善く生きること ――ソクラテス (5)
悩みに悩んだ末、日野は指定された場所へ向かうことにした。金曜日の夜の九時、どうにか手持ちの仕事を片付け、家とは反対方向の電車に乗り、二駅。中心街を下って、煙草と排ガスと酒のにおいがこもった路地を歩く。
それにしても『金曜日のミサ』とはどういう塩梅なのだろう。決して詳しくはないが、ミサとは普通、日曜日ではなかったか。立川から誘われたこれが怪しげな宗教だったら、加えて怪しげなツボや数珠など買わされそうになったら、どうにかして逃げよう。日野は今からそう覚悟を固めていた。
教会の尖塔に徐々に近づいていく。ステンドグラスと、十字架。夜の教会は、控えめではあるが存在感がある。
そういえば、と日野は思い至る。羽山タカトは敬虔なキリスト教徒だったと聞いたことがある。どれだけ仕事が立て込んでいても、毎週のミサには必ず出席し、祈りをささげていたという。サブカルチャー・ポップで名を馳せた“神”は、自分の中にも神を持っていたというわけだ。
ということは、やはり、これはタカト絡みの集会なのだ。日野は小さく確信する。
教会の敷地はきれいに整えられていた。東京の夜なのにやけに暗い。
恐る恐る足を踏み入れていく。大きな両開きの扉の奥には、ちょっとした広間があって、その奥に長椅子が並んでいる。照明はごく最小限で、仄暗く自分の影が伸びている。
薄く月光を通すステンドグラスと、奥には聖母子像だろうか、重厚な油彩画が飾れている。壁画とも言えそうなほど大きなサイズだ。
その油彩画の前に、人が立っていた。長いローブを着た老人だ。まるで現実感がない様相だが、教会の内装にはむしろ溶け込んでいる。
「何かお困りかな、迷える子羊よ」
老人は日野に語り掛ける。彫りの深い目元が、石膏の彫刻か何かのようだ。
日野はちらりと腕時計を見る。時刻は約束の九時を少し過ぎている。緊張で乾いた口を、おずおずと開く。
「妹を探しに来たんです」
――立川からのメールには、合言葉が書いてあった。曰く、教会の奥に行けるのは、この言葉を知っている者だけ。
老人は日野の不慣れな言い方に、ふわりと笑みを浮かべた。皺だらけの手が、巨大な聖母子像の額縁に、手をかける。
「あなたの“妹”ならここに」
老人の手によって、油彩画がスライドしていく。引き戸のように動かされたそこには巨大な空洞があった。――地下へ続く階段だ。
日野は息を呑む。
「ミサは、もう始まっているかもしれませんな」
老人に促されるがまま、日野は足を勧めた。こつ、こつ、と革靴の音が、高い天井にこだましていく。奥から微かに聞こえるのは、人の話し声か。誰かがマイクを使っているものらしい。
「お気をつけて。あなたに神の祝福のあらんことを」
「……ありがとう」
その言葉を皮切りにして、少しずつ、差し込む光が細くなっていく。
間接照明の仄かな光を頼りに、日野は慎重に階段を下った。通路の幅は二メートルにも満たない程度。石の階段は急で、気を抜くと足を踏み外しそうだった。踊り場には小さな画が飾られている。曖昧だが丁寧なタッチ。見たことのある雰囲気だと、日野は思う。
やがて階下までたどり着く。木でできているらしい、厚い扉が一枚。少し躊躇ったが、思い切って手をかけた。ぎぃぃ、と重々しい音を立てて、扉が開く。
人間と機材とコンクリートのにおいが混ざった、独特の臭気が鼻をつく。
あちこちで束ねられたコード。壁に所狭しと貼られたポスターは、まだロックが規制されていなかった、邦楽の全盛期時代のものだ。音楽監理局のポスターも貼られていたが、おなじみの「目指します 明るい社会と正しい音楽」の上には、赤、青、黄、ピンクと様々な色のスプレーで落書きがしてあった。
『※この音楽は安全です※』『※清潔感のある善良な音楽です※』『※この音楽は人体に無害かつ健全です※』『※Good Music is Good No Matter What!!! ※』『※人生に満足していますか?※』
