俺が死んだ日

美尾籠ロウ

俺が死んだ日

 俺の右眉と左眉のちょうど真ん中に22LR弾がぶち込まれたがそのコンマ二秒前に俺はシグ・ザウェルM229の引き金を引いたから9ミリパラベラム弾が野郎の脳味噌を吹っ飛ばしたはずだがその瞬間を見る前に俺は死んだ。


 ――あたしを殺してもいいよ。

 おまえがつぶやくように言うので俺はおまえを殺したりしないと答えると、

 ――ホントは殺したいんでしょ?

 なんて訊くので俺はおまえを殺したくないと言うと、

 ――べつに殺されても構わない。こんなに汚れちゃったんだよ。あたしを殺して、すぐ殺して、お願い。

 おまえは真剣な面持おももちで言い俺は絶対におまえだけは殺さないし絶対に誰にも殺させないと答えながらもうそのときに俺の両眼からは涙が流れ出していた。

 ――泣き虫。泣き虫のくせに人を殺すなんてヘン。

 おまえは少しだけ笑みを見せたがその笑顔は間違いなく綺麗だったことを俺は絶対に忘れはしない。


 なぜその男を殺さなければいけないのかわからなかったが誰もその理由を教えてくれなかったし俺もいつものように特に知りたいわけでもなかったので世界中どこでも同じ味だというハンバーガーを喰らいながら世界中どこでも同じように死ぬほど不味いことを再確認して車のウィンドウ越しにあいつの自宅兼オフィスを眺めていると不意に吐き気が襲ってきて車のドアを押し開けて跳び出し電柱の脇にハンバーガーの残滓ざんしと胃液を吐き散らしそれでも何度も何度もこみ上げてくる吐き気に俺は身をよじらせながらゴミのような全世界共通のジャンク・フードを喰ったことを後悔して酸っぱい唾を何度も電柱の脇に吐き捨てているとあの男の家のドアが開きあの男が見事に出っ張った腹を揺らしながら現れて玄関の奥にはちらっと見送る妻らしい人影が見えたがその人影はこれからこの男が若い愛人とファックしに行くことを知らないのかそれとも知っていて送り出しているのかと俺の脳味噌のひだの奥にそんな疑問がよぎったがどちらにせよ俺の仕事には関係のないことだからグロックのフィールド・ナイフをジーンズにぶち込むのとほとんど同時に玄関のドアは閉じられてあの男は前庭に停められたメタリック・シルヴァーのBMWに乗り込んで車道へ出て俺もすぐに昨日の夜に盗んだトヨタ・ヴィッツでその後を追ったが行き先はわかっていたし実際にその場所へ男はBMWを進めてあまりにも順調だから俺は笑いをこらえるのに必死だったが男がいつも通りのコイン・パーキングにBMWを停めたときには順調すぎて声に出して車内でもっとげらげらげらげらげらと笑ってパーキングを通り過ぎて二本目の脇道に入りマンションのエントランスがよく見えるところにヴィッツを停めて腕時計を見ると午後八時三十二分過ぎでこれまた予定通りの時刻で俺は車のエンジンを止めて古い時代遅れのiPodのイヤフォンを両耳の穴に突っ込んで古今亭志ん生のらくだを聴きながらげらげらげらげらと笑い転げているうちに時刻は九時を過ぎようとしていたので俺は一瞬だけあの男が愛人のマンションに泊まる可能性もあるなと考えたがそれほどの度胸のある男じゃないことはすでに調査済みだし親子以上に年の離れている小娘と一発ファックしてすぐに戻ってくるだろうと考え直してらくだの続きを聴いているとあまりにも予想通りに男が現れるのが見えたのでイヤフォンを付けたまま車から降りてコイン・パーキングに向かいながらそのあいだもiPodのなかで噺は続いていてついさっきまで小心でヤクザ者にこき使われていたくず屋が酒を飲んだ途端に豹変する様子に笑い声を上げそうになるのを俺は懸命に耐えて事前に確認しておいた監視カメラの死角に立って男の名前を呼びかけた。

 ——すみませんが……?

 と男は怪訝けげんそうな顔をしたので俺はその顔がおかしくてまた笑ったけれどもう落語はサゲまで終わって耳元のイヤフォンは沈黙していたから自分の笑い声が妙に俺の頭蓋骨の内側にびりびり響いて少し顔をしかめたが俺は男に六歩近づいてカンカンノウって踊り知ってますかと尋ねると、

 ——な、何のことだね?

 居丈高な答え方にいらつきそうになったが続いて俺は今のはただの冗談ですよそれよりあのガキのおまんこはよかったですかと訊いたら男の顔色が瞬時に変わって、

 ——なんだ、君は失敬だぞ。

 という男の台詞があまりにもゴミみたいに陳腐だったから俺はさらに笑いを止めることができずに体をよじって笑いながら十八歳未満の女とファックしたら犯罪だってこと知ってましたかと訊くと男は少しだけ身をのけぞらせてその口から呪いの言葉みたいなものを吐いたので俺はあんたの娘は十六歳だけどイッコ年下の十五歳の中学生とファックして動画を撮影してパソコンに保存してるのがバレたらいろいろまずくないですかねと言うと男の眼に怒りと恥辱と後悔と恐怖の入り交じった光が宿って口を開いて何かを言おうとしたようだが俺は男の返事なんか聞きたくなかったのでグロックのフィールド・ナイフを男の胸に突き立てた。

 ——誰に、頼まれた……?

 まったく何の意味もない疑問を発することしかできないこの男がますますおかしくかったけれどナイフの切っ先は胸骨にぶつかってそれ以上奥に刺さらず俺はそんな初歩的なミスをしたことに腹立たしくなって瞬間的に笑みを消してナイフを抜くとしっかりと持ち替えて男の下腹部にもう一度ナイフを突き刺すと切っ先は男の下腹を覆い尽くす分厚い脂肪の層を滑らかに貫いて俺は男の背後に回り込むと同時にフィールド・ナイフをより深く刺して内臓まで達した感触を右手に感じながら俺は上に向かって男の腹を一息に縦に切り裂くとぶよぶよした脂肪まみれの腹部に刻まれた一文字の切り口から赤黒い臓物が血と一緒に勢いよく飛び出して来て男はそれを見て慌てふためいて両手で自分のはらわたを腹の脂肪の層の下に押し戻そうとしていたがその様子はらくだに出てきたカンカンノウみたいなものなのかも知れないと思うと可笑しくて可笑しくて俺はまた声を出して大笑いして俺の腹筋が引きつって痛かったので笑いながら男におたくの腹筋は痛いですかと訊くと男は、

 ——わ、わ、わからない……。

 あまりに素直に答えるので俺のほうが先に脳の血管がぶち切れて笑い死にするんじゃないかと一瞬だけ怖くなったがこのデブオヤジよりも先に死ぬわけにいかないので男の喉にグロック社製フィールド・ナイフをあてて左耳の下から右耳の下まで一気に滑るように切り裂くと男の頸動脈から冗談みたいにとてつもなく大量の血がぶしゅううううううううううううううううううううううううううううううと音を上げながら噴き出してBMWのウィンドウとボンネットを赤黒く染めたので俺はけけけけけけけけけけけと笑って男の体を突き飛ばすとデブ男は死んでるはずなのにぴくぴくぴくぴくぴくと動いていてこれこそが死人にカンカンノウ踊らせることかと得心がいってフィールド・ナイフを投げ捨ててコイン・パーキングを離れたがいつまでもいつまでも笑いが止まらなくて困った。


 スクリーンのなかに広がる森の奥深くで野蛮な男は美しい貴族の女と出会ってその夫を殺して女をレ強姦したが捕まってしまって取り調べを受けるが男の証言も強姦された女の証言も霊媒を通じてこの世に呼び出された男に殺された夫の証言も全部食い違ってて結局は全員がてめえに都合のいいことばかりを並べ立てていたことがわかって所詮人間なんて貧乏人だろうが貴族だろうがクソどもばかりだと思わせておきながら映画のラストは信じられないくらいのとてつもない土砂降りのなかでちょっとした救いがあって俺はこの映画を観るのが七回目だったがやっぱりラストにはなんだかほっとして映画館を出てあらためてこの監督は天才だしカメラマンは超天才だと思って俺はこの商売をやってなかったら映画監督になりたかったなと思ったがそれはもう絶対に実現しない夢なんだと午後十時五十七分の雑踏のなかを歩きながら思うと妙に哀しくなったしあのデブ野郎を霊媒で呼び出したら何と言うんだろうか俺はべつにやましいことなんかないから正直に全部話すだろうなんて思いを十八秒くらい脳内で弄んだがそれ以上考えるのが面倒くさくなってイヤフォンを耳に入れて今度は品川しながわ心中しんじゅうを聴きながら家まで歩いて帰った。


 熱めのシャワーを浴びて全身がひりひりと痛むくらいに温めてから一気に冷水に切り替えて凍えるようなしぶきを浴びながら俺はつい五十四分ほど前にワイヤーを首に巻き付けて絞め殺した女のことを思い出しながらどんどん膨張してくる俺の男根を見下ろして俺は死んだ女に興味はない俺は狂ってるけどそこまではまだ狂ってないと言い聞かせながら生きているときの女の姿態を思い出しながら俺は俺の男根を右手でしごいてほどなくして射精すると俺の放った精液がバスルームの壁にへばりついたので俺はシャワーの冷水で洗い流して俺自身の体も冷水で流したけれどこれっぽっちも汚れが落ちなかっただけじゃなくてもっと汚れちまったような気がした。

 バスルームから出てタオルで冷え冷えとした体を拭きながらスピーカーにiPodをセットして志ん生の居残り佐平次さへいじを聴きながらパソコンを起動していくつかの面倒な操作をしたあと俺の口座への入金を確認してパソコンの電源を落とそうとした瞬間に携帯電話が振動し始めてまだこの電話を処分していなかったことを思い出した仕事のたびに完全にクリーンな電話が支給されるが俺は今回はどういうわけかまだ捨てていなくてそれはあの女とやりとりしたたった合計四通のメールがまだ携帯電話のなかに残されているからなのかも知れないと一瞬だけ考えたが携帯電話はいつまでも振動し続けるのでそいつを手に取って番号表示を見たが非通知でいつもなら絶対に無視するはずだがなぜかそのときは不思議と電話に出る気になっていた。

 ——すまない、犬小屋がうるさいからかけさせてもらった。

 と符丁を使って話す電話の向こうのやたらと通る声のキザな喋り方の男が社長であることはすぐにわかったから電話を少し耳から離すと社長はほとんど間髪入れずに

 ——カメがいたことに気づいたか?

