善人なをもて往生とぐ、況んや悪人をや ――親鸞 (9)
それから間もなく教会に着いた。さすがに立川の顔は知れているらしく、「あっ」という声を上げかけた受付嬢に、彼は「しーっ」と人差し指を立てた。「ナイショ、ね」
受付嬢は火に当てられたように赤面し、頷いた。女たらしの恐ろしさを改めて痛感する。
楽器の音と歌声が遠くから聞こえる。ライブはすでに始まっているようだ。彼に倣ってノンアルコールの飲み物を買い、場内に入る。屋内に入ってもなお、彼はニット帽を脱ごうとしなかった。
人の入りはそれなりに多かったが、先日のライブに比べるとやはり見劣りする。立川という男の集客力に改めて驚きつつ、それでも熱狂する人の多さに圧倒される。
ステージ上には渋木の姿が見えた。注意して見てみると、彼のテクニックは想像よりもずっと高かった。立川が見初めただけのことはある。
しばらくすると、今度はガールズバンドがステージに立った。日野の肩を叩き、立川がステージ上の一人を指さす。その先には、青色の髪のベーシスト。女性というよりは、まだ少女という色が残る。
「あれがルリだよ」
間もなくして演奏が始まる。サブカルチックな曲にありがちな複雑なベースラインを、するすると滑らかに紡いでいく。立川の話によれば、彼女は現役の音大生らしい。
立川がジンジャーエールを持ち、日野はコーラを飲んで、不健康な彩りに満ちたライブハウスに立っている。まるで学生時代の回想そのままだった。
立川の傘下にはどうやら優秀な後輩が多いようだ。聞き入ってしまっているうちに、いつの間にか最後の曲が終わっていた。
わあっと拍手喝采が辺りを包み込む。ステージ上のメンバーは皆満足そうに顔を見合わせていた。終わりの余韻に浸りながら、今回もあっという間だったな、と思う。
やたら高い口笛が響いたのはその時だった。
観客の視線が一気にこちらを向く。立川は満面の笑みをその顔に称え、「いやあ、最高だった」と大きく声を張り上げる。会場は静まり返り、しばらくして辺りがざわつき始めた。
立川はサングラスを外した。あちこちで黄色い悲鳴が上がり、事態を理解した観客たちは、先程と並ぶほどの興奮と喧騒を取り戻し始めた。
――なんだこれ。
「だが本番はこれからだぜ。とっておきのモノを見せてやるよ」
立川がこちらに目配せをする。
「……来いよ、ヒノちゃん」
「は? え、ちょっと!」
ぐいぐいと腕を引っ張られ、されるがままに観客を横切っていく。彼の力は強く、とても振りほどけそうになかった。観客の作る花道を通りながら、やがて立川はステージの階段を上り、日野をその上に導いた。
壇上に全ての視線が降り注いでいるのがわかった。硬直して身動きが取れなかった。
「もぉー立川さんってば」
見せ場取らないでくださいよぉー、と言って、ボーカルの女が脇にはけていく。一人が黒いレスポールを彼に手渡し、同じように去っていく。
「シブキ!」
「はいはい、また無茶ぶりっすかあ?」
立川の呼ぶのに答え、渋木が壇上に姿を現す。ベーシストはステージに未だ残ったままで、日野、立川、渋木、瑠璃の四人がステージに取り残される。
群衆は期待の眼差しに満ちていた。
日野は完全に置いていかれていた。状況がまるで理解できない。混乱のさなかにいる日野に、「ヒノちゃん」と呼びかける声。そちらを振り向くと、立川が、ギターをこちらに差し出して立っていた。
「お前なら指が覚えてんだろ」
立川はにやりと笑った。口元に悪戯っぽく覗いた八重歯。客席から歓声が聞こえる。
震える指でギターを受け取る。ストラップをかけると、重みがずしりとのしかかってきた。弦とネックの間に挟まっていたピックを取り、二、三度、弦を弾く。
アンプから聞こえる、厚みのある音。そこで、自分がステージに立っていた頃の記憶が、滝のように一気に押し寄せてきた。
息を整える。なるほど、そういうことかよ。強引なやり方でステージに呼び戻されて、彼を諫めたいのは山々なのに、無意識に頬が緩んでいくのがわかった。
前方に視線を戻すと、驚くほど遠くまで見渡せる。
観客は皆一様に俺を見ていた。謎の乱入者。予期しなかったこの事態に、誰もが期待を隠せない。これ以上どう喜ばせてくれるんだ? そんなアツい視線。
最高に気持ちいい。
『んじゃ、これが本当のオオトリってことで』
マイクを通した彼の声が、懐かしくも心地いい。
『行きます、正真正銘、今日の最後の曲』
嬌声の塊の中、ドラムの四カウントで曲が始まった。
二弦の十三フレットに中指を置く。
何度も反芻したあのフレーズは、脳で思い返すよりも先に、彼の指に沁みついてしまっていた。
マイクを握った立川が小さく息を吸う。
日野は記憶に任せて弦を弾く。何せ久しぶりに通しで弾くのだ、緊張感はひとしおだった。ドラムもベースもこちらに合わせてくれているみたいで、無茶苦茶なのは承知の上だが、それが何とも言えず楽しい。
最難関のピッキングハーモニクス。間一髪で成功した途端、日野をほんのわずか押さえつけていた緊張感さえ、抜けた。
開放感。あるのはただそれだけだった。重たいコートを脱ぎ去ったような、感じたことのない身軽さ。足元すらおぼつかなくなる暴力的な快楽。音楽があればどこへだって飛んでいける。爽やかでほんの少し背徳的で、それがなおさら気持ちいい。
途中のソロで転びかけたが、奇跡的に持ち直す。自分でもこんなに指が動いたのかと驚いた。気づけば首にはいくつも汗の筋が伝っていた。
疾走感に駆られるがまま、最後の一音を弾き終わり、日野はふうと大きく息をついた。痛いほどの静寂。瞬きを忘れていたらしく、視界が白くけぶっている。汗の染みる目もとを拭い、腕を下ろした。
永遠かと思えるほどに、無音は重く、長く感じた。
忘れかけていた緊張を思い出した途端、ぱらぱらと鳴り出した拍手は、次々と周囲を巻き込んで、次第に嵐の日の雨音のように強く、激しくなっていった。
いつまでもこの中に浸っていたかった。
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