第27話 さらわれた姫君

どんよりとした重苦しい湿度と、どこか薄暗い室内に、目覚めたばかりのラゼットの気持ちがふさぎ込んでいく。

泣いて目覚めた朝など何年ぶりだろうか。

相当ひどい顔をしていたに違いない。いつもなら嫌味のひとつでも飛ばしてきそうなフランでさえ、痛々しそうなものを見るような目で見つめてきただけだった。



「今日は一人でいたいの。」



朝の支度を無表情でこなしたラゼットに、フランは何か言いかけて承諾の息を飲み込んだ。



「祈りを捧げてくるわ。」



それだけを短絡的に告げた後で、ラゼットは毎日の日課をこなしに部屋を出る。途中、アキームにもすれ違ったが、ラゼットは無言でアキームのそばを通り抜けただけだった。

リゲイドの口から突き放されるような否定の言葉を吐かれたのはつい昨日のこと。



『お前には同情している。夫婦としての役目なら果たしてやってもいい。だが、俺がお前を愛することはない。』



どうして触れてくれないのかというラゼットの質問に対して、リゲイドは深く冷たい海の底のような色をした瞳でそう答えた。

愛することはない。

それなのに果たさなければならない夫婦の役目などあるのだろうか。



「……あるんでしょうね。」



ラゼットとリゲイドは最強の盾と最強の矛。

それ以前にオルギス王国とギルフレア帝国の友好の証。世継ぎとなる子供を産んで初めてそれは形となり、民の信頼を得られるものなのだろう。



「お母さまもこんな気持ちだったのかしら。」



決して夫婦仲がよかったとは言えない両親を思い出し、ラゼットは一人、寂しそうな声でつぶやく。



『俺には俺の望むものがある。』



たしかにリゲイドはそう言っていた。



『お前がどれほど祈り続けても叶えられない俺の願いだ。』



祈りが万能ではないことをラゼットは知っている。望んだことがすべて叶うほど、世界は甘くできていない。いつだって残酷で、人の努力や願いなど意図も容易くなかったことにされる方が多い。

それでも、誰かの、何かの力になりたいと思ってきた。

傲慢にも盾の力があれば、常人よりかはその力になれると思っていた。



「リゲイド様の願いはなに?」



昨晩から一人で何度も何度も問いかけてみたが、答えなどもらえるはずもない。

静まり返った寝室で一晩中寝ずに待ってみたが、結局リゲイドは帰ってこず、ラゼットは徹夜でその思いを巡らせていた。そして気づいた。自分は何も知らないということを。

仮初の夫婦だと思われるのも無理はない。

ラゼットはリゲイドの、リゲイドはラゼットの肩書に縛り付けられた表面の顔しか知らないのだから。



「……おばあさま。」



こんなとき、いつも優しく包み込んでくれた大好きな祖母はもういない。

城の一番高い場所に設けられた祈りの塔へと続く階段をのぼりながら、ラゼットは十五年前に命を奪われた祖母の言葉を思い返していた。



『いいかい、ラゼット。』



記憶の中の祖母は、まだ小さなラゼットと目線を合わせるようにしゃがみこむ。



『祈りは自分のためにあるものではないの。』



深い紫色の瞳は、まるで宝石のように綺麗だった。



『誰かのため、何かのため。自分がもてる全てを与えたいと思う気持ちが大事なのよ。』



そう言って手に握らされたのは、楕円形をした滑らかな白色の石。それは代々、盾としての役割をもつオルギスの姫に継承されてきた祈りの魔石。



『愛する人を守るために、祈りを捧げるのが私たちに授かった力。』


『愛する人?』


『そうよ。思う心、願う心、信じる心が祈りに希望と勇気を与えてくれるわ。』



カツンカツンと軽い足音が円柱の壁に反響して、一定の音をラゼットに伝えてくる。

史上最強のオルギスの祈りと称賛された祖母の力。その重圧に耐えきれず、母はラゼットに冷たく当たるようになり、自らその命を絶ってしまった。

奪われた命と放棄された命。すべては盾としての役割が起こした悲劇にも関わらず、ラゼットの父は未知なる生物からの襲撃ばかりを恐れて、祈りの強化を最優先事項とあげてしまった。

託された宿命の重さを投げ出したくなる時はある。



『その代わり、よく覚えておいで。』



ざらざらとした石壁に手を添えながらのぼる螺旋階段が、ラゼットの記憶に静かな警告の言葉を呼び起こしてくる。



『祈りは心。迷いや、弱さは祈りの効果をなくしてしまうもの。心には強さが必要だよ。』



三半規管を狂わせてくる円柱の塔を上りきるころには、祖母の幻影もラゼットの前から消えていた。



「私は、愛がよくわからない。」



塔の先端から吹き下ろしてくる風が、ラゼットの髪をはためかせる。

曇っているとはいえ、眼下には相変わらず美しい光景が広がっていた。底の深い渓谷の内側には森が広がり、川が流れ、オルギスの祈りに守られて栄える見慣れた王国がそこにはある。対して谷の外側。

荒れ果てた荒野がどこまでも続き、むき出しの大地に黒くすさんだ空気が充満している。



「・・・テゲルホルム連邦」



祖母の命を奪ったばかりか、何百年と続く戦相手は今日もめげずにオルギスに向かって攻撃を続けていた。

時折、紫色に歪む空気の膜を見ることができるのは、その場所が攻撃を受けている証。祈りで膜の補充をし続けていないと、いつ、どこが破られてくるとも知れない。

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