語り得ぬものについては沈黙せねばならない ――ヴィトゲンシュタイン (4)

 外は少しずつ、桜のつぼみが開き始めていた。

 今日は随分と日差しが温かい。公園はジョギングをする人や子供連れがまばらにいるくらいで、遠くから車の音が聞こえるほど静かだ。

 さっき買った赤黒い色のジュースは、人工甘味料の刺激がいつまでも舌に残った。最初は違和感があったが、慣れればこんなものか、と思う。色とはとても似つかない、なんだか杏仁豆腐みたいな不思議な味だ。

「オレもうちょっとでシフト終わるからさ、そしたらちょっと話さない?」

 レジで向かい合った時。ひどく緊張した様子で、渋木に言われた。私語がバレたら怒られるのか、彼にしては珍しい小声だった。どうせ暇だったから、それから少しだけ待ってみている。

 がっしりとした体躯で、人懐っこくて、気持ちが露骨に顔に出る渋木。立川が猫だとしたら、あの子はたぶん犬だ。ゴールデンレトリーバーとか、そういう感じの大型犬。日野さんもちょっと犬っぽいかも。彼はどちらかというと日本犬だろうか。忠義とか尽くしそうだし。

 犬の散歩をしている中年女性を見ながら、ぼんやりと考えていたら、遠くから渋木が全速力で走ってきた。薄いウィンドブレーカーが、動くたびにしゃかしゃかと音を立てた。

「今日もバイト? 偉いね」

「そ、ヘルプで入ってくれって」

 肩で息をする渋木に、「おつかれ」とチョコレートの箱を差し出す。「え、いいの?」と目を爛々とさせながら、渋木はそのうちの一個に恐る恐る手を伸ばした。

「オレ初めて食う、これ」

 風が穏やかだった。もう少し桜が咲いていれば、いい花見日和だったに違いない。梢に停まった雀を見やりながら、自分のためにもひとつ、チョコレートの個包装を開けた。「なにこれうまっやばっ」横で渋木が感嘆した。同時に雀が飛び去っていく。

「昨日のアレ、渋木いなかったんだっけ」

 ん、とばつが悪そうに頷く渋木。自分の横に座る様子はなく、街灯にもたれている。

「ああいうの、前にもあったの?」と訊くと、「いや、初めてだよ」と、口をもぐもぐさせながら答えた。これまで立川は、意外とうまくやっていたらしい。あるいは、ただ運がよかっただけか。

「これからどうするつもりなんだろ、あの人」

 あの教会は、もうライブハウスとして開かれることはないのだろう。「金曜日のミサ」という土台を失って、あの時立川に誘われたバンドは、私たちは、一体どうなってしまうんだろう。漠然とした、言いようのない不安だけが胸にあった。

「立川さんには、何か考えがあると思う」

「そう?」

 半信半疑な気持ちで口を挟む。

「たぶん。ここで折れるような人じゃないよ」

「そんなのなんの根拠もないじゃない」

 こんなことを言いたくなるのはたぶん、何一つ見通しが立たないことへの八つ当たりだ。状況がどうなるかわからない以上、今は何も言えない。だからこそ、無駄な堂々巡りばかりが頭を占める。

「大丈夫だって」と、渋木は小さい子どもを慰めるみたいに言った。笑うと目が細まるからか、垂れ目なのがいつもよりもよくわかる。向日葵みたいな晴れやかな笑顔だ。不思議なくらいに、彼にはまるで屈託がない。

 どうしてそんなに楽観的になれるのだろう。渋木の立川への信頼は、ほとんど妄信的だ。

「なんでそんなに立川さんを信用しているの?」

 瑠璃は率直に訊いた。

 歌の実力は確かだけれど、すごいと思うけど、それでもあの人は紛れもなく人でなしだ。茜に頼って生活をしているくせに、誰にだって手を出すし食い散らかす。女にだらしないのは勿論のこと、甘い言葉で誑かして手中に引き入れるのに男女の境はない。人タラシなのは間違いなかった。しかも自覚的な。

