私は自分の破滅を愛した。 ――アウグスティヌス (6)

 どのくらい走っただろう。気づくと見たこともない景色に囲まれていた。土っぽいにおい。雨は降っていないのに、室外機の排水で道がぬかるんでいる。

 湿ったにおいがしていた。一雨きそうなにおいだ。

 助かった。そう思った瞬間、どっと汗が噴き出してきた。身体は熱いのに、すごく寒い。震えが止まらない。瑠璃は泣きそうになりながら息をした。生きている。生きている。よかった。なんともない。私はなんともない。

「もう大丈夫。ここまできたら追って来れないはずだよ」

 少年は人懐っこい笑顔を浮かべた。中学生か、高校生くらいだろうか。少年だと思っていたけれど、もしかしたら少女かもしれない。短髪のわりに睫毛がくりんと長く、首回りも手もどちらかというと線の細さが目立つ。

「……ありがとう」

 頭を下げたつもりだが、傍から見れば俯いているような格好で、瑠璃は言う。拍動がまだ早い。

「これに懲りたら、もうあんな道、一人で歩いちゃダメだよ。女子供を狙うゴロツキがいるんだ。気を付けてよね、すごく危ないんだから」

 自分のことは棚に上げて、口をとがらせる。やはり声変り前の少年のような、生意気そうで透明感のある声だ。

「ぼくがいなかったら、おねえさん、今頃きっと大変なことになってたよ」

「うん。ありがとう。本当に助かった」

 瑠璃が珍しく素直に言うのは、助からないと少しでもよぎったあの瞬間が、本当に心底怖かったからだ。

「でも君も、ひとりであそこをうろついていたんでしょう?」

「ぼくはいいの。掃き溜め育ちだからね、ああいうヤツら相手にどうすればいいのかちゃんと知ってる」

 少年は得意げに胸をそらす。掃き溜め、という言葉が妙に耳に残る。

 ぽつ、と一滴の雨がアスファルトを濡らす。少しずつ数を増やす雨粒に、少年は瑠璃の手を引き、コンクリートの屋根の下に導いた。雨脚はどんどんひどくなり、やがて地面が白く煙るほどになった。

 傘を持っていない彼らは、立ち往生を余儀なくされた。

「ありゃー」少年が頭を掻く。

「蓮ちゃんに迎えにきてもらうか。……おねえさん、電話持ってない? ぼくスマホ持ってないの」

「そうなの?」

 瑠璃は面食らいつつ、かばんの中を探る。レッスンで遅くなる日も多かったから、スマホは小学生の時からもたされていた。学生のうちは料金も親頼みだ。そんなものだと思っていた。そうでない人がいることは、想像だにしなかった。

 ロックを解除すると、大量の通知が目に入る。修二からのメッセージがあるのを見て、隠すように受話器のマークを押した。スマホを差し出す。

「ありがと、おねえさん」

 少年はあでやかともいえる笑みを浮かべ、スマホを受け取る。

 少年が電話をしている間にも、雨脚は強くなっていった。夕立ちにしては遅いその雨は、ただでさえ真っ黒な地面を、さらに黒く濡らした。光源は、いつ建ったのかもわからない自販機と、スマホの画面の青白い光のみ。

「蓮ちゃん? 雨すごいからさ、迎えに来て。もうミサおわったでしょ? ……うん。おねがい。きれいなおねえさんも一緒だよ」

 きれいなおねえさん。悪い気はしない。ノせるのが上手い子だ。この子は育ったら女泣かせになるかもな、と思う。ちょうどどこかのボーカリストのように。

「今いる場所? まってね」

 少年は目を細め、むむ、と呟く。「裏のとこ。意外と教会のすぐ近くだ。……そうそう、めちゃくちゃ古い自販機ある」

 はい。うん。よろしく。ばいばい。

 いくつかやり取りを重ね、少年は電話を切った。「ありがと、おねえさん」と、先ほどと同じ所作と表情で、瑠璃にスマホを返す。

「暇だからお喋りしようか。――ぼくは李音りおん。よろしく」

 いたずらっぽく笑う両頬に、可愛らしいえくぼが浮かぶ。

 李音。男か女かますますわからなくなり、瑠璃は混乱する。少年のような少女のような、大人のような子供のような。李音はまさしく両者の中庸だ。当の本人はこの反応に慣れているのか、瑠璃の困惑ぶりにけらけらと笑う。

 中性的な人間は、それでもどちらかに寄っている場合がほとんどだ。顔だけはアンニュイな美人と言ってもいい立川も、聖歌隊の少年のようなトーリ・ナカエも、当人の性別がわからないというほどではない。

