第31話 最強の鉾
じめじめとしたカビ臭い洞窟の匂いがする。
時折、どこか遠くでピチャンピチャンと水滴の音が聞こえるのは、この場所のどこかで水が溜まっている証拠。
『ラゼット、この希叶石はね。人の心を癒す力がある魔石なんだよ。』
昔、まだ幼いころ。祖母が話していた言葉をラゼットはふいに思い出す。
『大事なことは祈りに食われないことだ。』
『祈りに食われる?』
『そう。祈りは願いに、願いは呪いに、呪いはやがて闇となって世界を飲み込んでしまうだろう。』
怖いと、そう口にしたラゼットを祖母は優しく抱き上げてくれたような気がする。けれど、記憶は混濁していてそれが定かであったかどうかは疑わしい。
優しかった祖母は、夢の中であっても温かな光に包まれていて、心を穏やかにしてくれる力があった。
『希叶石を救いたいと思う誰か、幸せになってほしいと願う誰かにあげなさい。そうすればきっと、お前の心はいつまでも誰かのために祈ることができるだろう。』
「…っ…ん…」
『己がしたことは己の身にまわりまわって返ってくるものなのだよ。自分の欲望のためだけに祈りを捧げる者は、やがてその報いを受ける羽目になるだろう。』
ラゼットがその言葉の意味を理解したのは、夫の愛に飢え、娘への嫉妬と憎悪をたぎらせ、偉大な母の重圧に耐え切れなかった母が目の前で自分の命を絶ったときだった。
だからこそ誓ったのだ。次に絶望や破滅に向かいそうになる人を見つけた時は、迷わず希叶石を渡そうと。
あの日、あの時、慰問の地で目を負傷した少年を見つけた時。ラゼットは彼のために祈りを続けようと心に誓った。
「り…っ…さ、ま」
ふと記憶の中の少年の面影が、なぜかリゲイドと重なるような気がしておかしくなる。
ギルフレア帝国の王子が、辺境の地で起こった惨劇の舞台にいるはずがない。
そんなはずはないのに、なぜかそんな気がしてラゼットは困ったように顔をしかめた。
「……~~ッ…んっ」
ぽたりとホホに落ちてきた水滴に起こされるように、ラゼットの意識がわずかに揺れ動く。けれどまだ、完全にその意識は覚醒していなかった。
出来ることならこのまま目覚めたくはない。
悲しみに支配された気持ちが、自分の身に悲惨な事態を引き起こしたのだろうということは心のどこかでわかっていた。
わかっていても、自分の気持ちを一定に保っていられるほどの強い心がそう簡単に手に入れば苦労しない。
「ケケケケケ。ダヴィド将軍、これで長年の責務も果たせましょうぞ。」
あの耳につくような甲高い笑い声は記憶に新しい。
ラゼットは夢と現実のはざまで、無意識に聞こえてくる会話に耳を傾けていた。
「わしらが世界を統一する大事な日になったな。」
「ケケケケケ、そうですとも、そうですとも。」
「オルギスの祈りがまさか消失する日が来るとは。しかし今回の盾はまた随分と美しい娘だな。かつての老いぼれた盾とは違うものだ。」
「世界を統一した暁には、良い慰み者になりましょうぞ。」
「そうだな。わしらを長年苦しめてきた祈りの姫に、恨みを抱いているものは大勢おる。良い声でなく傀儡に躾けてやろうではないか。」
「よい案でございます。それは、さぞかし見ものでしょう。ケケケケケ。」
甲高い声と低い地鳴りのような声。それぞれ特徴は違うものの、一度聞いたら忘れられない声だと思った。
他にもざわざわと何かがうごめく気配がしている。聞いたことのない声、嗅いだことのないにおい。目を開けてしまえばきっと、恐怖でまた気を失うことになるだろう。
「おお、この娘か。人間どもが崇め、敬う最強の盾というのは。」
「ッ!?」
ノドを掴んで持ち上げられた体に、思わず目を開けてしまったラゼットは声にならない悲鳴を飲み込む。
獅子のような牙を持ち、蛇のように長い舌と不気味な瞳。強靭な肉体はうろこでおおわれ、ぬめぬめと何かの粘液でおおわれていた。
これが幻獣魔族。姿は人間とは違うと聞いてはいたが、生で見る迫力は想像を絶している。
「ひっ…~~ん…ッア」
舌で絡めとられるように足から登ってくるざらざらとした感触に体が勝手に震えていく。
重力がかかったノドの痛みや、圧迫された呼吸の苦しみなどより、ラゼットは自分の身に起こる恐怖を想像してカタカタと震えていく。
「可愛いねぇ。すぐに死ぬというのに、人間は実にわが欲をそそる。」
思わずノドをつかむその太い手首を握ってみたが、ぬるりとすべるその感触に、ラゼットは目を見開いて周囲に視線を走らせた。
「ケケケケケ、人間はうまい。」
自分をここまで運んだ鳥は、建物の大きさくらいはあるだろうと思えるほどの巨大な鳥。甲高い声は三つ目の眼球を四方八方へ動かしながら宙に浮くラゼットをあざ笑っている。
「そのくらいにしてやれ。まだその娘には大事な役目が残っている。」
周囲に密集している幻獣魔族の中心核であることはすぐにわかった。
彼はワニのような顔と皮膚を持ち、古代に世界を支配したといわれる竜人の名残りを感じさせるほどの巨体と雰囲気を携えていた。一言で恐ろしいと表現できるほどの魔物。
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