 俺は気づかなかったと答えながら緑地公園の青井池という名前とほど遠い暗い灰色の池というより沼みたいな水たまりを眺めるために作られたらしいやたらけばけばしいピンク色に塗られたベンチに女は座っていてこのベンチを作った奴はきっと俺よりも脳味噌が腐りきってイカれまくってるに違いないだろうと俺は確信しながらもそのベンチに座っていた女は実年齢の四十六歳よりもずっとずっと若く三十代前半に見えたしそう女に言うと女はいつも少女みたいに恥ずかしそうに顔を赤らめたものだがだからといって俺は俺がやるべき仕事を中止するわけにはいかないのでシャツの左袖に隠れているリングに右の中指を通して女の背後に回り女が振り向く直前にリングで左袖に仕込んだワイヤーを一気に引き出して女の首に巻き付けて力いっぱいに引き絞った。

 ——おまえもヤキが回ったか? 間違いなくカメがいたに違いない。

 電話から聞こえる社長の声を無視して俺はワイヤーを締め上げたときに見た女の舌を思い出していてこんなに長かったのかと思うほど長い長い長い舌を突き出して俺はこの舌にペニスを舐められることを想像しながらワイヤーを締め続け女は五秒後に失禁してアンモニア臭が下の方から漂い始めて俺はそれを肺の中にしっかりと収めてやることがこの女のためのような気がしたのだがその直後に女のあらゆる穴から糞便やら血やら唾液やら汗やらいろいろな液体がじわじわじわじわじわじわじわじわと漏れ出してその鼻孔を突く臭気もちゃんと肺全体に行き渡るように嗅いで肺胞の細胞一つ一つまでその匂いを染み込ませてやると女の全身から力が抜けてベンチから転がり落ちて仰向けに倒れて眼を見開いていたがその眼球はもう俺を見ていないことはわかっていたし女のスカートの裾がまくれ上がっていたので直してやりその黒いストッキングで覆われた太ももを覆い隠すと今度は女の半開きの口から飛び出した舌も戻してやろうかと考えたが舌が飛び出していても女はまだ充分に綺麗だったのでついついその舌を吸いたくなったがさすがに俺もそこまでバカじゃないのでそのままにしておいて三秒半ばかりその屍体を見下ろしたあと傍らの女のバッグから財布と携帯電話を抜き取ってすぐに携帯の電源を切ってそいつらを持ったまま緑地公園を出たのだが視覚と嗅覚だけを働かせていたんじゃこの商売はできないわけで俺が女の放つ臭気を吸い込んでいたせいでカメの存在に気づかなかったなんてことがあるだろうかと考えたら二秒後にはあり得るかも知れないと結論が出たが社長には言わなかった。

 ——どうしてたった一分半後に……九十秒後だぞ! ワン公の鈴が鳴った?

 社長は無造作に言い捨てたけれど俺は何も答えを返すことができなかったのでとりあえずそんなこと俺の知ったことじゃないとだけ答えて即座に電話を切った。

 すぐにこの携帯電話を処分しなければいけないことを思い起こして軍手をはめて電話本体からバッテリを外してSIMカードを抜き取ると二つに折ってまた二つに折り曲げるとほんの刹那女とのメールのやりとりを思い出して鼻の穴の奥になにかつんとする痛みに似たものを感じたけれど気のせいだと思い直してSIMカードをアルミの灰皿に放り込んでラジオペンチで本体のプラスチックカバーを苦労してはぎ取って内部の集積回路を引っ張り出してニッパーで切り刻んでバラバラの破片にしてその後でまったく同じことをあの女の携帯電話にもやり始めるとまるで俺があの女の体を犯しているような気分になったが結局あの女を犯すどころかキスさえもせず触れたのは呼吸を止めるために締め上げるワイヤー越しだったのが最初で最後だったと思い出しながらテーブルの上にプラスチックと集積回路の細かい破片の山を作って数えてみたら全部で四百六十四個あったけれどそんなものをわざわざ数える必要はなかったと数え終わってから気が付いてバカバカしくなりながら四百六十四個の破片を全部アルミの灰皿に入れて片手でペンチを使って灰皿を摑んで反対の手で小型のブタンガスバーナーの火であぶるとかつて携帯電話であった残骸は黒い煤を上げながら焦げて溶けて歪んで変形して原形のわからない黒い塊になるまで見届けているうちにまた鼻の奥に何か痛みみたいなものを覚えたがロイヤル・サルート二十一年をショットグラスで二杯飲んだら少し消えた。


 ゴーヤと缶詰のポークランチョンミートに火が通った頃にアルコール度四十五度の泡盛の古酒を流し入れるとフライパンが盛大に炎を上げてフランベしてそこに水を切ってあらかじめ焼き色を付けておいた豆腐を入れてさらに炒めて塩とみりんとうす口醤油で味付けをしてから溶き卵を流し込んでよく混ぜるとゴーヤチャンプルーができあがったがこの作り方を教えてくれたコザ出身のミツルという名前だったTVの男の味にはまだまだ至らないなと悔しく思ったがそれでも泡盛のロックをやりながら喰うと充分に美味かったので俺はミツルにもっと詳しい隠し味を教えてもらうべきだったと考えていたらいつの間にか泡盛の瓶は空になっていたので二本目をキッチンへ取りに行ってさっきのが最後の一本だったことを知りミツルを殺す前にあと何本かもらっておけばよかったと考えて代わりにロイヤル・サルート21年をロックでやることにしてグラスに琥珀色のアルコールを注ぐとダイニングへ戻ってテレビのリモコンを探しながらそういえばTVはテレヴィジョンの略じゃないことなんかミツルと会うまで知ることはなかったのだなと気づき可笑しくなってけらけらけらけらけらと笑いながらロイヤル・サルートのロックを飲み干してリモコンのボタンを押したらスピーカーからは出し抜けに俺の理解できないノイズばかりが飛び出してきたのでここは日本じゃなかったのかとしばし思案してみたけれどやっぱり俺のマンション以外にあり得なかったので俺の耳か脳味噌かどっちかがそれとも両方がおかしくなっているのだろうと結論を出してどっちにせよ大した問題じゃなかったので二杯目のロイヤル・サルートを飲み干してTVってのはトランス・ヴェスタイトの略だそんなこともテレビのくせに知らないのかバカ野郎とテレビに向かって毒づいてリモコンでスイッチを切った。


 ロイヤル・サルートを合計六杯飲んでからベッドに潜り込んだがすぐに眠りに落ち込んで死んだように眠れてこのまま目覚めなきゃいいのにと思うくらい深く深く深く深く深くもしかしたら地獄の底までたどり着けたんじゃないかと思えるくらいに深く眠れた。


 海辺に建つ掘っ立て小屋の前で婆さんが老いた姿をさらして生き別れになった息子と娘の名前をかすれたぼそぼそとした声で歌い続けてそれを聴いて息子は婆さんが長年探し求めた生き別れた母だと気づいて泣きながら母親に抱きつくが婆さんのほうは相変わらずうつろな眼でどこか遠くを見ながら息子と娘の名を歌い続けていてカメラが切り替わって広い広い広い広い広い広い海と空を映し出してそれはモノクロ画面だったけれどどこまでもどこまでもどこまでもどこまでも深くて青いことはどうしようもなく俺にはわかったがそこで映画は終わって俺はぽろぽろぽろぽろぽろとこぼれる涙を拭おうとしたらそんな余裕を与えることなくいきなり映画館内の明かりが点いたので昔の映画は長ったらしいエンドタイトルなんかなかったことを思い出したがすぐに席を立つ気がしなくて座ったままほとんど溶けた氷の味しかしないアップル・ジュースをストローで吸って意外に汚い映画館のスクリーンを眺めていると誰かが近づいてくる気配があったが殺意は感じられなかったので無視を決め込んでアップル・ジュースというか溶けた氷を飲み干した。

 ——泣いてるの?

 唐突に声が聞こえて俺はため息をついてもう少しいちゃ駄目ですかと訊きながら相手を見やると映画館の係員じゃなくて淡いブルーのハイネックのセーターにジーンズ姿の若い女でどこかで見たことのような顔だと思ったが俺の記憶力は心臓が二度も打たないうちになぜそんなことを思ったのか理由を見つけ出すことができたしだいたいそういう能力がなければこの業界で生き延びていくことはできない。

 ——べつにいいと思うけど、こういう映画観て泣く人に見えない。

 女は口を少しとがらすように言って俺は何と返事すべきか三秒間ほど迷ってから確かに俺は泣いたけどこの映画で泣かない奴のほうがどうかしてると思わないかと問うと、

 ——あたしはこのくらいじゃ泣かない。あたしってどうかしてるのかな。

 と首をかしげて心底不思議そうに言うから俺はあんたの性格は知らないし気を悪くしたらすまないと言って空のカップを手にして立ち上がると俺の背中に向かって、

 ——あたしとやりたい?

 俺は自分の耳か脳味噌かその両方がまたしても狂っちまったのかと思ってもう一度相手を振り返っておまえはいくつだと訊くとほんの一呼吸遅れてから、

 ——ハタチ。

 とぬけぬけと言うので俺は暇じゃないしカネもないしもしあったとしても淫行で捕まる気はないからとっとと失せろと言ったら、

 ——でも殺人で捕まるかも知れないじゃん?

 俺は無意識のうちにアップル・ジュースの空の紙コップを握りつぶしていたことにそのときになって気がついてその右手の力を抜くとあんたが言いたいことが何なのかよくわからないし今の映画で泣かないような奴とこれ以上話すことなんてないと言って座席から立ち上がって足早に出入り口のドアに向かうと、

 ——ママは、やったんでしょ?