 どれだけ音楽的な実力を認めたところで、猜疑心まで消えるわけじゃない。――立川のだらしのなさを身をもって知ったから、なおさら。

 だから瑠璃は不思議だった。渋木がなぜそんなに、立川を信じるのか。

「なんでって言われてもなあ」渋木は困った様子で頭を掻く。少しの間、考えるそぶりを見せ、彼は照れくさそうに言った。

「あの人は、オレを掃き溜めから拾ってくれたから」

 恩義さえ感じるような口調。何気なく吐き出された言葉なのに、重かった。

「高校辞めてからバイトばっかりでさ、まあ今もそうなんだけど、ドラム初めてなかったらなんかこう……悪い方にばっか転がっちゃってた気がするの、オレ。知り合いにね、そういうヤツがいっぱいいるから」

「悪い方って?」

「アル中とかギャンブルとか借金とか」

 周りの大人そんなんばっかだからなー。わざと軽くしたみたいな声が、風にさらわれてどこかに行ってしまう。

 ぎょっとした瑠璃をみて、渋木は揶揄うように笑う。自己破産、という言葉が、渋木の語彙にはどうにもミスマッチな感じがした。それだけ身近なものなのだと思うと、ぞっとした。

 聞けば、渋木の住んでいる集落は、全体の半分以上が電気・ガス・水道のどれかを止められているのだという。

「うちも母ちゃんが払うのサボって一回ガスと電気止まってさ、母ちゃんどっか行ってるし、腹減ったから米炊こうと思っても、炊飯器も鍋も使えないのね。あれしんどかったなー」

 当人は笑い話にしているが、瑠璃は衝撃を受けるばかりだった。

 渋木曰く。集落とバイト先との往復を繰り返している最中。腐るすんでのところで拾い上げてくれたのが、立川だったらしい。

「聞きたい? この話」

「うん」

 半ばぼやかされる語り口に、瑠璃は焦れていた。彼女は退屈していたし、その上どこか投げやりだった。

「……あんま引かないでほしいんだけど」

 どこか期待と不安の混じった様子で、渋木はぎこちなく話始める。


 渋木にとっての音楽は、暗闇に突如として差し込んだ光だった。色も味気もなかった自分の生活に、前に進むための意味と力をくれた。

 渋木には何もなかった。今みたいに家に李音もいなかった。学校をやめて何日が経っていたかは忘れたが、一番頻繁にピアスを空けていた時期だということは覚えている。ただ生きるために働き、働くために生きていた。寿命の残りを少しずつ減らしていくだけの毎日。

 冬の寒い日だった。コンビニの夜勤から引っ越し作業のバイトを梯子して、渋木はくたくたに疲れていた。夜勤明けのぼうっとした頭で力仕事をしていたら、うっかり棚を顔面の方に倒して、痛かったうえに家主と先輩にたっぷり怒られた。自分が悪いのだから何も言えない。棚板が当たった頬のあたりが痛く、重いものを持った腕がだるかった。鬱屈だけが溜まって、泣きそうだった。

 昼過ぎ、廃棄でもらったからあげ弁当を一つ食べただけで、彼はその日それ以外に何も食べていなかった。次の給料日までの一週間を、あと四百円で乗り切らなければならなかった。廃棄を漁るのにも限界がある。家にあるのは袋半分のパスタと調味料だけ。腹が減って仕方なかったけれど、それ以上に渋木は疲れていた。帰ってさっさと寝てしまえば、空腹も紛れるかもしれない、と思った。

 ウィンドブレーカーのポケットを探る。中には万引きしたチロルチョコがいくつか入っている。その中からイチゴ味を選んで、口に入れた。腹がすいて仕方なかったけど、これでいくらか空腹が誤魔化されてくれるだろうか。そんなことを思いながら、帰路を歩いているだけなのに、なんだか迷子の子どものような気分だった。

 べたついた甘みが頬にしみて痛い。

 ネオンの不健康な明かりも届かないような、薄暗い道だった。周りは建物がにょきにょきと立ちふさがっていて、ゴミのポリバケツや猫の糞や古い油や、ヤニや吐瀉物の饐えたにおいが充満している。

