善人なをもて往生とぐ、況んや悪人をや ――親鸞 (8)
立川から再び連絡があったのは、その週の半ば頃だった。今度の指定もやはり金曜で、彼は「今度は一緒に見に行こう。後輩が出るんだけど」と日野を誘った。きっぱりと断るつもりだったのに、なんだかんだで言いくるめられ、結局出向くことになってしまった。
約束の時間は思っているよりも早い。いつもはだらだらと続けてしまう残業を早めに切り上げ、少し肩身の狭さを感じながら退社した。
指定された駅の改札前に行くと、立川は先について日野を待っていた。背は自分より低いはずなのに、ジーンズから伸びる脚がすらりと長い。ニット帽と小ぶりなサングラスはどこか冗談じみていたが、立川には不思議と様になっていた。話を聞くに、人目を憚るための変装らしい。
「駅前って人通り多いからね」
どこまでが本気なのかわからない口調。日野はそれ以上首を突っ込まず、立川の先導に従って歩いた。場所はこの間と同じところらしいが、「ヒノちゃんとゆっくり話したかったんだよね」と言う彼の態度は、やっぱり真意が読めない。
「シブキはこの間会ったでしょ。他にはルリちゃんっていう女の子がいるんだけど、その子も勧誘してんの。せっかくだから見てってくれよ。面白いこともあるから」
地下街を長いこと歩いている途中、立川は弾むように言った。他の元「倫理観」メンバーは勧誘したのかと訊くと、は「一応ね」と言って少しトーンを落とした。
「とはいっても、シンはとっくに音信不通だったし、まっちゃんはいたずら電話だと思ってまともに取り合ってくれなかった。まっちゃん、結婚して子持ちだってね。知らなかった」
松本がねえ。高校時代から十年という歳月を実感しつつ、ふと疑問が頭をよぎる。
「シンはどうしたんだよ」
「ああ……」
彼は答えにくそうに呟いた。サングラスのせいで表情がよく見えない。
「死んでた」
「え?」
「殺されてた。もともと俺に誘われてこの世界入ったんだけど、知らないうちにヤバい遊びとクスリに手出してて、ヤのつく怖い人に目ぇつけられて、東京湾にドボン」
立川はわざとらしく口元を上げる。全然笑えない。
シンは「倫理観」の中でドラムをやっていた。ひょうきんで、いかにも思春期という感じのまっすぐな高校生で、色恋や下ネタの話になると極端に饒舌になるような奴だった。立川にすごく懐いていて、彼に合わせて無理して悪ぶっている感じが、すごく好感が持てた。
それが、今では。
「純粋な奴って染まっちゃうと早いんだよなあ……」
立川はどこか悔しそうに言った。
こんな環境の中で、酒や煙草にすら手を出さない立川の芯の強さは、もしかしたら桁違いなのかもしれない。
「俺さ、クスリって嫌いなんだ。目の前でどんどんいろんな人が堕落してくの、何人も見てきたから。嫌んなるよ、本当」
地下街の低い天井に、立川の声が反響する。瞳を隠しているせいで、不気味なほど無表情に見えた。
高校生の時、お客さんの所にクスリを届けるおつかいをしていたと、立川は話し始める。
「小さい包みだとかアンプルだとか渡されてさ。指定されたところまで届けに行くわけ。あ、売人とかじゃないよ? 俺はそれよりもはるかに下っ端の役職。インディーズにはね、昔から、そういう奴らが多かった。特に、俺らより上の年代では」
日野は返事をすることもできずに、黙って話を聞いていた。
人通りは多いが、道は不思議と閑散としている。下水の流れる微かな音がどこからか聞こえてきていた。
「俺、一回聞いたことあるんだ。『こんなモンの何がいいわけ?』って。そうしたら『やってみるか?』って手首掴まれてさ。目の焦点はあってないし、態度も普通じゃないしで超怖かったな。客のモノに手ぇ出したらマジしばかれるんで! って言い訳しながら必死で逃げた。その日からおつかいの仕事はやめた」
立川は皮肉っぽく笑った。
ライブハウスが犯罪の温床だとか、無法地帯だとかいうことは、昔からよく言われていることだ。「自由に音楽をやっているだけで、秩序のない場所じゃなかったはずなんだけどな、本来は」と、立川の言いぶりは平淡なようで、やっぱり熱が籠っていた。
ただ、薬物中毒者と違法ライブの参加者は、世間的に見れば同じ土俵なのもまた事実だ。どちらも犯罪行為なのには変わりなく、依存性が大きく問題となる。だが、効能だけ見れば音楽の方が限りなく安全だろう。音楽は薬物のように体までボロボロにしたりはしない。
脱泡音楽の取り締まりのもっともらしい理由の一つは、薬物や犯罪への入り口となっていることだ。悪質なケースになると、たとえ本人が望まなくとも、ドリンクにLSDが含まれていて依存症を生んだケースもある。しかも、本人は薬の作用によって途方もない多幸感を得るが、ライブはそれを音楽のせいだと思い込ませる。
「俺はね、純粋に音楽に注力できる組織が作りたいんだ。ハマる方もハマる方でさ、クスリなんかより音楽の方がよっぽど健全だろ? 本当にいい音楽を作るのに、麻薬なんて必要ないんだ、絶対」
まっすぐな声音。立川の言うことはもっともだが、日野はひとつ腑に落ちなかった。
何も、音楽監理局に逆らわなくたって、曲は作れるし歌だって歌えるのだ。真っ当な方法で音楽活動をしている人だって、そう少ないわけではない。
「どうしてそうまでして、反監理派にこだわる?」
日野の言葉に、立川の顔から表情の一切が消えた。
「どうして、って?」
「だって……お前の実力なら、日の当たる場所でだって、十分通用するはずだろ」
口調は自然と言い訳がましくなる。
立川はそれを聞き届けてから、ふわりとやわらかい微笑を浮かべた。
「世の中にはさ、負け犬が吠えれる場所が必要なんだよ」
何よりも真剣だった彼の顔に、どう返していいのかわからなかった。
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