 微笑みながら無邪気な口調と表情でまっすぐに正面から俺の顔を見据えて尋ねてくるので俺はついついやるっていうのはおまんこのことか殺すことかどっちだとまともに訊き返してしまったがそれとほとんど同時に劇場の係員が半透明のゴミ袋を片手に入ってきて、

 ——お客様、場内の清掃をしますので……。

 と口ごもりながら俺と女の二人を交互に見やるので俺は係員のゴミ袋にアップル・ジュースの紙コップを放り込んで映画館をほとんど駆け足で出て午後十時十三分の雑踏のなかに入り込み平日の夜なのにどうしてこんなに人間が歩き回っているのか不思議に思いながら三番目に眼に留まったパチンコ屋に入ってとりあえず一万円だけスロットに吸い込ませてからトイレの個室に入って排泄行為を終えたあともしばらくのあいだずっと意味もなく便器に座ってから腕時計を見て二十一分たっていたのでトイレから逃れ出てパチンコ屋から出ようとすると自動ドアの向こうでおまえが笑っていた。

 ——ママのこと、聞かせてよ。

 おまえはそう言って俺の腕を摑んで引っ張り世界中にクソ不味いハンバーガーを売りまくっている店に俺を連れ込んで勝手に死ぬほど不味いチーズバーガーとポテトのLとコーラのLを二つずつ注文してそのときが俺とおまえとのはじめての出逢いだったとおまえは思っていたかも知れないがそれは間違いだ。


 植物園の温室のなかは当たり前だがクソ暑く熱帯のマングローブの木々を植えた池のそばにカフェのような真っ白なテーブルと椅子が並んでいてこんなところに座ってくつろいで楽しい気分になる奴がいるのだろうかと思いながら椅子に座ってテーブルの下に手を伸ばすと予定通り大きめの封筒がテーブルの裏側にガムテープで貼り付けてあって監視カメラも他の客も係員もいないのでそいつをびりびりびりびりと大きな音を立てて堂々と引き剥がしてすぐにリュックに放り込んで立ち上がり隣の温室へ入ると少しは湿度が低かったが眼の前にバカデカいサボテンが立っていてトゲトゲのある埴輪はにわみたいな姿をしていたのでおかしくて笑い出してしまいその隣にはどんなにとち狂った人間でも作り出せないようなもっとクレイジーな形をしたサボテンが立っていてこれもまた何かの冗談みたいでげらげらげらげらげらと笑い出してその部屋を抜けると今度はまた蒸し暑い部屋でどこかで見たことのあるような巨大な葉っぱがあちこちから伸びていて通路にまではみ出して俺はそいつらを引きちぎってやろうかと思ったけれどやめて温室を出たけれど外の世界も温室とそんなに変わらないくらいにクソ蒸し暑くてさっきのサボテンの部屋のほうがまだマシだったと思いながらドリンクの自販機が並ぶ日陰のベンチへ移動してビールは売っていないのかと思ったらやっぱり酒は売っていなかったので適当に自販機のボタンを押したらあろうことかコーラがごとんと落ちてきてしかたなくベンチに座ってコーラを飲み始めたが四口目でもう吐きそうになったがそのときにミツルはやたらとコーラが好きだったことを不意に思い起こして淡いピンク色のキャミソールを着て上手そうにカロリー・ゼロのコーラをカクテルのようにチビチビと飲んでいた姿が甦ってきて少し狼狽ろうばいしたけれどあのときのミツルはとても綺麗だったし実際に周囲の客の男どもが七回ほどミツルを振り返る光景を俺は目撃したがミツルがコーラを飲み干した二十一分後に俺はミツルの口を左手で押さえてその柔らかい唇を感じながら右手に持ったナイフの切っ先をミツルの右耳の後ろのちょうど頭蓋骨と頸椎けいついの隙間に滑り込ませるようにして脳髄に達するまで突き刺したらミツルはほとんど表情を変えずに死んだのでたぶん痛みは感じなかっただろうし自分に何が起こったのかさえ理解できなかったはずだと俺は思い出しながら缶に半分以上残っているコーラを自販機の脇の木の根元へ流して泡が消えて染み込んだのを見届けてからその木の根元にコーラの缶を立てたがべつに深い意味はない。


 ステレオで古今亭志ん生のかわを聴きながら俺は白い携帯電話を使うのは初めてだなと気づいたがどうせ四日後には捨てるのだから色なんかどうだっていいと思いつつテーブルの上に置いて同じ封筒に入っていたUSBメモリをノートパソコンに接続してファイルを開いたら特殊業務対象者の顔写真を見てあまりにも善良を形にしたかのような中年男の笑顔に俺は素面では見ていられないなと思ってキッチンへ行ってグラスに冷凍庫から氷を四個放り込んでロイヤル・サルートを注いでまず多めに一口飲み下してその熱い液体が喉元から胃の腑へ落ちているのを感じてもう一口多めに飲み込みまたしても熱が落ちて行くのを覚えて少し血の巡りが良くなったような気がしたのでパソコンの前へ戻ってスピーカーから酔っぱらった夫がたまたま通りかかった男にからんでいる様子を聴きながらファイルの続きを見ると男は四十七歳のF警察署交通課の巡査長で交番勤務と書かれていてつまりノン・キャリアの下っ端警官であることがわかったがどうしてそんな町のお巡りさんを殺したがるのかよく理解できなかったが今回もまた深く考えることをやめて続きを読むと二十歳を頭に四人の子持ちで一番下の娘はまだ九歳でこのクソUSBメモリにはご丁寧にも東南アジアらしい場所で撮った家族旅行の記念写真まで入っていて俺は気が重くなって気づいたら五杯目のロイヤル・サルートのロックを飲み干していてどうしてこんなクソくだらない写真まで寄越したんだ俺に対する嫌がらせかと社長に電話してやろうかと思ったけれど思いとどまって六杯目のロックを作って飲みながら次のファイル開くと今度の写真はどこから入手したのかどれもひどく画質が悪くてろくに顔の判別もつかないような代物で俺は心底げんなりしてしまってさらに次のファイルも次のファイルも次のファイルも解像度の低い代物でこんな使い物にならない写真を送ってくるなバカ野郎と声に出して同時に合計五人もの処理を依頼してくるなんてほんとにトチ狂ってるしいくら人手不足でもそんな前代未聞の依頼を全部引き受けるほど俺はお人好しだと思われているのかと一度は収まりかけてたはずの俺の怒りが甦ってきて今度こそ本当に社長に電話してやろうと白い携帯電話を手にしたがパソコンのディスプレイに表示された新たなファイルを読んだ瞬間に俺の毛穴は間違いなく開いて心臓は二拍か三拍打ち損なって古今亭志ん生の声が耳から遠ざかって行って俺は白い携帯電話をテーブルに置いて六杯目のロイヤル・サルートを飲み干して椅子から立ち上がって七杯目を作ってそいつを一気に半分飲み下してもう一度ディスプレイを見たがやっぱり見間違いじゃなかった。

 俺のほうがこいつら四人の対象者だった。


 気の強い姉は問題児の弟と喧嘩しながらともに生きてきたが弟は結核にかかってしまいそんな弟を懸命に健気けなげに看病するが弟の容態は一向によくなる様子を見せずそれでも気丈な姉は弟と自分の手首とピンク色のリボンで結んで病室のベッドに横たわる弟に向かってもしも何かあったら引っ張れと弟に告げてベッドの脇の床に布団を敷いて寝て二人を結ぶピンク色のリボンをカメラはなめるように移動して撮っていた。


 交番というところはもっとも防犯対策のなってない場所なのが不思議で街角のいたるところに監視カメラが次々に設置されて巡回する警察車輌や制服警官の姿をよく見かけるようになったけど交番のなかはまったく世の中と矛盾しているのがバカげておかしかったが俺は笑わずに真顔を作って事前に調べておいた管轄内のマンションの名前を言って道順を聞くとその制服警官は丁寧に地図を広げて交番からの道筋を順序よく俺に教え始めたが俺はもちろんそんなことは耳に入れていなくて地図に顔を近づけるふりをしながらズボンのポケットから特製の棍棒を取り出しながらあれっその道は確かにさっき通ったはずなんですけど右手にマンションが見えるはずですよねと訊くと真面目なノンキャリ四十七歳四児の父である巡査長は人懐っこい笑みを浮かべて、

 ——先月、駐車場だったところに新しくマンションが建ったから道路からは見えなくなっちゃったんですよ。

 と教えてくれて俺はああそうですかじゃあ前の道を戻ってコンビニの角を左に折れればいいんですねと言いながら棍棒を巡査長の左側頭部に叩きつけると確かな手応えとともに真面目な巡査長は声を上げることすらなくデスクの向こうに倒れ込み俺は素早くデスクを回り込んで親切な巡査長が必死に起き上がろうとする姿を見下ろして一瞬だけ東南アジアへの家族旅行の写真を鮮明に思い出したがいつもいつもいつもいつも殺す理由を考えても無駄だと分かり切っていたしいちいち相手の家族のことなんか考えたことがなかったのになぜ今日に限ってこんなことを感じるのかと少しだけ頭の片隅に悩みの塊を抱えながら巡査長の頭を両腕で抱え込むと一気にひねって頸椎を折ってその鈍い感触は全身を痺れさせたがそれはあんまり気持ちのいいものじゃなくてだいたい気持ちのいい殺し方なんか俺は一つも知らなかったのでとにかくすぐさま巡査長の屍体を二階の当直室へ続く階段の下へ引きずり込んでデスクの上にプラスチックのただいま巡回中ですという表示板を立てて交番を出て扉を閉めて歩いて二分もかからない公園の砂場に行くと棍棒を解体したがそれはただのパンティストッキングに砂を詰め込んで砂が漏れないようにラップでくるんだだけのもので砂を採った公園の砂場に中身をばらまいて公園を出て防犯カメラという名前の監視カメラのない道筋を脳味噌の奥底から引っ張り出してその道筋どおりに歩いて途中のコンビニエンス・ストアの前のゴミ箱にパンティストッキングを捨てて缶ビールと肉まんとピザまんを買って喰いながらJRの駅まで遠回りして歩いて駅のゴミ箱にビールの空き缶とコンビニエンス・ストアの袋と一緒にラップを捨てたがもちろんラップに血痕も指紋なども付着していない自信はあったしそれは同じ方法を今まで七回は使っているので砂の詰め方や殴る力の入れ方や殴る場所が俺にはよくわかっているからだ。


