語り得ぬものについては沈黙せねばならない ――ヴィトゲンシュタイン (5)

「……やっべ」

 思わず小さく声が出る。男たちの問い詰めるような視線。殺気立っているのも、痛いほどびしびしと伝わってくる。

「おいボク、ガキはおうちで寝る時間だぜ?」

 刺青の男がオレに向かってそう言った。口の端は笑ってはいたが、目は全く笑っていなかった。

 じりじりと後ずさる。ガラの悪い大人が壁みたいになって、こちらに向かって歩いてくる。思っていた以上の迫力だ。なんであの人、あんなに平然としてたんだよ。

 ヤバい、殺される。そう思って、今にでも逃げ出す覚悟を決めた時だった。

 刺青の男が鈍い打撃音とともに崩れ落ちた。

 長い金属が続けざまに二人の男を殴打する。地面に伸された男の頭の一つを踏み、曲がった鉄パイプを肩に担いでいたのは、さっき取り囲まれていたあの黒髪の男だった。

「あーぶなかったあーー。まったく卑怯だよなあ、多勢に無勢なんてさ。そう思わない?」

 男が鉄パイプを地面に放り投げる。暗くてよく見えなかったけれど、その先にはどす黒いものがべったりとついていた……ような気がした。

「てんめえ……」

「うるせえっての」

 男はためらいなく、恨めしそうに声を漏らした刺青の頭を蹴った。「ひっ」と一歩飛びのいた渋木に、「そんなに怖がんないでよ。俺悪い奴じゃないから」と、顔の半分を血で濡らしたまま男は言った。打撲と腫れがあってもなお、それでもわかるほど整った顔立ちの男だった。

 野良猫、なんて言われていたけれど、笑った顔は確かに猫に似ているかもしれない。背はそれほど高くなかったが、手足がすらっと長かった。

「いやあ、助かったよ。間一髪だった。今回ばかりはホント終わりだと思った」

 ニコニコと笑いながら黒髪が言う。戸惑っている渋木のことを観察するように見て、「ここじゃなんだし、ちょっと明るいトコ出ようか」と、ためらいなく肩に手を添える。

 促されるまま路地を出た。

 男は立川と名乗った。訊きたいことは山ほどあったが、道中質問をしてきたのは、立川のほうだった。

「未成年がこんなトコいていいわけ?」

「……オレんち、こっちだから」

「ふうん。何歳?」

「十七」「若えなー。高校生?」「辞めちゃったんスよ。今バイトばっか」「マジか」

 繁華街らしきところに出る。サラリーマンや居酒屋のキャッチで道はごった返しており、肩に手を添えたまま、立川は自然に渋木を誘導する。小さい子どもみたいで恥ずかしかったけれど、はぐれたらまずい気がして、黙って従っていた。

「飯食った? お礼に何かごちそうしたいんだけど。どこがいい?」

 酒はナシね、俺飲めないから。立川は冗談まじりに告げる。

 緊張で忘れていた空腹が、その言葉でよみがえってくる。

「どこでもいッス」

 相手が年上だとわかった途端、自然と敬語がにじみ出るのは、長年の習慣か。それとも、さっきあの男たちをのしていたのを見たからか。

「じゃあファミレスでいっか」と、立川は迷いない足取りで歩き出した。 

 ファミレス。外から眺めることこそあったけれど、入ったことはなかった。「いいの?」と返事をしながら、渋木は心躍っていた。立川は「むしろそんなんでいいわけ?」と破顔して、人の合間をすいすいと縫うように、スムーズに動いた。

