人間は自由の刑に処せられている ――サルトル (6)

 むしゃくしゃした日も、嬉しいことがあった日も、今はドラムを叩きたい、と思う。渋木にとってのドラムはエンジンだ。自分に前に進む力を与えてくれる。

 仕事はあまり得意じゃないから、バイトではいつも肩身が狭い。今日もお客さんに訊かれたことにうまく答えられなくて、店長からねちねちと嫌味を言われた。学校に行っていた時も、授業という眠くて暇な時間をただただやり過ごすばかりで、長いこと、自分は前にも後ろにも進んでいなかった。

 今ではそれが、なんとなく変わった気がする。

「柳沢さーん、スタジオ借りまっす」

 渋木はドアを開けるなり、雑然とした店内に向かって叫んだ。スタジオを自由に使えるよう立川が交渉してくれたおかげで、時間が空いているときならいつでも、スタジオに行ってドラムを叩くことができた。

「おう、坊主。今ならどこでも使っていいぞ」

「あざっす!」

 渋木は駆け足で一番スタジオに向かう。肩に引っ掛けたスティックケースがぴょんぴょんと跳ねる。

 ドラムのいい所はその身軽さにある、と渋木は思っている。ギターやベースのように、必ずしも自前で楽器を揃えなくてもいい。音作りとか細かいことも、最初のうちはあまり考えなくていい――と、立川に言われたことを鵜呑みにしている。あれこれ考えるのは面倒だ。

 スティックを一揃い持つだけで練習に行けるし、アンプに繋がなくても叩けば音が出る。渋木はドラムのそういうシンプルさが好きだ。

 椅子とペダルの位置を調節し、どん、とバスドラを踏み込んだ。身体の芯に響くような低音。心臓の音に似ているからか、踏み込むたびに一緒に心臓がどくん、と跳ねる気がする。

 スネア、ハイハット、タム。ちょっと神経質なくらいに調節をして、ウォーミングアップにひと回し、叩いた。手に返ってくる反動が気持ちいい。練習でみんなと入るスタジオも楽しいけれど、ドラムの音だけが聞こえるスタジオは、また違った特別な感じがある。

 変な癖をつけないように。立川から口酸っぱく言われている言葉は、最初のうちは気を付けようとするのだけれど、あちこち叩いているうちに、やっぱり頭から抜けてしまう。何も考えずに、ただ走る。神経が足と腕に集中するような感覚。ただまっさらで空っぽなはずの時間に、――今日は少しだけ、引っ掛かりがあった。

 ――あれ?

 手が止まる。自分が音を出さなくなった途端、ぐわん、という残響だけが尾を引いて、それきり部屋は無音になる。空調の効きが悪く、既に少しだけ汗ばんできていた。

 どん、どん。手持無沙汰になると、右足が無意識にバスドラを踏む。

 あの曲を練習してみようかな、と思った。スマホを取り出して、片方だけイヤホンを付ける。『アンガージュマン』の最初の連打。四小節分のドラムロールは、試しにスティックをもって叩いてみると、思っていたよりもずっと難しかった。

 納得がいかなくて、伸びをする。どん、どん、とバスドラの音だけが響く。

「よお、渋木」

「うわっ」

 立川がドアからひょっこり顔を出した。「なんすか」と言ったら、「たまたま来たら渋木がスタジオ入ってるっていうから」と、真意のわからない微笑。

「なんか今日調子悪そうじゃん」

「そう聞こえます?」

「うん、聞こえる」

 この人には何でもお見通しらしい。渋木は少しだけ肩をすくめる。

 立川はいつもそうだった。別のバンドでも、ちょっとした不調や好調を――自分自身のものすら――演奏の機微から見抜いてしまう。メンバーの不調を指摘したことが原因で揉めたこともあったし、本人が自分自身に苛立っていることもしばしばあった。彼は良くも悪くも敏感で、そして想像以上に繊細だ。