 それから五十二分後に俺は映画館のシートに腰を落ち着けて姉と弟の物語を観始めたんだがやっぱりピンクのリボンのあたりで俺の涙腺はゆるみ始めてラストにはもう画面がにじんでにじんでいくら袖で拭いてもにじんでにじんでいくら鼻をかんでもにじんでにじんでこの映画を観るのは今日で六回目なのにそれでもどうしてこんなにモノクロともカラーともつかぬ独特の色合いの映像から視線を離すことができずに毎回毎回泣いてしまうんだろうかとちらっと思った隙に映画は衝撃的に断ち切られたように唐突に終わって場内が明るくなった。

 ——また泣いてる。

 右隣の座席のおまえは言ったが俺はおまえが上映開始十三分後にすでに隣に座っていることに気づいていたしきっとおまえは俺が気づいていることに気づかなかっただろうと思いながら俺はおまえにおまえは映画で泣いたことがないのかと訊くと、

 ——泣いたよ、アルマゲドン。DVDレンタルしてうちで観たけど、家族全員が泣いちゃった。

 俺は自分の涙なんかどこかに消えちまって借りたDVDを観て映画を観た気分になれるおまえらがうらやましいしおまえの言ったクソ隕石が落ちてくるクソ映画は俺も何年か前についつい時間つぶしに入った映画館で間違って観ちまったけど死ぬほどバカ過ぎるストーリーだったから俺は座席で腹を抱えて大爆笑して腹筋が痛くて痛くて痛くて痛くてしかたなかったけど奇妙なことに映画館のなかで笑ってたのは俺だけだったがおかしいのは俺なのかあのクソ映画を観て泣くおまえらみたいな種族の連中なのかどっちなんだと訊くとおまえは、

 ——最低。

 一言だけ答えて座席から立ち上がったので俺はますます笑いそうになっておまえのお袋さんもあのクソ映画を観て泣いたのかと訊いたが二十六秒待ってもおまえからは答えが返ってこなかったのでしかたなく俺も座席を立つとおまえは、

 ——でも今の映画、なんか良かったよ。白黒映画じゃないしカラーじゃないし、古いけどなんか新しかった。

 なんて言いやがるから俺はついついご託を並べたくなってフィルムが褪色してるからほんとの色は今じゃ映画館ではまず観られないけどこれは大正時代の空気感を表現するために監督とカメラマンが一緒に開発した銀残ぎんのこしっていう方法で今じゃ映画はコンピュータで編集してるから簡単に誰にでも真似できるけどこの当時はカラーネガを現像液にけて経験と勘だけでまだ完全にネガの上の銀の粒子が抜けきっていないうちに液から取り出してああいう微妙な色合いの映像を作ったから銀残しっていうんだしこの映画のカメラマンはこの前おまえと会ったとき観ていた映画の撮影をした人で日本で最高というか世界でも最高のカメラマンであの人を超えるカメラマンはたぶん今の全世界探してもいないんじゃないかと俺はまくしたててしまった。

 ——映画に詳しいんだ。

 おまえの感想はたったそれだけで俺は長広舌を繰り広げたことがほとほとバカバカしくなって足早に劇場を出たら小雨がぱらついていたのでほとんど駆け足で歩き出しながらもおまえが背後から懸命に追ってくるのに気づいたし別の存在にも気づいていた。

 ——ねえ怒った? あたしが泣かなかったから怒った?

 俺は競歩選手のような速度で進みながら怒ってないからもっと近くに来いと言っておまえの腕を摑むとおまえは反射的に身を引いてついこの前自分とやりたいかと訊いた人間とは思えないなとつぶやいておまえの腕を無理矢理引っ張って映画館の三軒隣の四階建てのパソコン・ショップに入った。

 ——買い物するの?

 俺は違うと短く言って一階のウィンドウズ・コーナーを素早く通り抜けて二階のソフト売り場へエスカレーターで上がり一部の人間に美少女と思われているらしいが俺にはグロテスクにしか見えないキャラクターが描かれたソフトの並んだ棚のあいだに入ったがそこには妙に弛緩しかんした空気を漂わせた男たちが美少女と思われているらしいグロテスクなイラストの描かれたパッケージをためつすがめつしていてたぶん男たちにはそれなりに少しは魅力的に見えるはずのおまえにはこの連中が見向きもしないのが不思議で俺はたぶんここにいる十一人のうち少なくとも九人は童貞で現実世界の女には興味がないんだろうと余計なことを考えながらおまえの腕を引いて無言の男たちのあいだを通り抜けた。

 ——何探してるの?

 探してるんじゃない探されてるんだと小声で短く答えてレジの脇のトイレへ向かって進んでおまえにトイレに行ってこい行きたくなくても行ってこい個室に入って待ってそして十五分いや二十分たったら出てこの店の一階の入り口に一番近いところにある携帯電話売り場で待ってろと言ったがおまえはなおそれでも、

 ——あたしおしっこなんかしたくない。トイレ行きたいならあたしここで待ってる。

 黙れと一言ぶつけるとおまえはなぜか悲しそうな顔になって俺はおまえが女子トイレのドアを押し開けて入るところまで見届けると俺は男子トイレに入り内部を確認すると二つの個室は両方とも使用中で念のためノックすると両方からおどおどとしたノックが返ってきてそれどころか片方からは放屁の音まで聞こえたので俺は小便器の前に立って一物を出すことはせずに代わりにシャツの左袖に仕込んだリングをいつでも使えるように出して待つことにしてそれから四十一秒後に右側の個室が開いて痩せてメガネをかけた猫背の二十代前半の男がおどおどと現れて念入りに石鹸を使って手を洗って出て行くのと入れ替わりに人影が入ってきたがスーツ姿の三十代後半の額が広く頬骨の張った小柄なその男が俺を一瞥して男の眼の奥に一瞬だけ冥い光が宿るのを俺は見逃さなかったしたぶん俺の眼にも同じような色の光が明滅したのを相手も見逃さなかったに違いなかったが俺のほうは準備ができていた。

 男が鈍く光るものを突き出すのと同時に俺は男の手首を取って相手の力に逆らわずに軽くひねり上げて男が声を出す前に個室に押し込んで左手で男の口をふさいで右手で男の手首の骨をひと息に折ると鈍い音がして男の手から刃渡りが二十五センチ以上ありそうなナイフが落ちてこんなバカでかい得物で俺を殺ろうとしていたのかと吹き出しそうになったが笑いを飲み込んで個室の鍵を掛け便器の水を流して雑音を消しそのあいだに右手の中指を左袖に仕込んだリングに通すと一気に引っ張り出してワイヤーを伸ばし男の首に巻き付けて全力で締め上げ男が脚をばたつかせてドアや隣の個室とのあいだの壁を蹴らないようにできるだけ個室の隅へ男を押しやってさらに締め上げて心臓がちょうど四回鼓動すると隣の個室からシャワー・トイレでケツを洗う音が聞こえたので俺はもう一度便器のレバーを押して盛大に水を流してワイヤーを引く手にさらに力を込めてとっくに男の気管はつぶれているはずだったがそれでも男はまだぴくぴくと動いていてさらに十三秒後に男の眼球が裏返って白眼を剥き股間から排泄物が垂れ流される臭気が漂い始めたのとほとんど同時に隣の個室でトイレットペーパーで何度も何度も何度も何度も何度もケツを拭う音が聞こえてあんなに拭いたら肛門が真っ赤に腫れ上がっちまうんじゃないかと一瞬思ったが他人のケツの穴の心配をしている場合じゃないので俺はとっくにくたばった眼の前の男を離してワイヤーを左袖に収めてから男をそっと便器に座らせて排泄物まみれのズボンとパンツを苦労して脱がせ膝まで下げて便意を催してトイレに駆け込んだけれど残念ながら間に合わなかった憐れな男といった姿勢をとらせたがそう見るとゆがんだ男の死に顔がまた情けなくて笑えたが笑わずに床に落ちた冗談みたいにでかいナイフというか短刀を拾い上げて男の体を探るとそのナイフのための革製の鞘を銃のホルスターみたいに左脇の下にぶら下げていていったいこの野郎はほんとうにプロなのかアホなんじゃないかと俺は呆れ返ったがナイフを男のホルスターに収めてさらにもう一度トイレの水を流してドアの上に手を掛けてそっとトイレ内を見渡すとちょうど誰もいなかったので足跡をドアノブに付けたりしないように俺は腕の力だけでドアをよじ登って個室から外に出た。

 俺のほうがよほど呆れ返るほどアホでプロらしくなかった。

 隣の個室のドアが勢いよく開き妙に青白い顔の男が飛び出して来て心臓が一度拍動するあいだに白とオレンジの混じった色の閃光と同時に空気を切り裂くこもった破裂音が聞こえて俺は隣の屁コキ野郎が個室から外に出る音を確認していなかったしまさかそいつが今殺した奴の仲間だと気づかなかったしまさかそいつがコルトP22なんかを使うとも思っていなかったしまさかその銃弾が俺の右の脇腹をぶち抜くなんてことも思っていなかった。


 ——遅いよ、六、いや七分遅刻!

 おまえは笑顔で言ったが俺はおまえの耳元で早く外に出ろと短く言うと何かがおまえに伝わったのかおまえは何も言わずに俺の腕にしがみついてパソコン・ショップのビルから夜の路上へと駆け出たが雨はさっきよりも強くなっていて俺はどういうわけか脚に力が入らなくて視界がぐらぐら揺れて苦労したが黒っぽいチノパンを穿いているから血が目立たなくてよかったしたぶん地面にはそろそろ俺の右の足元に赤黒い足跡ができ始めているだろうし雨がそれを流してくれるってことは俺はあきれ返るほど間抜けだけどまだツキに見放されちゃいないってことだと無理に思いながらおまえに振り返ったら駄目だと言うとおまえは無言でうなずいてますます俺の腕に強くしがみついた。

 ——怪我したの?

 たぶんっていうか間違いなく怪我したしこんな怪我の仕方は大バカ野郎以外の何者でもないし俺もかなりヤキが回ったみたいだがそんなことはどうでもいいから黙ってできるだけたくさん人がいるところを歩くんだと言うとおまえは、

 ——一人で喋ってるのはそっちだよ。怪我ってどのくらいの怪我? 絆創膏持ってるけど。

 バンソーコーと来たかそりゃ面白い冗談だよけれど今の俺は笑えないなと言った瞬間に電撃のように痛みが走ってそういえば今までまったく痛みを感じていなかったことに気づきそう気づいた途端に痛くなってきやがって俺は笑い声の代わりにうめき声を漏らした。

 ——怪我、ひどいの? どうしよう、病院行かなきゃ。救急車呼ぶ?