 赤い看板のファミレスに入る。暖色の明かりに満たされた店内は、料理の甘く香ばしい匂いがしていた。

 ジュースの出る機械。きれいなテーブルと椅子。じゅうじゅうと音を立てるハンバーグの皿。

 思わず入口でしげしげと見渡してしまった。

 ――すごい。別世界みたいだ。

 呆然としていた渋木のことを、立川は何とも言えない顔で見ていた。その立川を見るなり、ぎょっとした顔が一つあった。若いアルバイトの店員だった。

「何名様ですか?」

 目を逸らすように尋ねる店員。見るからに怪我だらけの立川は、「二人」と平然と返事をする。

「喫煙席をご利用になりますか?」

「いや、禁煙で」

 スムーズなやり取りを見上げながら、渋木は立川の陰で小さくなっていた。

 周りの人は、仕事帰りらしいスーツの人や、大学生の集団、家族連れといった人たちばかり。自分のような人間は、なんだかここにいてはいけない気がした。

「なにびびってんの」

「びびってないッスよ」

「別にさあ、普通にしてりゃいいんだよ、普通に」

 な? そう言って肩をぽんと叩かれた。

 やがて二人はテーブル席に通された。ふかふかした椅子の感覚と、つやつやしたテーブル、選びきれないほどのメニュー。料理の写真はどれもおいしそうだったけれど、表示された値段は自分の時給より高くて、頭がくらくらした。

「好きなの頼んでいいよ」

「え、でも、お金、とか」

「そんなの子どもが気にすんなって。礼なんだしさ」

 立川はそう言ったけれど、こんな場所でどうしていいのか、渋木はまるでわからなかった。いつまでも料理を決められないでいると、立川は微笑して、見かねたように口火を切った。

「ここのボタン、押してみ」

 え、という間もなく「いいから」と促され、言われるままにボタンを押す。ピンポーン、と予想以上に大きな音が鳴り、渋木は思わず飛びのいた。立川はそんな渋木を可笑しそうに見ていた。

 すぐに制服の店員がやって来る。立川さんはハンバーグセットとドリンクバー、それから食後のアイスを二つずつ頼んだ。

 それから少しだけ、二人で話をした。立川はバンドをやっていて、そこで歌を歌っているらしい。しばらく話を聞いていくと、そのバンドのしているライブが「金曜日のミサ」だとわかった。渋木はそのことと、ドリンク代が払えず中で見たことがないことを、同時に話した。興奮で舌が回らない自分の話を、立川はニコニコと微笑んだまま聞いていた。

「じゃあさ、ちょうど人足りないんだけど、なんかやってみない?」

 立川はごく軽い口調で言う。渋木はあわてて首を横に振った。

「オレ、楽器なんか触ったことないし」

「わかってるってそんなの。何か好きなの教えてやるよ。だいたい一通りできるから、俺」

「マジっすか」

「マジマジ。金のことは気にしなくていいし、楽器やらなくたってどうせバイト漬けなんだろ? ちょっとぐらい考えたって悪くないんじゃない?」

 しばらくして、ハンバーグが届いた。鉄板がじゅうじゅうと音を立てて、白い湯気をあげていた。はじける肉の油の匂い。渋木の目が、一斉に光を浴びたみたいに輝き始めた。

「先に食ってていいよ。俺、飲み物取って来る。何がいい?」

 料理が目の前に並び終わったとき、立川はそう言って席を立とうとした。

「あ、オレ自分でやる」

 渋木は立ち上がろうとしたが、「いいよ、お前ドリンクバーの使い方わかんないだろ?」と御されてしまう。そう言われると何も言えない。

 渋木が押し黙ると、立川は「しまった」というような顔をして、「大丈夫、座ってろって」と慌てて席を立った。持っていき忘れたのか、ポケットから零れ落ちたのか、長財布をひとつソファの上に残して。

 渋木は温かい料理と、おそらくお金の入っている財布を前に、完全に固まっていた。

 今すぐがっつきたいほど空腹だった。

 けど、目の前に置かれている財布には、いったいどのくらい金が入っているんだろう。

 この場所に躊躇なく入れるくらいだから、少なくとも空ってことはない。羽振りはよさそうだし、少しくらいなら……

 いや、でも、そんなことをしたら、どうなるかわからない。せっかく飯にありつけそうなのに叩き出されるかもしれない。もしかしたら、さっきの刺青の男たちみたいになるかもしれない。

 けど、金は、喉から手が出るほどほしい。

 少し手を伸ばしかけて、また考える。立川さんはオレを助けてくれたじゃないか。おまけに美味しいご飯だってごちそうしてくれる。金なんて盗ったら、それこそ、裏切りだ。サイテーだ。

