったことあんの?」

「ないですよ」

「へえー、勿体ない。俺だったらすぐ頼むのにな」

 もおやだー最低っ、と“タレントの女”の声。

「もうあそこまで堕ちたらおしまいでしょ。女優は女優でもそっちの女優に転向したほうが売れるよね、あの子」

 サバサバしたノリが売りの“モデル”が、そう言って強い酒を煽った。酒盛りの喧騒は人の悪口をますます盛り上がらせる。その中でつまみを口に運びながら、“タカト”はひとり居心地悪そうにしている。

「なんだよおノリわりいなあ」

 肩に手をまわされる。煙草の匂いが鼻を掠めた。長い前髪のせいで、“タカト”の表情は見えない。

「――“あなた方の中で罪のない者だけが、彼女に石を投げなさい”」

 “タカト”の台詞に、場が不快そうに静まり返る。水を差された、と言った様子。

「ヨハネの福音書です。ご存知ないですか」

 姦淫を犯した女が、石打の刑に処せられる。パリサイ派や律法学者がイエスに尋ねる。「この女は姦淫の場でつかまりました。モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じられましたが、あなたはどう思いますか」

「何お前、宗教とかやってんの?」

「やめときなよお、流行んないよイマドキ、この間もヤバいのが事件起こしてたじゃん」

「そういえば、あの地下鉄のなかに友達いてさあ」「うそ、大丈夫だった?」

 話は別の火種を見つけて盛り上がっていく。「ごめんなさい、明日、早いので」そう言い残し、“タカト”は店を出た。

 その後彼は一曲の歌を書く。

『パンセ』

 強さと弱さで揺れる人間のすべてを歌にしたかった、と“彼”は言った』


 歌を撮るところが一番キツい。

 自分の歌い方を出してはいけない。あくまでそれは“タカト”の歌でなくてはならないし、自分がどれほど彼の足元にも及ばないかを、いちいち突き付けられる気がする。

 そこに普段の自由はない。何かが詰まったような感触は、歌っている間も喉を塞ぎ続ける。

「カット」 

 その声から、映像の確認をされている時間が一番苦手だった。最後の審判でも下される気分だ。緊張で吐きそうになる。

「すごく上手いけど、サビの一番目のフレーズががなりすぎでしたね」

 津原がこちらを見る眼差しには、一片の慈悲すらないように見えた。

 喉が焼き切れそうだ。差し出された飲み物のストローに口をつける。マヌカハニーやら生姜やら喉にいいものをとりあえずぶち込んだという代物は、とてもおいしいと言えるようなものじゃない。無理に呑み下して、もう一度腹を決めた。

 次で終わらせる。そう意気込むほど、自分の演技が空回る。演劇やライブと違い、一発で勝負のつかない世界だ。やり直しがきく代わりに、リテイクが何度も重なれば、精神も容赦なく削られていく。

「もうちょい力抜きなって」“幸”を演じている女優に笑われた。

 煮えたぎるような悔しさを呑み下しながら、また息を吸い込む。

「カット」

 チェスの駒にでもされた気分だ。早く王手チェックを打ってくれ。

「彼はもう少しフラットに歌っていたんじゃないかな」

 フラットに歌って、どうあのダイナミクスを再現しろと言うのか。迷いながら、手さぐりで何本も歌った。「オッケーです」という言葉を聞いた時、ほっとした反面、今までと何が違ったのか、どうしてOKが出たのか、まるでわからないのが苦しい。

「監督、ちょっといじめすぎじゃない?」

 助監督の中年男が津原をたしなめるが、「ごめんなさい、凝り性なもので」と、カメラを覗き込みながらの津原は、全く反省の色がない。

「亮也はそういうところ、久美さんに似てほしくなかったなあ」

「いいんですよ、僕が悪者になるくらいで」

 付き合わされたこちらはたまったもんじゃない。立川は不満げに茶色い汁をストローから吸い上げた。不味いが喉が潤っていくような感覚は確かにある。

 ペットボトルが空になる、濁った音。

「いやあ、でも、予想以上ですね立川さんは。驚きました。歌も勿論ですけど、演技もここまでできると思っていませんでした。イケると思って嬉しくなって、けっこう無茶ぶりしちゃいました。すみません」

「そうかよ」

「ええ。やはり血筋ですかね」

 立川の動きが、一瞬だけぴたりと止まる。何かを察したように、周りの物音がはたと止んだ。

 手元のペットボトルがみしりと軋む。

「俺の前で二度とその言葉を使うな」

 ペットボトルが指の形に合わせて窪む。ぎり、と硬い音。

 津原だけが取り澄ました表情のままだった。

「……今日はこのくらいにしましょうか」

 穏やかに彼が告げ、糸が切れたように、周囲の音が蘇った。おつかれさまです。誰からともない、まばらな拍手。“幸”役がふああと大きくあくびをした。


「立川ちゃんさー、あんま調子乗らない方がいいよ」

 帰り際。豪奢なコートを羽織った“幸”役に、そんな悪役じみたことを言われた。この手の台詞はミサを始めたばかりの時にも嫌と言うほど言われたが、何度言われても笑ってしまう。今回は劇中で“幸”自身が言われているような台詞だから、なおさら。

「監督も褒め上手だから勘違いしちゃうのかもしんないけど、ぽっと出の素人の君が羽山を演れるのは、ただの偶然なんだってことを忘れないで。俳優プロは皆実力を研鑽してここに来てる」

「へえ」

 立川は肩をそびやかす。確かに、ぽっと出のド素人に主演をかすめ取られて、俳優陣としては面白いわけがない、か。

「私が言いたいのは、実力で勝ち取った役ですらないのに、監督に横柄な態度を取るのもいい加減にしなさいってこと。現場では彼がルールだし、弱音を吐くならさっさと降りれば?」

「肝に銘じとくよ」

 女優は不機嫌そうに去り、マネージャーと共に車に乗り込んでいく。足ほっそいなー、もうちょい肉がついていたほうが好みかな、なんて思いながらも、彼女が“幸”に選ばれた理由が、なんとなくわかった気がした。

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