 おまえははじめて真顔になったが救急車なんて呼べるわけないだろうとかろうじてつぶやいて声が出なくなっていることに少し動揺したがそれを押し隠して右手で脇腹を押さえたまま上着の右のポケットに左手を苦労して突っ込んで白い携帯電話を取り出したが手がひどく震えていてただそれだけのことにひどく時間がかかったような気がしていらつき携帯電話は左のポケットに入れておけばよかったと一瞬だけ思ったが左を撃たれたらまた同じことじゃないかと思って取り出した携帯電話を見たらそいつは俺の血がべっとりとこびりついて赤と白のまだら模様になっていてそのときになって携帯電話が銃弾を食い止めてくれるなんていうムシのいい話はあり得ないんだなと心のなかで苦笑してどうしようもなくぶるぶるぶるぶるぶるぶる震える手でおまえに携帯を渡すとおまえは何か汚い物でも見たように顔をこわばらせたが確かに俺の体を流れている血はひどく汚れてるからおまえのその直感は間違っちゃいない。

 ——だ、大丈夫なの?

 大丈夫に見えるかそんなことより歩き続けろ止まるなそれから頼みがあるけど俺の代わりに電話してくれ情けないことに指が震えて動かないと言って俺は暗記している番号を告げておまえは素直にダイヤルして俺に電話を差し出して相手が出るや否やさかりのついた野良猫と喧嘩してうちのが引っ掻かれちまったと言うと電話の向こうで社長が一瞬息を呑む気配があった。

 ——で、野良猫は?

 俺よりも相手の心配をするとはさすが社長だなと思いながら俺は一匹は蹴飛ばしてやったがもう一匹がしつこいと言い、

 ——君んとこの猫ちゃんはどうなんだ? どの程度引っ掻かれた?

 かなり。

 ——かなりってどのくらいだ?

 ニャーニャー鳴くこともできないくらいだよカッコ悪けどネコたちのあいだじゃよくあることだからいつもみたいになんとかするし今思い出したが蹴飛ばしてやったのは三毛猫だったし引っ掻きやがったのは真っ白い野良だ。

 ——ちょっと待て、あと三匹……

 俺は電話を切ってさらに電源も落として左のポケットに放り込んでおまえに向かってカネは持ってるかと訊くと、

 ——おカネって……一万円くらい……。

 ずいぶん持ってるんだなだったらさっさとタクシーを拾ってすぐに家に帰れ。

 ——そんなこと、できないよ。

 安心しろ相手の野良ちゃんが狙ってるのは俺だけだし俺がこれから行くところにおまえを連れて行くわけにいかない。

 ——バッカじゃないの? そんなにフラフラでどこへも行けるワケ……

 うるさい黙れ早くタクシーを拾えと言ったことだけは覚えているがそのあとの俺の記憶はどこか幕がかかっているみたいで確か俺たちは赤信号で止められて周りには日付が変わる頃のはずなのにやたらと大勢の人がいてそのどこかに屁コキ野良猫野郎がいるのかと思うとじっとしていることもできず横に渡ろうにもセミスクランブルの交差点だからそれも無理でかすんだ視界に入ってきたタクシーに向かって手を挙げたつもりだったがおまえは俺の腕………………………………………………………………………………………………………………………


……………………………………………………………………………………………………………………………………………眼を開いて俺が眼を開けたなんて凄いじゃないかと思って最初に視界に入ってきたのがミドリ先生だったから俺はミドリ先生も死んだのかと訊くとミドリ先生はそっと細い腕を伸ばして俺の髪をなでながら笑みを浮かべて、

 ——あの子、新しいカノジョ? 感謝しなさいね。

 と言って俺の視界から去っていったので眼を閉じてそれから何秒か何分か何時間かわからないがウトウトしてまた眼を開けるとおまえがいた。

 ——綺麗な先生……カノジョなの?

 おまえもミドリ先生と同じことを訊くので可笑しかったが腹筋に力が入らず間の抜けた顔をしてそんなこともあったかも知れないけどもう忘れたとバカ正直に答えるとおまえは、

 ——でも、生きててよかった。もう死んじゃったかと思った。

 と言いおまえの両の眼が潤んでいるのは俺の錯覚かと思ったがそれ以上その点について考えないようにしてどうして俺は生きてるんだというかここはどこなんだと訊いた。

 ——ここ? あたしんち。

 耳を疑って俺はヘタクソなウソだと思ったがおまえはこれ以上あり得ないほど真面目な顔だったので俺はもしかして撃たれたのは腹じゃなくて頭だったのかと疑ったがおまえは、

 ——だってほかに行くところがなかったんだもん。

 バカ野郎タクシーを拾えと言ったのはおまえが帰るためでなんてふざけたことをしやがったんだと言いたかったが怒鳴ろうとしても下腹部に力が入らずかすれた弱い声しか出ないことにますますいらだってなぜここにミドリ先生がいるんだいや答えなくてもわかる俺のあの白っていうか白と赤のまだらの携帯電話でリダイヤルして俺のこんなクソろくでもない状況を社長つまり電話の相手にしゃべったら奴がミドリ先生を寄越したってことなんだろうと一気にまくしたてたら急激に疲れが神経という神経から湧き出てきて脳味噌の働きも鈍くなってきたがまだ休むわけにいかず俺は前よりもいっそうクソみたいな状況に陥ったことを感じて激しく眩暈がしたがそれは血を失ったせいかも知れない。

 ——あたし、何か悪いことした? こうでもしなきゃ死んじゃってたかもしれないんだよ。

 俺がくたばるよりももっと悪いことが世の中にあるってことはおまえの頭には浮かばなかったのかと八割のため息とともに言ったあとに俺ははじめておまえの名前を呼んだ。

 おまえはかっと眼を見開いて熱帯魚みたいな顔になって口をぱくぱくと開け閉めしたので俺はちょっと笑っておまえの顔には似合わないから口は閉じてたほうがいいと言った。

 ——な、なんで、知ってるの?

 殺す相手の仕事や家族については全部下調べをするのが業界の常識だと言っておまえの生年月日から通った幼稚園から今在籍している私立高校までを全部列挙してさらに別居しているおまえの父親の勤務している製薬会社の名前と今一緒に暮らしている愛人の名前と俺が殺した母親が働いていた洋菓子屋の名前まで全部立て続けに言い放つとおまえの顔色は心なしか青ざめたがべつに驚くほどのことじゃないしむしろおまえに映画館で出会ったときの俺の驚きのほうが大きいが今じゃおまえがどうやって俺を知ったのかわかってる。

 ——あたし……見たの。緑地公園の池……。

 そんなことはわかってるし俺がお袋さんを絞め殺した直後に警察に電話したのもおまえ以外にいないしそもそもの発端がおまえだってこともわかってるから弁解しなくていい。

 ——そもそもの発端、って何のこと?

 とぼけるのも弁解するのも取り繕うのも時間のムダだから何も言うなおまえがいちばんよく知っているように殺しの依頼した人間がおまえだってことだ。

 たぶん目玉がぶっ飛ぶほど高価な絨毯の上におまえはぺたんと腰を落として座り込んだので頼むから泣くのだけは勘弁してくれと思ったがおまえは泣かなかったので俺はおまえが電話したあとに迎えに来たのはミドリ先生だけかと尋ねると黙ったままこくんとうなずいたのでじゃあミドリ先生を呼んできてくれと言うとおまえは殊勝な顔つきで立ち上がって部屋を出て行き俺は改めて俺の周囲を見回すとここは十二畳ほどある部屋で天井は俺の家よりもずっと高くてシャンデリアを模した照明がぶら下がっていて絵に描いたようなというか言い換えると漫画にでも出てきそうな陳腐な作りだがカネは徹底的にかかっている部屋で俺はたぶんここは二階の客間なんだろうと想像してベッドサイドの小テーブルの上の空っぽの花瓶の横のデジタル式電波時計の表示を見て午前一時九分を指しているのを確認してそれほど時間が経っていないのにわずかにほっとしてさらにその隣に俺のiPodとイヤフォンも置いてありさらに安心して今度は俺自身に注意を向けると当たり前だが服を脱がされていてワイヤー入りのシャツを含めて俺の着ていたものは見当たらなかったがミドリ先生のことだからちゃんとすべてうまく処理してくれるはずなので心配はしていなかったし俺の腹部にぐるぐるぐるぐるぐると厳重に巻いてある包帯を手で触ってやっぱりミドリ先生だから大丈夫だと思ってとりあえずトランクスとスウェットらしいものを下半身に穿いていることを手探りで感じて穿いていたパンツを替えたのはミドリ先生なのかおまえなのかどっちだろうかという考えが一瞬よぎったがすぐにもっとべつのもっと大きな心配について考えなきゃいけないと思ったが頭の歯車がうまく回らなかった。

 ——傷はすぐにふさがると思う。傷の大きさから22口径だと思うけど、危険なところは全部避けて貫通してる。幸運の女神に感謝しなさい。

 いつの間にか部屋に戻っていたミドリ先生が言って誰のことなんだ幸運の女神どころかトラブルの種になっちまって俺はどうしていいのかよくわからないが脳細胞がうまく働かないのは麻酔のせいなのか。

 ——それだけじゃないかも。あの子だからあんたは冷静になれないのよ。

 自分のお袋さんの殺しを依頼してしかもその殺した男に会いに来るような女子高校生は俺もはじめてだがそれとも今時の女子高校生ってのはみんなあんなふうなのかって思うしだったら俺たちの商売ももっと繁盛するだろうけれど先生はどう思うと訊いたら、

 ——無駄口を叩いてるとそれだけ体力を使って治りが遅くなるわよ。

 ミドリ先生は冷たい声で言って俺は黙り込んでまた天井を見上げて社長から何か伝言はないかと話題を変えた。

 ——あんたには特になし。

 ということは先生にはあるってことなんだないや言わなくていいそれを訊くのは業界じゃルール違反だってことぐらい俺だって知ってるけれど一つ教えてくれてもいいだろう俺をハジこうとしてる連中のことは社長からのファイルにロクな情報が載ってなかったそれはいつもみたいに俺には知る必要のないことなんだろうけど現にタマぶち込まれたわけだからサワリくらいは教えてもらってもバチは当たらないんじゃないか。

 ——新興の同業他社ができたらしいの。中国資本が入ってるみたい。すでにウチの社員が何人かやられてて、一人はヘッドハントされてあっちに行ったのもいるっていう話。

 俺はヘッドハントじゃなくてマンハントの対象ってわけかとひとりごちてまた天井を見上げて必要なものを数え上げ始めたが俺の脳はやっぱりうまく働いてくれなかった。

 ——わかってるでしょ? 幸運の女神のこと。

 先生はちょっと黙っててくれ今大事な考え中だし言われなくてもあいつのことはわかってる俺だってこの業界短くないんだが今俺は必死に脳味噌働かせてるんだと言い思案を巡らせたが七十一秒経っても何も思いつかずにチャカ二丁頼むできれば三時までにと言った。

 ——正気なの? いえ、あんたが正気だったためしがないわね。だいたい、立てもしないくせに何ができるの?

