凡庸な悪 ――アーレント (3)
『羽山
そのせいだろうか。“彼”はいつもどこかよそよそしいのに、急に距離を詰めてくるところがあるような、独特な間合いを持つ人だった。
大学進学を機に上京。私大の神学部に奨学金で通いながら、アルバイトの隙間で音楽に打ち込んだ。ストリートでは最初誰の目にも止まらなかった。音楽が興に乗り始めたのは大学卒業の少し前ほど。それから、あるオーディション番組への出演を皮切りに、彼は一躍人々の知るところになる。
“立川幸“とは高校の同級生だった。当時から時折仕事を挟み、登校がまばらだった彼女は、人並外れた容姿と共に浮いた存在だった。話し方から頭の良さを見て取ったが、成績はそれほど良くはなかったという。
「この間の映画、すごくよかったよ」
ひとりでちまちまとサンドイッチをかじる“幸”の前に、“タカト”が腰かけ、話しかける。
「脇役だけどね」
「そういう役をうまくやれるのがすごいんでしょ。良く知らないけど」
「知らないなら勝手なこと言わないで」
ねめつける“幸”。名前に相反して薄幸そうな“彼女”は、人を寄せ付けるような隙を作りたがらない。それでもめげずに話しかける“タカト”は、最初こそ鬱陶しがられていたが、次第に――無視に近い形で――受容されていく。
“タカト”が“幸”を気にかけていたのは、何も彼女がひとりだったから、というだけでも、「女優やってるわりに美人でもなくない?」とか「ヤリマン」とかいう声に終始晒されていたからでもない。きっかけは、めったに肌を見せない“幸”が、ふと腕をまくった拍子に、大きな火傷の痕が見えたこと。
東京に出てしばらく。歌手として地道に仕事をこなしていくうち、“タカト“は”幸“に再会することになる。
「久しぶり、立川さん」
テレビ局の廊下。すれ違った折に、“タカト”は人垣の中の“幸”に向かって呼びかけた。
「また会えるとは思ってなかった」
「羽山くん、そんなこと言うガラだったっけ?」
仕事の途中なのだろう、早足な“幸”はにべもない。
「やだなあ、君を目標にがんばってきたんだけど」
「お世辞はいい。忙しいからあとにしてくれる?」
凛とした背中が遠ざかっていくにつれ、“タカト”は痛感する。あの人と自分とは、まだこれほどまでに距離が遠い。全く意に介していないというようなふりをして、“タカト”は踵を返す。
“幸”は実力ある女優として売り出されていたものの、熱愛や枕営業の噂が絶えなかった。その汚名を払拭するどころか、むしろ開き直っている風の彼女に、世間の風当たりはそれほど優しくはなかった。
「立川さん」
映画『福音』のクランクアップの立食パーティー。ひとりになった“幸”に声をかけ、短い間だけ、一緒に食事をした。
サテンの黒いドレスは、シンプルなのがむしろ彼女の華やかさを引き立てていた。シャンパングラスを握る手が折れそうなほどに細い。
「今日も素敵ですね」
「まあ、それが仕事だからね」
口説き文句をさらりとかわされる。
彼女の手はずっと、手元の携帯電話を見ていた。台本をいつでも読めるよう写真を撮っておいているらしい。しかし今日は、それ以外の雑事にも苛まれているようだ。時折挟まれる着信音に苛立たしげな様子。それをちらりと盗み見、
「しんどくないの?」
言いながら、串揚げをもぐもぐと頬張る“タカト”。
「何が?」
「色々言われるの」
今日の週刊誌もまた、鬼の首をとったように彼女の奔放さを論っていたことを、噂に疎い彼さえも知っていた。
「別に。それも仕事のうちだし。事実無根のことだったらとっくに否定してる」
「イメージとか大事なんじゃないの、そっち界隈」
「そうね。オファーの数に関わって来るし、社長には口酸っぱく言われるけど。でも、イメージを磨くことにしか心血注げないのって、結局ただの実力不足への言い訳でしょ」
「厳しいね」
「清純で無垢で無知なオンナのコの
「
“タカト”はわざとらしく繰り返す。茨の道を自ら選び取っていく“幸”のことを、少し案ずるような様子で。
「演じるのはカメラの前だけで十分だわ。技術さえあれば結果は勝手についてくるもの」
手元から目線を上げないまま、“幸”が重ねた。「あなたが言うとシャレにならないな」と“タカト“。今回の『福音』で、今年の日本アカデミー主演女優賞は決まった、とまことしやかに囁く声は、”彼”の耳にも入っていた。
「立川さん」と“スタッフ”がこちらに呼びかける。「ああ、羽山さんもご一緒でしたか」と、こちらにはついでのような目を向けて、
「監督がご挨拶をしたいと」
「じゃあ、行ってくるから」
“幸”があっさりと引き返していく。引き留める手が迷子になるほど早く。諦めた様子で手を戻した“タカト“を、「ああそうだ」と“幸”が振り返った。作り笑いだとすぐにわかるほど、一糸の綻びもない完璧な笑顔で、
「今度私と寝る?」
「ちょっ」
「冗談よ」
「……あんまそういうこと、外で言わない方がいいですよ」
さっきとは違う悪戯っぽい笑みを浮かべて、“幸”は裾を翻す』
何テイク目かわからなくなるほど撮って、初めてOKが出た。
監督――津原が「いいですね、これで行きましょう」とさらりと言うと同時に、どっと汗と溜息が漏れ出た。なんの感情もない声音で、今日何度「うーん、もう少し良くなると思います」と言われたかわからない。「童貞っぽさが足りないんですよね」と言われた時には本気でどうしていいかわからなかった。「そうとは限らないじゃん、タカトは」と反論したら、「事実かどうかじゃなく概念の話ですよ」と適当なことを言われた。
長いことまともに働いた記憶がないが、仕事とはかくも辛いものだったか。スタッフに差し出されたペットボトルの中身は、ほとんど一瞬で半分にまで減った。
何日か前にクランクインした。「季節が変わって陽の色が変わる前に撮り切っちゃいましょう」という津原の指針で、休憩時間を含めて時間はかなりタイトだ。そのはずなのに、津原は納得いくまで決してOKを出さない。
「あなたなら、もっと上手に
悪意が滲まないからこそたちが悪い台詞。こちらがうまくノらなかったところを、津原は見逃すことなく突いてくる。緻密で、妥協を知らない。自身に対しても他人に対してもそのスタンスだからこそ、彼の映画はあの精巧な空気感を作り出せるのだろう。
「大丈夫ですか?」
タオルを差し出してきたスタッフが、そう言って自分の顔色を覗き込んだ。「まあまあかな」と強がると、「最初はみんなやられちゃうんです。あの人の師匠、超厳しいことで有名ですからね」と、強がりなどとっくに見透かした様子で言われた。なんでも師匠は、何でもズバズバ言うタイプのスパルタだったらしい。
「本人は紳士っていうか、むしろ慇懃無礼な感じですけど。亮也さん、バッチリ師匠の影響受けてますよ」
「へえ」
聞けば彼は多和田久美子に師事していたという。これまた映画界の重鎮だ。それほど映画に明るくない立川でも聞いたことのある、ヒューマンドラマの大御所。雰囲気の作り方と、根底に密かに感じられる人間愛は、確かに少し似ているかもしれない。
後に津原にその話をふったら、「僕なんか、撮影中に頭から水ぶっかけられましたよ」と朗らかに言われた。そういうのって今パワハラって言うんじゃなかったっけ。口を挟もうとしてすぐ、「もうすぐ休憩終わりますよ、次のカットお願いします」とせっつかれた。
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