 だけど、オレは――

「まだ食ってなかったの?」

 びくっ、として、咄嗟に手を引っ込めた。

 立川は手にグラスを二つ持って、怪訝そうに渋木を見ていた。

「ご、ごめんなさい」

「いや、別に怒ってないけど。早く食わないと、冷めるよ。――オレンジジュースでよかった?」

 何もかも見透かしたような彼の目が、怖かった。

 盗らなくてよかった、と思った。タイミング的に絶対見つかってたな。そう思うと背中が汗でじっとりと濡れた。

 誤魔化すようにフォークに手を伸ばす。ナイフとフォークで器用にハンバーグを切る立川の傍ら、使い方もわからず、とりあえずフォークをさしてかぶりつく。

「……!」

 口に物をいっぱいに入れたまま、感動で目にみるみる涙が溜まった。

「うまいだろ」

 立川が勝ち誇ったように言った。渋木は口いっぱいに肉を頬張ったまま、何度も頭を縦に振った。

 そりゃよかった。そう言って、彼がグラスに口をつける。炭酸だがビールでもコーラでもなさそうだ。なんだろう、と思っていると、彼は「……ってぇ!」と小さく飛び上がった。

「大丈夫ッスか?」

「ん、口ん中ちょーしみる」

 あはは、と誤魔化すように立川が笑う。渋木もオレンジジュースに口をつけると、棚を思い切りぶつけたあたりが、ぴりっと沁みて痛くて、彼につられたように笑った。

 美味しいご飯とか暖かくてきれいな店内とかももちろん嬉しかったけれど、誰かと痛みを共有できたことが、どうしようもなく、嬉しかった。

 渋木がドラムを始めたのは、それから少し後。立川は上達の速さに驚いていたが、渋木にしてみれば、彼の教え方の賜物だった。教師と違って、できないことを責めたり、「どうしてこんなことができないのか」と馬鹿にする感じもない。わからないことは何度聞いても、同じように何度も教えてくれたし、一曲通しで叩けるようになったときは、大袈裟なくらい頭を撫でて褒めてくれた。

 オレって思ったより音楽好きだったんだな。そう思い始めてから、ドラムがますます好きになった。バイトの隙間で空き時間を見つけては、練習に走った。バイトのせいで練習不足なこともままあったが、そのうちスタジオに入り、ライブにも出させてもらえるようになった。

「立川こいつどこから引っ張ってきたの?」

 そう言われるたびに立川が誇らしげなのが、渋木も嬉しかった。

 ドラムとボーカルは縦の線でどうしようもなくつながっている。ドラムがブレればボーカルも振り回されるし、ドラムとボーカルの息遣いが合えば、おのずと曲全体の響きが良くなる。立川はそう言って、事あるごとに渋木を「お前は天才だ」と言って褒めた。お世辞だとわかっていても、嬉しくないわけがなかった。

 いつしかドラムは自分にとって不可分なものになっていた。それがなかった人生など想像できないほどに。だから渋木にとって、立川は恩人だ。掃き溜めから自分を見つけ出してくれた。


 渋木が話し終わった折。瑠璃は「なんというか、すごいね」と、全く中身のない台詞を言うことしかできなかった。

 渋木は照れくさそうに頬を掻く。時計を見、それから目をまん丸くした。「そろそろオレ行かなきゃ、バイト忘れてた」と、申し訳なさそうに手を合わせる。

「えっまだやるの」

 さっきまでコンビニにいたのに。驚く瑠璃に、「うん。引っ越しの方!」と、間髪を入れずに渋木は走り出す。

 頑張ってね、という言葉が届いたかもわからぬうちに、渋木は駆け足で去って行ってしまった。少し寂しく思っていたら、しばらくして振り返った彼が、こちらに向かって大きく手を振った。

 瑠璃はくすりと笑い、小さく手を振り返した。渋木の背中はどんどん遠くなる。

 あの歳で自分の足で立って生きている。決して望ましいとは思えないけれど、瑠璃にはそれがどこか羨ましくもある。

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