強烈な世界観だ、と思う。まるでバッドトリップだ。ここが教会の地下というちぐはぐさが、余計に異様に思えた。その上、漏れ聞こえるのは賛美歌ではなくロック・サウンドだ。
「お兄さん、飲み物」
入り口の近くで、若い女に声をかけられる。「うちはワンドリンク制なんだ。何か買ってって」と、カウンターから身を乗り出された。
「じゃあ……」
メニューらしきものを指でさされ、少しだけ考える。「……ビールで」
とりあえずビール、という思考回路は、自分で思っていた以上に染みついているらしい。
「はあい」
女はもったりとした返事をする。プラスチックカップに注がれたビールは、慣れていないのか、随分と泡が多い。
上着を脱ぎ、一口ビールを飲んでから、軽くネクタイを緩めた。
――様子を見る限り、ミサとは名ばかりで、密で行われている違法ライブのようだ。それも、かなり大規模な部類の。立川からの誘いの正体だから、十中八九そんな気はしていた。
ここで監理局に通報すればいくらか実績になる。しかも中心は、さんざん反監理派音楽組織の中枢として追われていた立川陽介だ。安い情報ではない。
だが日野は、ここまできてそんなことをするほど無粋でも、思い切りがよくもなかった。素直に旧友との再会を喜びたかった。
広間の奥にはもう一枚扉がある。中はすでに人で埋まっていた。そのほとんどが、こんな場所とは無縁そうな普通の装いをしていた。仕事帰りらしいOLや、流行りの服を着たどこにでもいそうな若い女、もちろん、量販店の安いスーツを着た日野も含めて。
前方にはステージと、壁に埋められた巨大なスピーカー。中心で男がマイクに向かって語っている。――立川だ。
彼は驚くほど変わっていなかった。塗りつぶしたように真っ黒の髪、女受けしそうなひょろりとした立ち姿。浮かべる笑みのどこか胡散くさいところも、日野の知るそのままだった。
BGMはパイプオルガンだろうか。原色にまみれたライトとは裏腹に、まろやかな音色が響いている。
『つかの間のトリップといこうじゃないか。楽しめるかどうかはあんたら次第だ。――オーケイ?』
応えるような歓声が、辺りを包む。
最後列で見ることにして、後方へと足を運ぶ。ビールはよく冷えていて、喉を通る感触が心地いい。蒸し暑さと雰囲気にのまれかけて、ほんの少し飲んだだけで、酔いが回ってくるくらりとした感覚がした。
日野がこの場所に入った頃には、すでに人は満杯になっていた。にもかかわらず、入ってくる人は未だ絶えない。
この位置だと授業参観に来た保護者みたいだ。打ちっぱなしの壁に寄りかかり、ふう、と一つ息をついた時だった。
ばん、と照明が消えた。
途端、ひそかなざわめきと緊張感が辺りを満たす。
辺りが真っ暗だった空白の時間は、恐ろしいほどに長いものに感じた。
周囲がしんと無音になった瞬間。閃光が迸り、強い光がステージ上を照らす。
わぁぁぁぁぁっ、とはちきれんばかりに膨らむ歓声。照明のサイケデリックな光があちこちに散らばる。ライブハウスは今やおぞましいほどの熱気と希望に満ちていた。
立川がマイクを握る。二回、ドラムスティックが打ち合わさる音がして、曲が始まる。
イントロが始まって少し、掠れた甘い歌声が鼓膜を突き抜ける。
空気が変わった。
久しぶりに聞いた彼の歌声に、全ての体の機能が一瞬動きを止めた。激しい波に襲われるような感覚。
大音量の激しい旋律と、鮮やかな光の眩しさで、頭の中が少しずつ掻き回される。
異様な盛り上がりと会場の一体感。ライトに照らされた立川の姿。途方もない熱を孕んだこの空気感は、憂いごと全てを飲み込んだ。
手に持ったプラスチックカップの重さも、反響する立川の歌も、自我がどこにあるかわからなくなるほどに、ぐちゃぐちゃになっていく。全てがどうでもよくなる感覚。
――これは、ヤバい。
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