芹沢さん

藍川理央

芹沢さん

 久しぶりに朝八時に教室の扉を開けようとしたら、先生に呼び止められて、職員室に連れていかれた。

「このままだと進級できないぞ」

 高校二年生、十二月のことだった。

私は、どこからか先生が引っ張り出してきたパイプ椅子に行儀よく座り、はぁ、と曖昧な返事をした。

 山間部にあるうちの高校は、冬はとても冷える。身体の芯を通り越して心まで凍らせるような寒さとは一変、喉の奥が渇くくらいに暖房の効いた職員室は、なんだかとても陰鬱だった。

「芹沢さんは数字に出ている通り、成績は間違いなくいい。夏休みの三者面談でも話したけど、君は出願時期ギリギリに推薦を貰うと言いだしてもそれがまかり通るくらいではあるんだ。成績だけならね」

 成績だけなら、という言葉を頭の中で反芻し、はい、となんとなく受け答えした。廊下に張り出されていたテストの順位表を思い出していた。いちばん上にある私の名前。

 少しの沈黙があった。私は窓の外を見ていた。向かい側の新しい校舎のバックに、灰色の雲が畝のように広がっていた。背後では、誰かが印刷機でプリントを刷っている音がしていた。

「言われなくてもわかると思うけど」

 先生の方に目を向けた。白髪頭に狸のような顔だけがいつも私の中での担任の印象だった。性格や言動は私の嫌いなタイプに属していた。

「出席日数が足りない。今はまだ進級できるギリギリのラインにあるけど、残り三か月……まぁ実質二か月くらいだけども。危ういよ」

 そうですね、と投げやりに答えそうになって、我慢した。少しだけ神妙な顔つきをしてみせて、はい、と答えた。

 この先生が私のために怒るというようなことをしないのはわかりきっていた。私はもう諦められた部類に入る。小学生のときに聞き飽きるほど言われた「先生はあなたたちのことを思って怒ってるんだからね、もうよくならないって思ったら怒りもしないよ」がまさに現実になっていた。本当にそういうことをするんだなぁとぼんやり思っていた。他人事を通り越して小説か映画の中の話のようだった。ただ私に現実的なのはこの乾燥した空気と、印刷機の音だけだった。

「改善するつもりは、あるか」

 万が一にでも、私がその質問に「はい」と答えることを、期待もしていないようだった。何十年も教師を続け、何百人もの生徒を見て来たのだから、わかるのだろう。私自身も、よくわかっている。

「ありません」

 今日、この職員室で、初めてはっきりと言葉を発した気がした。無意識にブラウスの襟を正す。印刷機が止まる音が聞こえた。先生が何か言う前に、言葉を続けた。

「このまま出席日数不足で進級できなければ、この学校を辞めるつもりです」

 ずっと頭の中で考えてきた言葉を、一語一句間違えずに口に出す。こうして自分の声で自分の耳で聞くと、すごく重たく感じられた。学校を辞める。それがどれだけ大きな決断か、私は身をもって体感することになるのだ。ここまで積み上げてきたものを、すべて投げ捨てるのだ。

 先生の目を真っ直ぐに見据えた。彼は私を心配しているような表情は見せていなかった。それが救いだった。

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