私は自分の破滅を愛した。 ――アウグスティヌス (5)

 ――あんなものを見せられた後では、出演も何もあったものではない。

 一週間後の『金曜日のミサ』。ついに瑠璃たちは出番を迎えた。

 出番は、始まったかと思ったらあっという間に終わった。柄にもなく緊張していたせいで、あまり覚えていないのだ。

 コンクール然り演奏会然り、誰かの前で演奏をすることは、それなりに場数を踏んできたはずだった。それなのに、舞台袖に立った時から緊張で胸が苦しかった。指先が冷えて仕方ない。何かを待つ時間がこんなにじれったいのは、初めてだったかもしれない。

 観客の数は、自分がその中にいた時よりも、ずっと多く見えた。

 とりあえずミスはしなかったはずだ。立川が空気を温めてくれていたおかげか、観客のノリもよかった。MCは修二に任せていた。コーラスもない。自分はただベースを弾くだけ。指は練習した通りに動いてくれた。

 それでも、終わった後の安堵感に、引きあがった舞台袖で崩れそうになった。出演後の方が膝が震えるのはどういうわけだろう。

「おつかれ」

 直樹が水を渡してくれる。素面だといいヤツなんだけどな。この間の飲み会の絡み酒を思い出しながら、瑠璃は「ありがと」と水を受け取る。冷たい水がこんなにおいしいのは久しぶりだ。

「上手かったよ。さすが音大生」

「……まあ、練習したから」

 ふうと息をつき、ペットボトルのキャップを閉める。

 褒められるのは悪くないけれど、その言葉には、少しだけカチンときてしまう。音大生、という色眼鏡で見られるのは気に食わない。

 習得が比較的早いのは、コントラバスをはじめ、他の楽器も経験があるからだ。練習だって相応にした。上手かったと言うのなら、それは私が努力したからだ。

 そこを見ないで「音大生だから」とくくられるのは、馬鹿にされているような気分だ。たとえ称賛だったとしても。

 少し呼吸が落ち着いたところで、修二の姿を目で探した。さっきまで一緒に舞台にいたはずなのに、どこにも見つからない。

「先に楽屋行ってるのかもね」という直樹の言葉を信用し、とりあえず戻ることにする。舞台では次のバンドがライブを盛り上げていた。心臓に似たバスドラの音。同じドラムのはずなのに、響きの良さが直樹とは段違いだ。あの時と同じドラマーだろうか、と思う。

 楽屋の扉に手をかけた途端、「修ちゃんすごかったあ」と女のべたついた声が耳に飛び込んだ。

「修二ぃ彼女つれこんでんじゃねえよ」

 こないだ振られた俺の身にもなれよー、と直樹がおどけて修二に絡む。瑠璃はそれを遠くから見ていた。

「だって、修ちゃんが早く会いたそうだったんだもん」

「それはお前がだろ」

 修二が彼女を小突いて、「えへへ」と彼女が腕に巻きつく。

 バカそうで、いかにも修二が好きそうなタイプだ。高校時代もああいう、刹那的で頭の軽そうな子とばかり付き合っていた。それは本人も開き直っていて、彼女の好きな所を訊かれて、「バカなとこ」と言っていたことも知っている。

 高校の時に私が好きだったなんて絶対に嘘だ。瑠璃は確信する。あれはきっと、雰囲気に流されて出てきた口説き文句だ。きっとそう。そうに決まってる。そうじゃなきゃバカ扱いされたことになる。そっちの方が瑠璃にとっては屈辱的だ。

 自分の荷物を手に取る。楽屋を出ようとした瑠璃の後ろを、「何、帰っちゃうわけ」という修二の声が追いかける。彼女の頭を撫でながら。

「えー打ち上げしようぜー飲もうぜー」

 直樹も続く。

「あんたとはもう飲みたくない」

「えーなんで」

 都合の悪いことは忘れる頭らしい。瑠璃は一つ溜息をつき、修二の方にちらりと目をやる。思わせぶりに目を合わせてくる。表情を見る限り、罪悪感という言葉は知らないみたいだ。

 クズ。心の中で毒づきながら、瑠璃は自分のできる限りの微笑を浮かべた。

「じゃあね。おつかれ、

 早足で楽屋を後にする。「なんかノリ悪い感じのコだねえ」と、女の声が後ろから聞こえたのにも、聞こえないふりをする。


 逃げるように帰ろうとしたのが、いけなかったのかもしれない。

 ただでさえ街灯の少ない道だった。うつむき加減に早足になっているうちに、いつの間にかどんどん人気のない場所に迷い込む。

「よォお嬢ちゃん。いいもん背負ってんじゃん」

 突然後ろから声をかけられ、瑠璃はびくりと肩を震わせた。

 にやにやと笑う男の二人組だった。一人はサングラス、一人は刺青。剃り込みと、ドレッド。腕が太く、体格がいい。

 瑠璃はベースケースの肩ひもをぎゅっと握る。

「オレらと遊ぼーよ、音楽なんかよりもっとぶっ飛べるぜ?」

「結構ですっ」

「そんなこと言わずにさあ」

 手首をつかんで、壁に押し付けられた。干からびたようなネオンの看板が、がこん、と揺れる。

「やだっ、離してよ!」

「離してよ、だってよ」

 ひひっ、と下卑た引き笑い。「元気のいいオネーチャンだぜ」「しおらしい顔も見てみてえもんだなあ?」

 手を振りほどこうとするが、力は男の方がずっと強い。足が宙を蹴る。

「ちょっとガマンすりゃいい思いできんだぜ?」

「やだっ」

 力任せにじたばたと暴れていたら、つま先が偶然男の足の間を蹴り上げた。

「んなッ」

 妙な声をあげ、男のひとりが蹲る。手を振りほどいて走った。手首はまだ、誰かに握られているような感触を残している。

「このッ!」

 ベースケースを掴まれ、身体がつんのめった。長い髪が宙を舞う。慌ててケースから腕を抜いて、転がり出るように逃げ出した。

 足が思うように動かない。踵の高い靴を履いてこなければよかった。気持ちばかりが焦って、走れども走れども、思うように男たちとの距離は開かない。

「助け、……」

 喘ぐような呼吸。スタミナはすぐに切れた。逆上した男たちは勇み足で近づいてくる。もうだめだ。走れない。少しずつ足が重くなる。脇腹が痛い。心臓が喉から出てきそうだ。

 呼吸が荒くなる。嫌だ。嫌だ。気持ちは先走るのに、足は思うように前に進まない。

 歯を食いしばる。ちらりと後ろを見ると、離したと思ったのに、距離は思ったよりも縮まっていた。

 絶望の二文字が瑠璃の眼前に浮かんだ、その時。

「おねえさん、こっち」

 声変り前の少年のような声。建物の間から、すっと華奢な手が伸びた。瑠璃はたまらずその手を掴む。藁をも掴む気持ちで。

 途端、思っていた以上の強い力で手を引かれた。導かれるがまま、瑠璃は走る。手を引いているのは短髪の少年。背は瑠璃より少し低い程度。

 細い体躯を存分に生かし、少年は建物の間を、細い道を、道なき道を抜ける。へとへとになりながら、瑠璃は追いすがるように手を握った。この手を離してはいけない、と思った。

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