「連打がなんか途切れちゃうんスよねえ」

 スティックを手の上で弄びながら、渋木は言った。

「練習あるのみ、だな。基本は一緒だよ。手首を柔らかく使う、音の粒を揃える」

 うーん、と渋木は唸る。理論はわかるが、それができたら苦労しないのだ。

「――なんか悩んでんの?」

 ふと、立川の顔が真剣なものに変わっているのに気がつく。

「ほんっと立川さんきもちわるいーなんでわかるんスか」

 空気の重さに耐えられなくて、わざと上がり調子で言った。きもちわるいって何だよ、と立川は破顔する。

「まあ、お前は演奏と心の状態が直結するタイプだからね」

 立川は重ねられた丸椅子に腰かける。空調の低いうねり。エアコンはようやくやる気を出したようで、風が髪に当たる感覚がした。

「たいしたことじゃないッスよ」

 だん、とまた一つバスドラを踏む。「オレ、このままドラムやってていいのかなって」

 この迷いを口にしたのは、初めてのことだった。

 肯定も否定もせず、立川はじっとこちらを見ている。促すように。

「立川さんに誘われたのは嬉しかったし、ドラムはすごく楽しいけど。本当は、こういうことをしている間にも、李音のために働いてやったほうがいいんじゃないかな、とか、思って」

 ドラムは楽しい。それは紛れもないのだけれど、梓音が李音のためにあれほど身を粉にし、李音すら自分のためにバイトをしながら勉強している中で、自分だけが楽しいことをしていていいのかという疑念があるのも事実だ。

 高校の授業料だけでなく、受験にも進学にも、お金はいくらあっても足りないくらいだ。勉強ができる李音は、自分と違って可能性に満ちている。彼に投資できる時間を、自分のために使っていいものか。違和感のような、罪悪感のような、うまく言葉にできない感覚を渋木は抱えていた。

「はあーーーなるほどね」

 長い溜息と一緒に、立川は言う。「あのな、渋木」と言う声は、いつもよりも少しだけ落ち着いていて、それが少し怖かった。

「誰かのために生きるっていうのは、その人に自分の人生の責任を負わせるってことだよ」

「ん……?」

 立川がまた、難しいことを言いだそうとしている気配がした。

「相手が期待外れな行動をした時に、相手を責めることになる。“あんなに何々してあげたのに”って。それは暴力的じゃない?」

 どうやらたしなめられているようだ。言っていることはわからなくもないが、いまいち腑に落ちない。そんな渋木を見て、「例えば」と立川は話を切り出した。

 例えば、このまま音楽をやめて、自分の使える時間を振り絞って、李音のために一生懸命バイトをしたとする。

 ではその後、李音が大学に行かないと言い出したら? もしくは、入った後に、やっぱり大学をやめたいと言い出したら? 「なんのために自分は頑張ったのか」と思わないか。「自分の努力が無駄になった」「裏切られた」と思わないか。「自分勝手だ」と、決して相手を責めないと、自信をもって言えるか。

 うーん、と渋木は唸った。自分の持ちうる限りの想像力で、精いっぱい考えてみる。考えることはそれほど得意じゃないから、頭が痛くなりそうだった。

「そーゆうことはあんま言いたくないけど、でも、確かに思っちゃうかも。ちょっとは」

「でしょ? 俺だって思うよ。――でもそういうのって結局、相手を支配しようとしてるってことだ。絶対に関係は不健康になるし、自分も相手もしんどくなる」

 厳しい言い方だった。それだけに、ぐさり、と何かが刺さった。

 事実、李音は梓音に対しても渋木に対しても、常に「申し訳ない」と言っていた。「申し訳ない」という気持ちを抱かせること自体が、もしかしたらあまり良くないのかもしれない。その居心地の悪さは、渋木にもなんとなくわかった。

「自己犠牲的な献身は立派だと思うよ。何より物語として美しい。だけどバランスを見失えば悲惨なことになる。

 誰かのために、自分の好きな何かまで手放す必要はないよ。渋木の人生は渋木のものだし、李音の人生は李音のものだから」

「そんなもんッスかねえ」

 納得はできたけれど、それではあまりにも他人行儀だ。立川の言っていることは、なんだか冷たいような気がした。

「そんなもんだって」と、立川の返事は素っ気ない。「その代わり、李音が“助けてほしい”って言ったときに、ちゃんと助けてやればいい」

 渋木はとりあえず神妙な顔で頷いた。言っていることの全てがわかったとは言えないが。

 渋木が葛藤しているのは、立川に完全に納得することが、つまりは梓音を否定することにつながるからでもある。「……立川さんってやっぱ、すごいッスね」と、何かを誤魔化すみたいに言った。

