善く生きること ――ソクラテス (6)

 照明の上がりきってしまったこの空間は、夢から覚めたような寂しさを孕んでいた。

 さっきまで、不健康な彩色が溢れていたのが嘘みたいだ、と日野は思う。人もまばらになったライブハウス内は、誰もが熱に浮かされたようにクラクラと、あるいは恍惚としていた。蛍光灯の照らす光は、その中であまりにも無機質だ。

 立川の姿はすでにステージの中にない。とりあえず会場の外に出ようとしたとき、遠くで甲高い喧騒が響いた。どうやら立川に会ったものらしく、彼を呼ぶ声があちこちでする。人だかりができているし、これでは近づけそうにない。

 ――まるでアイドルだな。

 日野は心中で苦笑し、その場を通り過ぎようとした。その瞬間、

「お兄さん」

 袖を引かれ、日野は軽くつんのめる。見ると、先ほどビールを買った売り子の娘だ。

「立川さんから伝言です。外で待っていてほしいと」

 囁くような声だったが、日野にはしっかりと聞こえた。一瞬だけ目を見開いたものの「ありがとう」と返し、何食わぬ顔で人ごみに紛れる。

 外は月が出ていた。狭い夜空の中に覗くそれが、今日はやけにはっきりとして見える。

 煙草が吸いたかった。口にくわえ、ライターで火をつけようとしたところで、自分の手が微かに震えていることに気がつく。相当やられているらしい。思い切り煙を吸い込み、ゆっくり吐き出すと、ようやく頭が冷えてくる感じがした。頭がガンガンして最悪だった気分も、体の火照りと共に少しずつ静まってくる。

 いきなり刺激が強すぎたのだ、と思う。巷の聞きなれた音楽はあまりにも穏やかで優しく、そんな状態でライブに引きずり込まれるのは、病人にいきなり脂っこいものを食わせたようなものだ。

 そもそも仕事柄、こんな場所に来ることはご法度のはずだった。しかも偵察だけじゃなくしっかりキメこむなんて。やっちまった。理性ではそう理解している割に、妙に実感も罪悪感も薄かった。それも効用だとしたら恐ろしい話だ、と日野は思う。

 紫煙が月に向かってのぼっていく。

 それにしても――彼が俺をここに呼んだ目的とは、一体何だろうか。

 ポケットから携帯灰皿を取り出し、灰を落とす。大きく息を吐き出して、建物の隙間から見える空を眺めた。都会の夜空は狭い。星なんて見えないどころかいつも薄く霞んで見えるが、日野はそれが案外嫌いじゃなかったりする。

「よう。来てくれたんだ」

 そう声をかけられたのは、二本目の煙草をちょうど吸い終わる頃だった。

 立川はTシャツ一枚でそこに立っていた。日野もその時はじめて、背広を脱いだままだ、と気づく。火照った体に夜風が心地よかったから、すっかり忘れていた。

「仕事がたまたまキリよく終わったんでね。……随分上手くなってたな。驚いた」

「そお? 嬉しいな」

 日野はほとんどフィルターだけになった煙草を灰皿に押し込んだ。貧乏性なのか、煙草の味は辛くなるばかりなのに、いつも限界ギリギリまで吸ってしまう。

「律儀だね」

 立川は俺を見上げ薄く笑った。「煙草なんて吸ってる割にさ」

「ポイ捨ては趣味じゃない」

「違法ライブには来ちゃうのにね」

「うるさい。……そもそも呼んだのはお前じゃないか」

 日野が苦し紛れに返すと、「そうそう、そのことなんだけどさ」と立川は調子を変えずに言った。

「これから飲みに行かない? いろいろ話したいんだ。久しぶりに」

 時間ある? と訊かれて、時計を見る。時刻は十一時を回ったところだ。普段なら遠慮したいところだが、明日は確か休日出勤はなかったはずだ。明後日には仕事を入れられてしまったが。

「ああ」

 日野は短く答えた。「要件はきちんと教えてくれよ」と釘を刺すと、立川は「わかってるって」あしらうように言った。

「ヒノちゃん、そういうとこ本当変わんないね」

「お互い様だろ」

 にっこりと頷いて、立川は「ちょっと待ってて」と身を翻す。

「財布と上着、取ってくる」

 そう言い捨て、彼の姿は教会の暗闇へと消えた。


 日野が立川に連れられた店は、どこにでもあるような安い居酒屋のチェーン店だった。あの教会からは徒歩圏内にあり、狭いながらにそこそこの賑わいを見せている。

 彼らは向かい合わせに座った。日野はビール、立川はジンジャーエールを頼み、美味くもない肴を適当につまんだ。意外なことに、立川は「酒も煙草も、ましてやクスリなんてやってないよ。喉痛めたら嫌だから」と、アルコールの入っていないソフトドリンクをオーダーしていた。

