人間は自由の刑に処せられている ――サルトル (7)


 それから渋木には、二つ、事件が訪れた。

 一つ目は小さな事件だった。ある日の夜、遅めの夕飯の準備をしている時。焼きそば、チャーハン、カレーのローテーションのうち、その日のメニューは焼きそばだった。ひき肉を炒め、麺をぞんざいにほぐしていると、「わーっ!」と李音が居間で大きな声をあげた。

「蓮ちゃん、蓮ちゃん!」

 興奮気味に渋木を呼ぶ李音。がやがやとテレビの鳴る音に混じって、その声が渋木をせっついた。

「見て!」と促されるままテレビに目を向ける。今日は何の日、と銘打たれたコーナーのようだ。右上には『女優、立川幸さんの命日』とのテロップ。

 ん? と思う。

 渋木が衝撃を受けたのは、その時中央に表示されていたスナップ写真だった。癖の強い、真っ黒な髪のショートカット。切れ長だけどはっきりした目。薄い唇に浮かんだ、少しだけ薄暗い、ニヒルな微笑み。

「立川幸さんは、映画『福音』の主演をはじめ、数々の邦画やドラマに出演、実力派女優として知られていました。活躍の最中、患っていた卵巣がんが再発し、今日からちょうど二十年前、闘病の末息を引き取りました」

 女性アナウンサーの静かな声も、頭にあまり入ってこない。

「立川さんとそっくりじゃない?」

 目をまん丸くした李音に、渋木も頷いた。似ている、どころではない。鼻筋のすっと通ったところも、頬にかかった毛先のくるんと丸まっているのも、どこか涼しげで余裕のある眼差しも、ひとつひとつが本当にそっくりだ。

「立川幸さんというのは、一体どのような女優さんだったんでしょうか?」

 アナウンサーが、コメンテーターに話を振る。

「大天才ですよ。今の若い人はあまりご存じないでしょうが、とにかく存在感がある人で。だいぶ不安定な人でもあったんですが、彼女がもしまだ生きていたら、邦画界はまた違っていたんじゃないかと思うくらい――」

 渋木は呆気に取られていた。「立川さんは、お母さん似なのかなあ」と、李音が小さく呟いた。

 父親が死に、母親も早くに失っていた立川は、今までずっと一人で生きてきたのか。

「ではここで、波乱の女優と呼ばれた立川幸さんの生涯を振り返ってみましょう」

 プリップが出される。彼女の一度目の騒動は、父親からの性的虐待を明け透けに告白したことによる。当時は圧倒的有利だった「清純」というイメージを自ら破壊。このやり方は、過激だという非難を浴びるだけでなく、元熱狂的なファンに重傷を負わされ入院にまで至っている。波乱、というのは誇張ではないようだ。

 二十七歳で長男を出産。二十九歳の時、大物歌手Hさんと入籍。それから先の説明は、あまり頭に入らなかった。

「あっ、蓮ちゃん、フライパン大丈夫?」という李音の声で、我に返った。「やっべ火止めてねえ!」

 どたどたとキッチンに向かったが、テフロンの剥げかけたフライパンに、麺は無慈悲なまでに焦げ付いていた


「そういえばさ」

 どうにか粉末ソースを和え、焼きそばを食べられる形にまでこぎつけた後。食卓に腰を落ち着けながら、渋木は話を切り出す。流しではフライパンが水に漬けられていた。

「オレ、立川さんの前の仕事聞いたことがあんのね。『金曜日のミサ』をやる前、何してたんですかって」

 大皿から、焦げた部分を自分の皿に多めに取り分ける。

「うん」

 もしゃもしゃと焼きそばを食べながら、李音がこちらを仰ぎ見た。つけっぱなしのテレビは、とっくに例のコーナーを終えていた。今は高級ズワイガニの特集をしているようだ。

「大学辞めてからはほとんどぶらぶらしてたって言ってたんだけどね。ちょっとだけ、役者やってたこともあるって」

「ええっすご」

「いや、なんか、劇団? とかそんな感じのとこっぽいけど」

「十分すごいでしょ」

 まあね、と言いながら、麺の塊を口に押し込んだ。苦かったが、自分が招いた失敗だ。我慢して呑み込んだ。

 

 二つ目の事件の遭遇は、バイト帰りに起こった。

『倫理観』とは別のバンドで、「金曜日のミサ」に出る予定の日だった。八時から音取りとリハーサル、にもかかわらず、バイトが押して渋木は遅刻していた。自分がつまらないミスを重ねたうえ、厄介なクレーマーに手をこまねいていたからだ。

 しっかりしてよ何年目だと思ってんの、と店長にはやっぱり怒られた。時間を気にしてそわそわしていたことで「人の話聞いてる?」と余計に怒られて、気づけば九時が近づこうとしていた。

 渋木は泣きそうで、ふがいなかった。ごめんなさい立川さん、あんなに練習したのに、と心の中で何度も懺悔しながら、彼は走った。絶対に間に合うように着かなければ、と必死だった。

 教会の方に向かう最中で、「蓮ちゃん!」という声に呼び止められた。

 血相を変えた李音がこちらに駆け寄ってくる。急に足を止めたせいで、拍動だけが先走るように早い。

「今あっち行っちゃだめだ、蓮ちゃん」

 息も絶え絶えに李音は言う。顔が真っ青だった。戸惑っている渋木の腕を、「とにかくだめ」と抑える。

「夕方ね、梓音が家に来た。今日はミサ、行ったらだめだって。蓮ちゃんにも伝えろって」

 うん、と渋木は頷く。ぬるい風に吹かれて、街路樹がざわざわと葉を鳴らした。

「不安に思って、中には入らず見てたんだ、ぼく」

 音監が来てる、と彼は言った。

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