自殺

Joyman

1

 題の通りである。さも何でもないような顔してみんな生きているが、死を思い立つような理由はいくらでもある。死にたいと一度も思ったことのない人間は、よほどの幸せ者か落伍者かのどちらかだろう。彼の場合、単純に孤独だった。ちょうど40年の人生で、親にも愛されず、友人はおらず、たいていは空気のように振る舞い、さもなければ嘲りを受けるだけである。涙は早々に涸れた。何かに打ち込んで気を紛らわすことは、プライドが許さなかった。電車に飛びこむなり、生きていた証を遺してやろうかとも思ったが、そんな考えをしても虚しさが募るだけだった。本当はそれすらも言い訳で、死ぬ勇気がないだけである。


 そんな彼にも死なざるを得ない理由ができた。借金地獄に陥った。年下の上司に脅されるようにして書き連ねた連帯保証人欄が効力を発揮しだしたのだ。家の戸は、彼の存在価値からすると過分に、強く、高く、凶暴になり響き、それだけで扉を蹴破りそうな怒鳴り声は部屋の奥まで聞こえる。師走の空気の冷たさと、低気圧が集めた負の感情の奔流は、果たして自分一人にぶつけられているようだった。これからの人生への恐怖が、死の恐怖に打ち勝った。


 練炭を焚くことにした。震える手で練炭をポッドに入れる。落とす。震えながら拾ってまた落とし、また拾ってやっとポッドに入る。明らかに常態を逸脱していた。追いつめられていた。死にたいと思っている内はまだ大丈夫だというのは確かに本当で、今、彼には自由意志すらない。前後不覚、自分が生きているのかさえ分からなくなり、自動的に身体が死に向かうのだ。心が崩壊していた。潰されるでもない。まるで放り出されたコンクリート塊の中心からヒビが入って、空中分解を起こすようだった。



 マッチを擦ろうとしたその時、ドアから茶まだらの子猫が入ってきた。彼は猫を飼っておらず、あまりの脈絡のなさのおかげで思考の入りこむ間隙がうまれた。ものの数秒の刹那である。少しだけ正気をとり戻した。かと言って、眼前に横たわる地獄が消えるわけではなかったが。


 数瞬のち、彼は子猫をなでようと思いついてしまった。悪手である。自殺志願者の大半は、生から逃げたいと思う同時に、死からも逃げおおせたいと思っているものだ。これから彼は、猫を撫でることで死なずに済む理由を見つけてしまうだろうし、というよりは、彼自身が無意識下でそう望んでいると言える。この期に及んでも、やはり死ぬのは怖い。


 猫毛のアレルギーだというのは、手を伸ばしてから思い出した。優しくなでた後、案の定、小さなくしゃみをしてしまった。彼の見た目からすれば少々きれいすぎるくしゃみだけれど、それが彼の本質なのかもしれない。気持ち良さそうに目をすぼめる子猫。少しだけ笑ったふうに見えた。よく見ると地毛は白い。水道もガスも止まっている。洗ってあげられず口惜しかった。


 「何だってここにいるんだ。一緒に死にたいのか?」

猫に言葉は理解できないことを知っていて尚、おどけた声で、怖がらせないように問いかけた。質問の意図がわからないとでも言わんばかりに彼の手を舐めだす。少ししてくしゃみをしてしまったが、猫は構わず舐め続けた。彼はようやく少し笑った。はじめて愛を向けられた毛虫はこんなふうに笑うのかもしれない。猫は弱々しく鳴いた。猫なりの歌をうたっているのだろうか。不思議と、大切ななにかが混じっているように聞こえた。彼の醜悪な顔にやさしいシワがきざまれた。


 曖昧に時が流れる。薄甘い光がカーテンを透過する。部屋中にビー玉をばらまく。すこしだけぬるびた空気は真っ白な部屋をはねず色に塗りかえる。遠いむかしの既視感をおぼえた。このまま愛の中で静かに抱かれていたい、そう思った。

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自殺 Joyman @rosssse

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