 そういえば、昔からそうだっただろうか。立川のために煙草を我慢する代わりに、つまみを口に運びながら、日野はなんとなく思う。けっこうストイックなのだ、彼は。

「で、本題だけど」

 空腹がある程度満たされたのか、箸のペースを彼が落とし始めた頃、立川は言った。

 立川は箸を置き、まっすぐにこちらを見据える。緊迫感を持った沈黙。立川は一度、ためらいがちに目を伏せた後、再び日野を見て、口を開いた。

「俺ともう一度バンド組んでほしい」

 予想をはるかに超えたその言葉に、日野はどう反応していいのかわからなかった。

「……え?」

 信じられなかった。どうして今更、こんなことを言い出すのだろう。

 遠くで酔っぱらいの怒号が聞こえた。立川はそれを鬱陶しそうに一瞥すると、またこちらに視線を戻す。

「『リトルシスター』って知ってる? 羽山タカトは晩年にバンドを組んだけど、メンバーと色々あって、あまりうまくいかなかった。俺はね、彼ができなかったことをしたいんだ。ロックをもう一度日本に復活させたい。もう一度『倫理観』を成立させたい。

 ――考えてみてくれない? ヒノちゃんとならできる気がするんだ」

 駄目押しのように言い、立川はこちらに身を乗り出す。その目があまりにも期待に満ちていて、日野は後ろめたさから目をそらした。

 提案に乗りたいのは山々だったが、日野としてもこれ以上おイタをやらかすわけにはいかない。

 十年前、彼と共に見た光景にどうしようもなく焦がれている自分を、その一つの理性だけがつなぎとめていた。

「今日やってたあの面子は?」

「ああ……無理言って伴奏してもらった後輩のグループ。一人引き抜く予定だけど、ずっと頼り切りってわけにはいかなくてさ」

 立川は苦笑し、手前のフライドポテトに手を伸ばす。冗談めかした様子はいつも通りのものに見えたが、まだ表情は固い。

 ――本音を言えば、また何も考えずにギターを掻き鳴らしたかった。ステージの上から、観客の熱狂に応えたかった。たった一度だけでもよかった。

 だけどそれは無理な話だ。

「悪いけど、少し考えさせてほしい。……仕事が忙しいんだ。今日はたまたま時間を作れたけど」

 日野は緊張を誤魔化すようにマルボロの箱をあけた。

 細い煙がゆっくりと立ち上っていく。軽く灰を落とし、指に煙草を挟んだまま手を置いた。立川の反応が見たくなくて、自分の指先ばかり見ていた。

「そっか。……そうだよな、気が変わるまでゆっくり待つよ」

 彼は案外あっさりと引き下がった。それが尚更申し訳なかった。

 指の間に挟んでいた煙草を、日野は灰皿のふちに置いた。煙草は細く細く煙を紡ぎ続け、誰かの動きに煽られてゆらりと揺れた。

「ヒノちゃんてなんの仕事してるんだっけ。教職とってたよね。教師やってんの?」

 唐揚げをクロス箸でつかみ、大口を開けたついで、といった具合に彼は尋ねた。

「いや……もう辞めた」

「そっかー。そりゃ残念。けっこう天職だと思うけどな、こういう教師ぜったいいたもん」

 立川は揶揄うように笑い、大ぶりの唐揚げをまるごと口に入れる。「あっつ」とうめきながら、氷のとけたジンジャーエールをぐびぐびと流し込み、「ぐあー」と大きく息を吐く。騒々しいものだ。

 たった今、日野の脳裏にある生徒の顔がよぎったのを、立川は知らない。その生徒が彼を教職から降ろさせることになったことも。

 煙草の苦みを消すために、ビールに口をつける。白い泡がジョッキを滑って流れ落ちていく。

「そういう立川は? 音楽で生計立ててるのか?」

「俺は……どうなんだろ。そう言えなくはないか。ちゃんとした仕事とかバイトとかしてるわけじゃないし」

「定職についてないってこと?」

「まあそうだね。厳密に言うとヒモ」

 悪びれない笑み。口元から覗く犬歯が、怪しげに光を返す。

「……ヒモ?」

「そう。後援者パトロンがいんの。俺に宿と飯とちょっとのマンゾクを提供してくれる女の子」

 女の家に潜り込んでいたのか。道理で足取りがつかめないわけだ。それを『パトロン』という言葉で表してしまうのも彼らしい。庇護されることを何とも思わないのは、ある意味彼の特権とも言える。