 先生が立たせてくれるならと言うとミドリ先生は笑わない眼で俺に覆い被さってきてまさか俺の冗談を真に受けたのかと思ったがもちろんそんなことじゃなくて先生は俺の両脇の下に腕を入れて俺の上体を起こしたがその瞬間に激しい痛みが脳天まで駆け上がって俺はうめいた。

 ——ここがいちばん安全なんだから、動けるようになるまで短くとも四十八時間、横になって計画を練り直すべきじゃない?

 ミドリ先生は俺の上体を抱いたまま言ってミドリ先生の声が身体を通じて俺は確かに先生の言うとおりだと思ったしだいいち殺し屋が殺した女の家でくつろいでいるとは誰も思わないだろう。

 破裂音。

 なんだ今の音はと口走りながら俺は音の正体をよくわかっていたしミドリ先生も同様にわかっていた。

 ——見てくる。

 ミドリ先生が立ち上がると同時に続いて三回破裂音が弾けて木製のものが倒れるような何かが砕け散る音が階下から聞こえてきて俺はその瞬間にまさに総毛立った。

 ——どうしてここが……。

 ミドリ先生が言いかけたときに階下から女の短い悲鳴が聞こえてきて俺はそのとき間違いなくおまえが撃たれたと思って身を乗り出した瞬間にベッドから転げ落ちたが何の痛みも感じなかった。

 ミドリ先生はどこから取り出したのか右手にFNブローニングを握りドアの横に素早く立ち俺は両腕の力だけで必死に這って花瓶とiPodの載った小テーブルを倒してその陰に身を隠したがこんなに無力感と恐怖を覚えたのははじめてで冗談じゃなく全身がぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶると震えて小便を漏らしそうになって不意に俺が殺してきた両手と両足の指じゃ数え切れない人数の男と女の顔が一人一人一人一人全員眼の裏に浮かんであいつらのほとんども今の俺と同じような感覚にとらわれたんだろうかと思った。

 ドアが蹴破られたのと同時にミドリ先生がFNブローニングで32口径弾を三発撃って小太りの黒いセーター姿の男がうつ伏せにどうと倒れてそいつは一枚目の写真に載っていた野良猫の一匹で福建省出身のヒットマンだったことを瞬時に思い出して俺は男の手から滑り落ちた拳銃を拾い上げるとそれはロシア製のマカロフで使ったことがないのでそいつは手に馴染まなく俺には扱いにくい銃だったがやむを得ず俺は銃把を握ってミドリ先生の手を借りてなんとか立ち上がった。

 ——まさか……。

 ミドリ先生は言いかけて俺は何だその顔はと言うと、

 ——あの子を助けようなんて思ってないでしょうね。

 的を射た質問で俺はその問いには答えずにとにかくこの部屋から出るぞあと二匹いるし一匹は俺の腹に穴を空けた白猫野郎だから許すわけにいかないと言うとミドリ先生はため息をついてからFNブローニングを握って廊下に銃を突き出した瞬間に銃声が響いてミドリ先生は短くうめいて廊下に上半身を乗り出したままうつ伏せに倒れた。

 俺はミドリ先生の体の上に跳び乗ってマカロフを廊下の奥の階段の前に立っている痩せた長髪の影に向けてくそくそくそくそくそくそくそくそくそくそくそくそくそくそくそと叫びながら引き金を引きまくったが一発目と二発目ははずれて三発目にはジャムりやがって俺は一度部屋に引っ込んでスライドを動かして引っかかった薬莢を外して次の9ミリマカロフ弾を装填するとそれが最後の弾でマカロフは装弾数が八発のはずだからこの太った野良猫野郎はすでに四発も撃っていやがったのかと毒づいてもう一度廊下に這うように乗り出したがもう誰もいなかったし撃ち返してもこなかった。

 俺はマカロフを床に放り出してミドリ先生に生きてるかと訊くと、

 ——今のところは……。

 俺はミドリ先生のスラックスのベルトを摑むと一気に部屋のなかへ引きずり込んで次に野良猫野郎の屍体を足で廊下に押し出してドアを閉めてミドリ先生に向き直ってこれだけ派手にドンパチやったんだから近所の誰かが一一〇番してるだろう俺たちも長居できないなと言った直後に俺は眼を疑って声を上げそうになったのはミドリ先生が右胸を真っ赤に染めながらも右手に握ったFNブローニングの真っ暗な真っ黒な暗過ぎるくらい真っ黒な銃口を俺の額に向けていたからだ。

 心臓が六回だけ拍動するのを黙って待ってからつまりヘッドハントされた一人ってのはミドリ先生だったのかと訊いた。

 ——違う。それはウソ。結局、社長は過当競争を避けるために先方と業務提携することにしたの。そこでコスト削減のために余剰人員のリストラをすることになった。あっちは野良猫の四人。こっちはあんた。

 俺はそれなりにいい仕事をしてきたつもりだったんだがリストラ対象とはね。

 ——わたしには四つの選択肢がある。その一、ここであんたに死んでもらう。その二、あんたに野良猫四匹とも殺してもらう。すでに二匹は死んだけどね。その三、会社にとってもっとも都合がいいのは、あんたも野良猫たちもみんな死んでくれること。

 まだ三つしか言ってないじゃないか。

 ——その四、社長なんかクソ食らえ。

 ミドリ先生はFNブローニングを降ろして痛みで顔をしかめたがその右胸の銃創からは俺の腹よりももっと大量の血が出ているように見えた。

 ——ベッドの足元にわたしのバッグがある。お医者さん鞄ってやつがね。

 俺は絨毯の上を這ってベッドの横に置かれた大きな黒い革製のバッグを摑んで引きずってミドリ先生の脇へ戻った。

 ——当たりどころが悪かったみたい。しかも盲管もうかん銃創じゅうそうっぽいからヤバい。弾はたぶん9ミリだし、結構破壊力がある。

 ミドリ先生の声はひどくかすれていて俺はいったいどうすればいいと尋ねると、

 ——黒い手帳みたいなケース、アンプルと注射器が入っているから、注射して。

 俺は言われたとおりに黒い革製のケースを見つけてファスナーを開くと二つのアンプルと二本の注射器が入っていて一つのアンプルの透明な液体を注射器に吸わせて少しだけピストンを押して空気を抜いてミドリ先生の腕を取ると、

 ——違う、あんたが自分に射つの。

 痛み止めか今の俺は麻酔でボケてるわけにいかないんだ。

 ——わかってるわよ。何年のつきあいだと思ってるの? 今のあんたにいちばん必要なのは、アッパーなクスリ。

 待ってくれ俺は酒は飲むしウィスキーはロイヤル・サルートの二十一年に決めていて他の酒はめったに飲まないし何よりも煙草とドラッグは絶対にやらない。

 ——今はそんなこと言ってる場合じゃないでしょう? それから射つ前に、大事なことやってもらわなきゃ。お医者さん鞄は二重底になってるから中身を全部空けて。

 俺は注射器をミドリ先生に渡してバッグの中身を全部絨毯の上にぶちまけたがそこには簡単な処置用の道具が入っているらしい大きめのプラスチック・ケースや包帯やガーゼや脱脂綿や何種類かの錠剤のシートが入ったビニール袋やミドリ先生の私物の化粧道具が入っているらしい淡いピンク色のケースや生理用品やコンドームまであったが俺はとにかく底を探って革を引っ張って抜き取るとその下には油紙でくるまれた重い包みが収まっていて包みを開けるとシグ・ザウェルM229と二つのマガジンだったから俺は気の抜けた笑い声を上げてM229はグリップが小さめで握りやすいんだと言った。

 ——ちょっとだけ手伝って。

 ミドリ先生は言ってジャケットを脱ぎ捨て俺はミドリ先生がブラウスを脱ぐのを手伝うと黒いブラジャーの右の豊かな膨らみの下に穴が開いていてそこからどくどくどくどく真っ赤な血液が流れ出ているのがわかり俺は咄嗟にミドリ先生の背中を見たが弾丸の射出口はなくて先生の言ったとおり盲管銃創だったので俺はぞっとしたがミドリ先生はいつものように冷静で俺は彼女の指示通りにありったけのガーゼを押し当てて注射器といくつかのアンプルの入った白いケースを開いて言われた順番で傷口の周囲と腕に注射してやり六錠の錠剤を渡すとミドリ先生はそれを噛み砕いて飲み下し、

 ——痛み止めと化膿止めと止血剤。いつまで効くかわからないけど。

 と彼女は言いながら手を伸ばして手帳を取ると震える指先でボールペンを持って何かを書いて一枚ちぎるとそれを俺に突き出したがそれはこの家の見取り図だった。

 ——どの程度正しいかは怪しいけど多少の役には立つと思う。この家、丘の上に建ってて玄関からこの母屋まで二十メートルはあるの。四方は林で囲まれて外から見えないようになってる。周りの民家を見下ろすようにこの大邸宅を建てたつもりなんでしょうね。

 天国と地獄みたいだなと俺が言うと彼女はすぐに理解して、

 ——まさにあんな感じの家。でもこの家は天国じゃないし、下の家は地獄じゃない。銃声が近所にどこまで聞こえてることか……仮に聞こえていても、ご近所さんがちゃんと110番してくれるかどうか疑問ね。