 男の怒鳴り声が聞こえたのはその時だった。

「たいしたことしてくれたなよあ。おかげで取引が全部パアだ」

 足がすくんだ。

 声は建物のすぐ向こうから聞こえるらしい。少し入ったところの路地。たる所以とでも言うのか、この辺の治安が良くないのは昔からだが、これほど至近距離でのトラブルは初めてだった。

「別にクスリで儲けるなとは言わないよ。俺の縄張りを荒らすなって言ってんの」

 別の若い男が笑い混じりに言った。しゃがれた甘い声だ。

 すると、「んだとクソ野郎」「調子乗ってんじゃねえぞ」と複数人の罵声が重なった。何かを蹴とばすような鈍い音も聞こえる。

 ――なんだかまずいんじゃないか、これ。

 好奇心と恐怖心。見て見ぬふりはできないという良心と、厄介なことに巻き込まれたくないという気持ち。板挟みになった末に、渋木は気になって歩を進めた。

 入り組んだ袋小路のところに、数人の影が見えた。急いで物陰に身を隠す。どうやら、誰かが取り囲まれているみたいだ。リンチだ。どう見ても。

 口から心臓が飛び出そうなくらいに、ばくばくと鳴っていた。

 手をぎゅっと握った。見つかったらどうしよう、と思うと、根が張ったように動けなかった。

 渋木はそれなりに体格がいい方だったが、男たちはそれ以上にガタイがよかった。鍛えていることがわかる体つき。一人は首周りに刺青まで入れている。一方、その三人から囲まれている男は、陰になってよく見えなかったけれど、それなりに細身に見えた。彼一人だけが闇に溶け込むような黒髪だった。

「何が手前の縄張りだ。たかが親の七光りだろうが」

 手前にいた男が声高に言った。

「そっちこそ、の威を借りなきゃ何もできない癖に、よく言うぜ」

「そういう態度がムカつくって言ってんだよ。昔みたいに可愛がられてえか? あ? ドブ臭い野良猫がよぉ」

 刺青の男が、そう言って若い男の顎を掴む。「……野良猫、ねえ」と吐き捨てるような声の後、彼は放り捨てられるように地面に投げ出された。

「ピーピー泣くしか能がなかった癖に、随分立派な口利くじゃねえか。そんなにまたコマされてえかクソガキが」

 黒髪はよろよろと立ち上る。怒鳴られてもなお、余裕そうな笑みを崩さない。

 怖くないのだろうか。小さく息をひそめながら、渋木は思った。こんな風に隠れているオレですら、こんなに恐ろしいというのに。

「クスリなんてみみっちい商売してる奴に言われたくないんだけど。客に手ぇ出すなっつってんだろ。一体何人に売った?」

「そうだな、お前に邪魔されなきゃあと百人は天国にぶっ飛ばしてた」

 黒髪の首を掴んで壁に押し付けながら、

「泣いて謝ってしおらしいツラ見せたら許してやるよ。どうする? 別にこちとら、お前を例のヤクでぶち壊すこともできるんだぜ」

「そんな劇物に頼ることしかできないワケ? そんなんじゃ、そっちのオヤジもたかが知れてるね」

 黒髪が苦しそうにそう言った途端、刺青はその顔面に思い切り膝を入れた。

「ちょっ、顔傷つけていいんすか?」「いいんだよ、それでも多少は金になるだろ。まずは口の利き方から教えてやらないと話にならねえ」

 男たちのひそめくような会話。その筋に詳しくない渋木でも、あの男が危険な状態だということくらいは、容易に想像がついた。

 渋木はその場を立ち去ろうとした。これはとてもオレの手には負えない。

 だけどそれが、まずかった。

 後ろに一歩下がった途端、肩が思い切り建材の束にぶつかり、材木やら鉄パイプやらが音を立てて地面に崩れた。

 黒髪を取り囲んでいた男たちが、一斉にこちらに視線を向ける。

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