 飲み物のおかわりを店員に頼み、立川は平然と続けた。

「けっこうオールドファンの女の子でさ。一見ガード固そうなフツーのOLなのに、こんなモノにハマっちゃってるのがグッとくるよね。女の子って言ってももう三十二だけど」

 立川は饒舌だった。場の雰囲気に浮かされているのか、それともライブ後の反動なのか、酒が入っているわけでもないのにぺらぺらとよく喋った。

「今度会ってみる? たぶん毎回来てるよ、ライブ」

「……いや、遠慮しとく」

 戸惑いながら答えた俺に、あはは、と彼が歯を見せる。


 酔いが回ってきた頃、彼の後輩だという例のグループが訪ねてきた。立川は後始末を全て後輩に押し付けてきたらしく、それに関して笑い交じりに文句を言われていた。

 立川は後輩たちから慕われているようだ。こいつのカリスマ性は未だ健在らしい。冷めかけたフライドポテトを口に運んで、日野は妙な懐かしさに浸る。女にはモテるし男には慕われる。破天荒さや欠落すら魅力になる。立川陽介はそういう奴だった。

 ひとしきり仲間内で盛り上がった後、立川は一人の若い男をこちらに呼び寄せた、「シブキ」と呼ばれて振り向いた彼は、いかにも不良じみた若者といった具合の、ピアスをいくつも開けた男だった。金に脱色した髪の毛の根元が黒くなっている。

「紹介するね。こっちがシブキ。渋谷の渋に木で『渋木』ね。こいつはドラマー。んで、こっちがヒノちゃん。俺の同級生で、こう見えて超ギターうまいんだぜ」

「おぉー!」

 渋木は爛々とした顔で声をあげた。

「この人も『倫理観』なんすか?」 その瞬間、日野の脳内に何かが重なる。

 ――あの生徒だ。進路希望用紙にロックンローラーになりたいと書き、日野の頭を抱えさせた男子生徒。差しのべようとした手を振り払って、高校をやめた生徒。

 日野はしばらく二の句が継げなかった。

「……元気そうだな」

 渋木はしばらくきょとんとしていたが、やがてハッとしたような顔になる。

 日野は渋木の手を取った。渋木は戸惑ったように周りをきょろきょろと見渡す。立川が小さく「あら」と呟いた声は、居酒屋特有の喧騒に埋もれてしまう。

「……ずっと、謝りたかった。すまなかった。力になってやれなかった」

「えっ……と?」

 髪色が変わり、体格も大きくなっていたから、高校にいた頃とは随分雰囲気が違って見えた。けど彼は――渋木蓮は、間違いなく彼の教え子だったあの生徒だ。忘れるはずもない。

 渋木は手を引こうとするが、日野はすがりつくように彼の手を離さない。今や渋木の方が手も力も大きいというのに、引きはがせない。

 ひゅう、と立川が口笛を吹いた。

「え、先生、こんなとこいていいの?」

 渋木もまた、突然の再会に混乱していた。印象は薄かったが、自分を担任していた教師の顔は、なんとなく覚えている。生真面目を判に押したような、典型的な教師だった。その彼がなぜ、こんな違法音楽の溜まり場にいる? 渋木は混乱の真っただ中にいた。大人に怒られるのこそ慣れているが、頭を下げられたのは初めてだ。しかもこんな場所で。

「な、なんで謝んの? 先生のせいじゃないっしょ、オレいま楽しくやってますよ、ねえ」

 どうしよう、という顔で渋木は苦笑する。先生、と呼ばれる響きのなつかしさに、日野はまた心をぐらりと動かされる。

「ロックンローラーになりたいって言ったとき先生すごい顔してたけどさあ、先生もギターやってたんすねえ、ハハ」

「……ああ」

「オレもねえ、最初ギタリストが良いなあって思ったけど、なんか最終的にドラムがしっくりきちゃって」

「……上手かったよ。本当に」

「あ、あざまっす。……あの、もういいスか」

 その辺にしてあげたら、と立川も渋木に助け舟を出す。日野はハッと我に返り、渋木の手から己の手を離した。下がった眼鏡をぐいと持ち上げる。

 眼鏡の奥に捉える顔――耳はおろか唇にも鼻筋にもピアスがあるその顔は、それでもやはり、少年らしい面影を残している。

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