 俺は紙片と注射器を受け取って代わりにミドリにFNブローニングを握らせた。

 ——あの子はたぶん一階のLDKかいちばん奥の洋間にいると思う。LDKは見張りやすいし、洋間は窓が小さくて逃げ出せない。

 わかったよありがとうミドリさすがプロだな。

 ——わたしの車は玄関前に停めてあるけど、わたしがあいつらだったらパンクか何かで動けなくさせるから、それは期待しないで。じゃ、今度はあんたがクスリ射って、行く番。

 俺はうなずいてミドリ死ぬなよ迎えに来ると言うと、

 ——無理しなくていいの。

 とミドリは言って顔を近づけてきて俺とミドリはほんの七秒間だけ唇と唇だけを触れあわせたが唇を先に離したのはミドリのほうだった。

 ——行きなさい。あの子を死なせちゃ駄目よ。もちろん、あなたも。

 悪いが俺は無理するぞと言ってまずシグ・ザウェルM229にマガジンを挿入してスライドを引いて初弾を装填するとスウェットのポケットに予備のマガジンを突っ込んで予備の注射器ともう一個のアンプルを収めた黒いケースを尻のポケットに押し込んだ。

 先生に左の二の腕を押さえて静脈を浮き出させてもらってそこへ針を刺したピストンをゆっくりと押し込んだ液体が俺の身体のなかへと流れ込んでいった。

 打ち上げ花火の数千倍の火花がドカドカドカドカドカドカドカドカドカと散ってぐああああああああああああああああああああああああああああああああと叫んで頭をかきむしったような気がするがあとはなぜか妙に冷静な気分になってシグ・ザウェルM229を摑んでドアを開いて部屋を跳び出した。

 

 どうやって一階にたどり着いたのか覚えちゃいないが俺の五感はこれまでの人生にあり得ないくらい鋭くて今までの俺って人間はいったい何だったんだと思うくらいでちゃんと立って歩けるし痛みも全然ないし俺は磨りガラスのはまったドアの前にいてミドリの描いたメモを見なくてもしっかりとその絵が明瞭に脳味噌に焼き付いているしその向こうがLDKだとわかっていたしその内部から息づかいが聞こえて少なくとも二人の人間がいることが感じ取れて今の俺には何でもわかっていて大きく息を吸って吐き出してからドアノブを静かにひねってそっとドアを引くとゆっくりとドアが開いてLDKの内部が見えた。

 おまえの上にさっきミドリを撃った長髪の痩せた男がのしかかってズボンを腰まで下げて尻を丸出しにして前後に激しく腰を動かしていておまえはまばたき一つしないで天井をいやその向こうの空の遠くの遠くの遠くを見やっていてもう一人の俺の腹に穴を空けやがった白猫野郎がソファで細くて長い葉巻をくわえてその様子を見ながらうつろに笑っていた。

 俺は冴え冴えとした頭を二本の脚で支えながらゆっくりとLDKに入ってゆっくりと腕を伸ばしてゆっくりと死ねと言って痩せた長髪野郎が慌てて上半身を起こしてこっちを見るのと同時にシグ・ザウェルM229の引き金を引いてそいつの胸に三つ穴をぶち空けると真っ赤な血がびゅううううううううううううと噴き出しておまえの顔を真っ赤に染めたがおまえはやっぱり無表情なままだったので俺はなんだか泣きそうになったがその瞬間に左の脇腹に衝撃を感じて振り返ると白猫野郎が細い葉巻をくわえたままリヴォルヴァーを構えていて三八口径銃弾が俺の包帯と右脇腹の肉を引きちぎったことに気づいたが全然痛くなかったし俺は絶対に死なない確信があったのでダイヴして固くて冷たい大理石が敷かれたリヴィングの床に転がって受け身を取りながら死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ねと言い続けてシグ・ザウェルM229の引き金を四回引いたが一発も当たらずに白猫野郎は軽々と身を翻して撃ち返してきてさっきまで野郎が座っていたソファの一部がはじけ飛んで野郎はもう一つのドアから奥に駆け込み闇のなかからまた一発撃ってきたがそれはキッチンのタイルを砕いてそのまま野郎は奥に消えて俺はくそくそくそくそくそくそくそくそくそくそくそと怒鳴ったがもちろん野郎は戻ってこなかった。


 俺はおまえに近づこうとしたが相変わらず天井を見つめ続けている全裸のおまえの両脚の間から真っ赤な鮮血が大理石の床に広がっていてその瞬間に俺は涙をこらえきれずに眼をそらしたがおまえの二メートル脇に倒れていた長髪野郎の体がかすかに身もだえしたのを俺の視覚は見逃さずに俺は濡れた視界のまま長髪野郎に近づいて死ねと言ったけど聞こえなかったのかとつぶやいて野郎の股間に垂れ下がる萎えた仮性包茎のペニスに9ミリパラベラム弾をぶち込み肉片が飛び散って次に額に銃口を当てて左手を添えて引き金を引いたら野郎の脳味噌と頭蓋骨は砕けて散って返り血と脳漿のうしょうが俺の左の掌にべったりとこびりついた。

 俺は隣接するキッチンへ向かいテーブルクロスの端を摑んで一気に引っ張ると同時に食器だか何かががちゃがちゃがちゃがちゃがちゃとやかましい不愉快な音を立てて床に落ち俺はテーブルクロスをおまえの体の上にかけてやろうと歩み寄るとおまえは急激に怯えた眼になって俺から必死の形相で離れようとしたが俺はおまえの裸の肩を摑んで引き寄せて暴れるおまえを無理矢理に押さえつけてイチゴの模様の入ったテーブルクロスをおまえの体に巻き付けておまえの予想外に軽い身体を抱き上げてソファに横たえたその瞬間におまえの肩に俺の手形が真っ赤に刻印されていて今の俺は誰よりもとんでもない力を持っていることを思い出したけれどだからといってやっぱり涙を止めることはできなかった。


 頭が半分吹っ飛んだ長髪野郎の屍体をまたいでキッチンへ行って棚を物色して三秒でオールド・パーのボトルを見つけてロイヤル・サルートじゃないことに失望したが今はべつに消毒用メタノールだって何だって構わなかったからグラスに半分注いで一気に飲み干すと血流がどくどくどくどくどくどくどくどくとその流れを加速して俺はもっともっともっともっともっともっと力がみなぎって来るのと同時にもっともっともっともっともっと泣きたくなってきて俺はシンクで手をしっかりと洗ってこびりついた血と脳髄を流したあと冷蔵庫を開いて卵と豆腐とピーマンとベーコンを見つけたがさすがにゴーヤやポークランチョンミートは冷蔵庫に入っていなかったがそれも当然といえば当然だと思って豆腐をキッチンペーパーでくるんでザルの上に置きミルクパンに水を少し入れて重石にして豆腐の上に載せて豆腐の水を切ってスウェットのポケットに奇跡的にiPodが入ってることに今になって気づいてイヤフォンを耳に突っ込んで古今亭志ん生の文七ぶんしち元結もっといを聴き始めたが主人公長兵衛の娘が父親の借金を返すために自ら吉原よしわら女郎屋じょろうやに身を沈めようとするくだりでまた涙が出そうになって今この状況で聴くべきはなしじゃないと選択を間違えたことに気づいたのですでに五十九回は聴いている火焔かえん太鼓だいこに変えた。


 ——傷。

 おまえが口を開いたとき俺はキッチンでベーコンとピーマンと豆腐を炒めていてベーコンには味が付いているから薄口醤油を少なめに入れて馴染んだところに溶いておいた卵を流し入れて傷ってどの傷のことだたくさんあり過ぎるほどあってわからないと言うと、

 ——血、出てる。包帯が真っ赤だよ。

 とおまえは言ってああたぶん出てるだろうなと答えながら塩を振り入れて軽く混ぜてから二枚の皿に取り分けたときがちょうど火焔太鼓のサゲだったので古今亭志ん生と同時に半鐘はんしょうは駄目だよおジャンになるからと口に出して言ってiPodを外してキッチンの隅に置いた。

 ——何が駄目なの?

 半鐘だって言ってもおまえにはわからないだろうからどうでもいいけどそれよりおまえは何か言ったか?

 ——痛かったのか、って訊いたの。

 痛くはなかったというかそのときのことはよく覚えてない。

 ——こんなに血が出てるのに、痛くないはずないよ。

 確かに今は痛いと答えたがそれは腹に空けられた穴のことじゃなくてもっと眼に見えないどこかのことだとまではおまえに言わなかったというか言えなかった。

 ——ミドリ先生は?

 俺は二枚の皿を持って長髪野郎の屍体をまたいでリヴィングへ移動してソファの前のローテーブルに置いて先生は上で休んでるから心配するなそれより喰いたければ何か腹に入れたほうがいいと言って長髪野郎の屍体を足でキッチンのテーブルの下に押しやったがそれでも屍体は丸見えだったが仕方なかった。

 ——意外に料理、上手なんだね。これ、中華料理?

 おまえは無理に視線を皿に落としたまま尋ねて俺は沖縄料理だけどニセモノだホンモノはゴーヤを使うけど冷蔵庫になかったから代わりにピーマンを入れたからピーマンチャンプルーってやつになるのかも知れないけど俺は料理上手じゃないたしこいつしか作れないし俺は俺の作った料理は全部美味いと思うが他人に喰わせたことがないからほんとうに美味いのかどうか批評を聞いたことがない。

 ——ゴーヤって、あの苦い野菜だよね。

 俺にこの料理を教えてくれたのが沖縄出身の男ですごい美人だった。

 ——オカマってこと?

 ミツルって名前だったがバイのTVだった。

 ——TVって何?