「そんなことねえよ。俺だってつまんねーことでウジウジ悩んでばっかだ、し……?」

 立川の言葉の途中で、スタジオのドアが開いた。「なんだよ、そんなのオレに相談しろよ水くせえなあ」と、別の声が割り込む。柳沢だ。

「げ」立川は不快感を隠しもしない。「なんで来たんだよ」

「巡回警備ってやつ? 妙に静かだったからよ。防音なのをいいことに、たまにいらんことする奴がいるんだ。――お前らお喋りしにここに来てんの?」

「人生相談聞いてたんだよ。ったく、ヤな言い方」

 立川が負けじと茶化し返す。柳沢は軽く肩をそびやかし、片手に持ったパイプに口をつけ、ゆっくりと甘い息を吐く。

「自分とタカトは何が違うんだとか、お前の悩みなんてどうせそういうのだろ」

「……知ったようなこと言っちゃって」

 ふん、と柳沢は鼻で笑う。ぼさぼさと長い髪の下から、鋭い目を覗かせながら。

「言っとくけど、お前とタカトは全然違うぜ」

 その言葉に、立川が少し気を尖らせたのがわかった。それをわかっていながら、柳沢は煽るような態度を崩さない。

 渋木は持っていたスティックを、さらに強く握り込む。きりきりとした緊張感を肌で感じた。

「この間のお前らの演奏聞いてたよ。『倫理観』だっけ? あのバンド」

 正直ちぐはぐだったな、と彼は言う。

「ギターはリフが浮いてたし、ドラムも少し走り気味だった。ベースはそつなく弾けてはいたが、ただ弾いてるだけでノれてない。歌も含めて、全部の音がぶつかってる」

 渋木は耳が痛かった。思い当たる節がありすぎる。それは立川も同じのようで、表情は悔しさを押し殺せていなかった。

「だけど呼吸は合わせられてた。陽介の舵取りに、各々が上手く乗っかれてたんだな。それがお前らのいい所で、タカトにはできなかったことだ」

 タカトにはできなかったこと。その言葉に、立川の眼光がわずかに鋭くなる。「どういうこと?」

「神だ何だと言われてるが、あいつだって万能じゃなかったってことだよ。タカトはもともとソロ畑の人間で、バンドマンじゃない。単にバックミュージシャンをつけて歌うことと、バンドの中で歌うことは違う」

 つまり、柳沢が言いたいのはこうだ。

 タカトは一流の“歌手”にはなれたが、“こちら側”の人間にはなれなかった。

「……だから『リトルシスター』は瓦解した?」

「そうだ」

 柳沢は率直に言う。なんの抑揚もなく。

 彼はパイプを持った手を口元に近づける。灰色の髪に覆われているせいで、その顔の表情は見えない。

「“『リトルシスター』を俺に寄越せ“――お前はそう言ったな、陽介」

「……言ったね」

 激しい睨み合い。空気は凍りきっているのに、互いの眼差しは相手を焼き殺さんとするようだった。

 ――こっわ。

 いや怖えよ、なんだよこれ。なんでオレこんなのに巻き込まれてんの。

 心中で嘆くのと、直感めいたものが下りてくるのはほぼ同時だった。換言すれば、彼は悟った。

 柳沢。元ベーシスト。立川が言っていた、彼が、ということの意味と、彼が舞台の上から降りた理由。

 先に沈黙を破ったのは柳沢の方だった。

「あんなもんいくらだってくれてやるよ」

 そう言って、柳沢は例の皮肉っぽい笑みを浮かべる。

「オレは期待してんだぜ? お前らならうまくやれるよ。たぶん、な」

「またそうやって適当言ってさ」

「褒めてやってんだからありがたく受け取れよ」

 あと十五分だぞ、と言って、柳沢はその場を後にする。あとには煙くさくて甘いにおいだけが残った。

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