「ぼくはぼくだよ。ただの李音。何者でもないし、どちらでもない」

 李音は見透かしたように言い、薄い肩をそびやかす。

 この子は異質だ。ジェンダーレスの域を超えている。まるで中性そのものだ。

「おねえさんは?」

「瑠璃」

「へえ。だから髪の毛が青いの?」

「……そうかも」

 瑠璃の長い黒髪は、毛先だけ脱色して青く染めてある。

 中学生までの瑠璃は、癖の強い地毛をそのままにしていた。視力もよくなかったから、矯正のために眼鏡をかけていた。勉強と部活とピアノばかりの毎日で、どちらかというと地味な方だった。

 高校生になってから、ストレートパーマをかけた。黒髪ストレートという響きにあこがれていた。眼鏡も嫌だったからコンタクトに変えた。大学生になってからは、毛先を鮮やかな青に染め、目を囲むようなはっきりした化粧をした。

 見た目が地味だからと侮られるのが嫌だ。たったそれだけのために。

 手間をかけた甲斐あって、垢抜けたね、とたくさんの人に言われた。沙耶に至っては「整形?」と笑い混じりに聞いてきたくらいだ。

 瑠璃は強くなりたかった。

 自分が誰よりも弱いことを知っていたから、強いふりだけでもしていたかった。ピアノが思うように弾けなくて泣いて、姉の受けた私立中学に落ちて泣いて、初恋の人に彼女ができて泣いて、ひがみと妬みばかりの自分が嫌いで泣いた。弱さを曝け出せるほど強くもなかった。

 強くなりたかった。そのためには見た目というまじないが必要だった。

 青を選んだのはなんとなく以外の何でもないが、瑠璃は確かに青が好きだ。中でも、自分の名前と同じ瑠璃色が一番好きだ。ほんのりと紫がかった深い青。それはきれいな海と同じ色だ。おおらかで、静かで、何もかもを包んでくれる。その上知的で高貴な色だ。到底追いつけない理想の自分を体現してくれる色だ。

 なんで李音にその話をしたのかは、自分でもわからない。ついさっきまで見ず知らずの他人だったからこそ、喋ることができたのかもしれない。飾らない態度の李音の前では、自分も背伸びをしなくていいような感じがしていた。

「おねえさんはかっこいいね」

 李音の薄い唇がほころんだ。そんなことないよ、と瑠璃は言う。さっきだって、ムキになって楽屋を飛び出してきたのがこのザマだ。強がってばかりの自分の弱さは、嫌と言うほど知っている。

「強くあろうとすることを諦めないのが、かっこいいんだよ。おねえさんの美学は男気がある」

「……そうなのかな」

 そうとも、とでも言いたげに、李音は頷く。

 話をしている間に、雨脚は少しずつ弱まってきていた。汗が冷えたのか、体温も少しずつ奪われていく。

 ぼくの話をしようか、と李音は言った。

「どちらでもないって言ったのは、嘘じゃないよ。身体は女の子なんだけど、なんだ。髪はこのくらい短い方が落ち着くし、服も男物のほうが好き。声ももっと低くなりたいんだ。本当はね」

 は、せつなげに笑う。顔はあどけないのに、瞳だけがやけに大人びている。

「ぼくもおねえさんと同じ。強くなりたかったんだ。ぼくはいつも守られてばかりだったから。……ぼくがぼくなのは、元からだけど」

 ほんの少しだけ、心に浮かんだ当惑を察されないように、そうなんだ、と返事をする。きっと、態度を変えないのが一番いいはずだ。

「キモい、意味わかんないっていじめられたこともある。うち、貧乏で、いつも汚い恰好だったし。辛いこともないわけじゃないけど、蓮ちゃんや立川さんや、色んな人がよくしてくれるから、ぼくは幸せなんだ。おねえさんとも友達になれたし」

 友達。あまりに屈託のない響きに、瑠璃は胸がじわりと温かくなる。

「私はただ助けてもらっただけだよ」

「困ったときはお互い様だって。友達ってそういうものでしょ?」

 そうだね、と言って、瑠璃は笑顔を作ろうとした。こんな気持ちで笑ったのは久しぶりだ。作り笑いは得意なはずなのに、全然うまく笑えない。むしろ泣きそうなのはどうしてだろう。

 バレないように顔を伏せようとした時だった。

「りおんー?」

 若い男の声が、遠くから呼びかけてくる。

「蓮ちゃん!」

 身軽な所作で立ち上がり、李音は男のもとに駆け寄る。雨脚は弱くなっていた。

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