 俺もミツルに会うまで知らなかったがトランス・ヴェスタイトの略で簡単に言うと女装マニアってことだがマニアっていう言い方は狂ってるみたいだから正しくない。

 ——どうして? 変態じゃん。

 変態という言い方も正しくないあいつやあいつの仲間たちはそれが必要で自分が自分であることの証明みたいなもんだがミツルは化粧しなくても女装しなくてもとても美人でとてもいい奴でそんなミツルに嫉妬する連中もいたがそんな話より食欲がなければ無理に喰わなくてもいいと言うとおまえは急にうつむき加減になって、

 ——ちょうど廊下の反対側にバスルームあるんだけど……。

 言い淀んでいたので俺はそうかすまなかった気づかなかったと言ってシグ・ザウェルP229を引っ摑んでおまえはあの長髪野郎の返り血を顔に浴びたはずだがその瞬間を見たんだろうかと思ったがそれ以上の質問はせずにドアをそっと押し開けた。

 早速銃声が轟いて磨りガラスが砕け散って瞬間的に三八口径のスミス&ウェッスンM40かM49だと聞き分けることができたのは今の俺の五感は最高に冴えているからで俺も腕だけ伸ばしてシグ・ザウェルP229を三発撃ち返して白猫野郎も撃ち返して来たがそれは壁にめり込んだだけで野郎の銃の装弾数は五発だからこれで野郎は撃ち尽くしたと俺の鋭利な頭脳は素早く計算したがリヴォルヴァーでもスピード・ローダーを使えば装弾にそれほど手間はかからないなと考えながら廊下に飛び出したら野郎の姿はなかったので右手でP229を構えたままはす向かいのバスルームの明かりのスイッチを入れておまえに今のうちだと短く言うとおまえは体に巻き付けたテーブルクロスを床に落として生まれたままの姿でバスルームの脱衣所に駆け込んだ。

 俺はミドリが描いたメモを脳内にくっきりと甦らせて一階の間取りを明瞭に浮かべて左手のキッチン前の廊下の向こうに二部屋があり右手のバスルームの隣のトイレの向こうには三部屋があってさっきの野郎の弾道から考えると右手のいちばん奥の洋間にいる可能性が高いと考えついたときにバスルームからおまえが俺を呼ぶ声が聞こえたので俺は心配になって脱衣所に駆け込んだがほぼ同時にバスルームの扉が開いて全裸のおまえが立っていた。

 ——あたし、汚れちゃった……。あたしの体、汚いでしょ?

 おまえは全然汚れてなんかいない確かに顔とか髪に血を付けちまったのは俺のせいだしそのことは謝る。

 ——あたしとやりたいって思う?

 大人を相手にふざけるなとにかく早くしろ相手はチャカで狙ってるんだと言うと出し抜けにおまえは泣き出した。

 それは俺がおまえの涙を見た最初で最後だった。

 ——やりたくないのは、あたしが汚いからでしょ?

 おまえが激しく幼子のように泣きじゃくりながら言うので俺はおまえは汚くない絶対に汚くない今まで出会った人のなかで最高に綺麗だから自分を傷つけるのはやめろと言いながら俺はゆっくりとバスルームに入っておまえに後ろを向けと言ってタオルを手に取るとその背中に付いた石鹸の泡を丁寧に洗い流した。

 おまえの全身を洗い流し終わるとおまえは脱衣所に用意されていた真っ白なバスタオルで体を拭いてそして誰のために用意してあったのか真っ白なバスローブを着たので俺は廊下に出て銃を廊下の奥に構えたが野郎は撃ってこなかったので手で合図をするとおまえは小走りにLDKに戻った。


 壁に掛かった時計を見ると四時二十三分でまったくなんて一晩だったんだとつぶやきながら痛みがぶり返しているのを感じてそろそろクスリの効き目がヤバイと思ったら、

 ——美味しいよ。あたしピーマン苦手だけど、すっごい美味しい。

 不意におまえは言って俺は俺の料理の批評をはじめて聞いたよありがとうと答えたが急速に俺の声から力が失せ始めているのがわかったがオールド・パーをストレートでグラス一杯を一気に飲み干して熱い液体が胃の腑へ落ちるのを感じてすっかり冷めちまったピーマンチャンプルーを口に放り込んだらまったく味を感じなかった。

 ——ミツルって人、殺したの?

 おまえはそっけなく訊いて俺はああ殺したよとそっけなく答えると、

 ——どうして? どうしてそんなにいい人を殺したの?

 知らないな俺は人を殺す理由なんか知ったためしがないし知りたくもないしいつだって知らない奴を知らない理由で殺してきたと答えたらおまえは少し間をおいてから、

 ——あたしも殺すんでしょ?

 俺は答えずにピーマンチャンプルーを咀嚼そしゃくし続けたがやっぱり味がしなくてオールド・パーをまたグラスに注いで飲み干した。

 ——あたしを殺してもいいよ。

 おまえがつぶやくように言うので俺はおまえを殺したりしないと答えると、

 ——ホントは殺したいんでしょ?

 なんて訊くので俺はおまえを殺したくないと言うと、

 ——べつに殺されても構わない。こんなに汚れちゃったんだよ。あたしを殺して、すぐ殺して、お願い。

 おまえは真剣な面持ちで言い俺は絶対におまえだけは殺さないし絶対に誰にも殺させないと答えながらもうそのときに俺の両眼からは涙が流れ出していた。

 ——泣き虫。泣き虫のくせに人を殺すなんてヘン。

 おまえは少しだけ笑みを見せたがその笑顔は間違いなく綺麗だった。


 俺は床に落ちているテーブルクロスを拾い上げて幅十五センチくらいに引き裂いたものを六本作るとおまえに手伝ってくれと言って俺の包帯を解こうとしたがミドリに手当された最初の傷は血が止まっていたが包帯が傷口にくっついていて白猫野郎に三八口径でえぐられた左脇腹からはじわじわ血が出て止まる様子がなくてよくこんなに血が出ても俺は生きてるなと一瞬不思議に思ったがべつに不思議でも何でもなくて確か俺は死なないはずだったんだと思い出し包帯の上から引き裂いたテーブルクロスをきつく腹に巻き付けた。

 ——なんだか腹巻きみたい。イチゴ模様でカワイイよ。

 真っ白なサラシだったら健さんみたいなんだけどな。

 ——ケンさんって?

 おまえは以前のおまえのように無邪気に訊くので古い映画だと言うと、

 ——ねえ、あたしたちってレオンみたいじゃない?

 じゃあ俺がジャン・レノでおまえがナタリー・ポートマンか二人とも全然似てないな。

 ——ホント、似てないね。似てないから、いいんじゃん。

 おまえの言葉に俺は笑い血まみれになった黒いケースから注射器を取り出してアンプルのクスリを吸わせてから余ったカーテンの切れ端を口に突っ込んだ歯を食いしばった針を刺したピストンを押した静脈にクスリを注入した。

 火花火花火花火花火花火花火花火花火花火花火花火花火花火花火花火花………………………………………………

 カーテンを吐き出して俺は全身の血の巡りが一気にぐいぐいぐいぐいぐいぐいぐいぐいと加速する音が聞こえ脳内がパチパチパチパチパチパチパチパチと凄まじい勢いで電気信号を発している音も感じて俺は五感が最高どころかそれ以上の状態になったので笑い出して笑って笑って笑って笑って笑って笑いが止まらなかったが腹筋が痛くなるようなことはなかった。

 だから俺はこの勝負に勝ったことを確信した。

 ——どこ行くの?

 なんだそのビビった声はおまえらしくないピーマンチャンプルーが美味かったなら明日は本物のゴーヤチャンプルーを作ってやるからちょっと待っててくれ。


 廊下を進むと俺の最高感度の聴覚がかすかな気配を聞きつけてそっちを見もせずにシグ・ザウェルP229を二発ぶち込んだがそこは予想していた洋間の向かいの仏間だがたいした違いはないし俺は氷みたいに冷静だからあと薬室に一発しか残ってないことも冴えきってる俺の脳味噌は計算できるからマガジンキャッチのボタンを押して空のマガジンを捨てると同時に予備のマガジンを突っ込んで弾痕の空いた襖を開くと同時に野郎は撃って来て俺の左の太ももに衝撃を感じたが痛くないから構わず撃って撃って撃って撃って撃って撃つと三発の9ミリパラベラム弾が野郎の右肩を粉砕して野良猫野郎がもんどり打って倒れて仏壇に顔から突っ込んで畳の上にスミス&ウェッスンM49が転がったが野郎は左手でもう一丁の銃をどこからか抜くと顔中血まみれにしながら俺に銃口を向けてそれはやっぱりトイレで俺をハジいたワルサーP22でその銃弾は俺の左腕を貫通したがべつに何も感じないから男に近づいて慎重に狙って野郎の右膝を撃って砕いて左膝を撃って砕いて下腹部を撃って穴を空けてやると男は仰向けに倒れながら震える手で撃ち返してきてその銃弾は俺の体のどこかに当たったような気がしたがさらに一歩野郎に近づこうとするとなぜか俺の両脚が動かずに野郎はひくひくと痙攣しながらも俺を見上げてにやにやと笑っていてそのときこの白猫野郎の放った銃弾が俺の右胸をぶち抜いていることに気づいてそこからぴゅうううぴゅうううぴゅうううと血が噴き出しているので22LR弾でも至近距離で命中すると意外に傷が深いんだなと俺はますます可笑しくなって野郎と一緒になって笑った。

 白猫野郎にシグ・ザウェルP229の銃口を向けて撃って奴も撃ち返して俺も撃って野郎も撃って俺も撃って撃って撃って撃って………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………


 立体駐車場に滑り込んできたのはベンツだった。音もなく19と描かれた位置に停車し、社長は滑り降りてきた。想像していたよりも、ずいぶん若かった。まだ三十代後半に見えたけれど、実際はそれより十歳以上年上だ。社長は片手にアタッシェ・ケースを持ってリモコンでベンツにロックをすると足早に階上のホテルにつながるエレベーターへと向かって滑るように歩き始めた。

 そっと、その背後から近づいて、

「あの……」

 と声を掛けると、社長は振り返って怪訝そうな面持ちになった。たぶん、自分の記憶にある顔なのか脳内で照合しているんだろう。

「何だい、君?」

「これ、落としませんでしたか?」

 黒い革製のどこにでもある長財布。社長の財布によく似ているものをリサイクル・ショップで三百円で手に入れておいた。

「え?」

 社長は片手でスーツのポケットを探りながら、顔を近づけて黒い財布をよく見ようとした。

 その一瞬しかチャンスはなかった。

 よく研いだアイスピック——社長の左耳の穴に一気に突き立てた。アイス・ピックは柄までまっすぐに抵抗なく刺さって社長の脳髄を貫いた。

 社長の体がくずおれた。声も上げず、ほとんど出血もなかった。


「終わったわね」

 赤いフォルクスワーゲン・ビートルの助手席に乗り込むと、運転席で一部始終を見ていたミドリ先生が、高校の制服姿のあたしに言った。

 あたしは首を振った。

「ううん、今、始まったところ」


「俺が死んだ日」完

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俺が死んだ日 美尾籠ロウ @meiteido

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