第19話 触れるほど遠い距離

ギルフレア帝国から婿に来たリゲイド王子と婚姻関係を結んでから七十八日と三時間。まるで、あの花弁の降り注いだ一日が遠い過去のようにラゼットの感覚を狂わせていた。



「お疲れ様です、ラゼット様。」


「フラン?」


「本日は攻撃も落ち着いておりますし、午前の祈りはそれほどまででよろしいでしょう。」


「あ、ええ。そうね。」



天気は比較的穏やかで、フランの言うように今日はテゲルホルムからの攻撃も少ない。

午前中の祈りは何の障害もなく、特に祈り続けなければいけない理由もない。それでもラゼットは祈りをやめるのを少しためらっていた。



「ラゼット様?」


「ごめんなさい。なんだかボーっとしてて。」



ラゼットは誤魔化すようにフランの手を取る。

本当は、あまり深く考えないようにしてここ二か月の間、人知れず悩んでいることがラゼットにはあった。

だけどそれは誰にも言えない。知られたくない。



「お顔の色がすぐれませんが?」


「そう、かしら?」


「まさか。」



そこで繋がった手をギュッと握りしめてきたフランに、ラゼットは顔をあげる。

いったい何を思い当たったのか、少し険しい顔をしたフランがじっとラゼットを見下ろしていた。



「なに?」



怪訝そうに見つめてくるフランを少し見上げたまま、ラゼットはその思いつきが口にされるのを待つ。

これはフランの悪い癖だが、頭の中で考えを整理してから喋るのか、なかなか答えてもらえないままラゼットは同じ体制で次の言葉を待つ羽目になっていた。待っている方としては何が飛び出してくるのかとドキドキと身構えるしかないので、本当に心臓に悪いと思う。



「フラン?」



ラゼットがそろそろしびれを切らしかけたころ、フランはポツリと不愉快そうな顔でつぶやいた。



「ご懐妊、ですか?」


「え?」



一瞬、何を言われたのだろうかとラゼットはその意味を認識するまでに少し時間がかかっていた。

時間にしてほんの数秒。けれど、フランはラゼットよりも忍耐力があったらしい。

じっと見下ろしてくる目が、ラゼットの瞳孔までも見定めようと威圧感を増してくる。



「なっ何言ってるのよ。そんなことあるわけないじゃない。」



問われた意味の内容に気づいたラゼットは、顔から火が出るんじゃないかと思うほど真っ赤になってうつむいた。



「まだ、リゲイド様とはきちんと、その…っ…そういうことはしていないもの。」



本当に消えてしまいたい。

最後の方は息のように空気に溶けてしまいそうな声でラゼットはフランの手を振り払う。「リゲイド様は一緒に寝てはくださるけど、私の手すらお触れにならないわ。」フランから振り払った手を握りしめながらラゼットは胸の中でつぶやいた。

「ラゼット様」と近づいてくるフランの気配に、ラゼットは慌てて笑顔を取り繕う。



「もっもういいじゃない。お腹すいちゃった。」



うまく誤魔化せたとは思わなかったが、フランはそれ以上何も追求しては来なかった。

そうして朝の祈りの時間が終わり、塔を始終無言で降りた後、ラゼットはフランに誘導されるように昼食の席へと腰かける。



「ねぇ、フラン。」



黙々と給仕をこなしていくフランが、食器に始まり、次々と準備を施していくのを横目にラゼットはぎこちない様子で声をかけた。



「いかがなさいましたか?」



ふわりとにこやかな笑みを浮かべるフランは、第三者から見てもわかるほどに上機嫌なことこの上ない。

もともと優雅で余念がないその所作には、女だけではなく男ですら目を奪われるほど素晴らしいと称賛されてきたが、今ではまるで魔法使いのようにフランは給仕をこなしている。

どこで機嫌が最高潮に達したのか、その理由はいまいちよくわからない。

ラゼットは自分が胸の内に秘めている悩みを少し吐露したものの、いつも通りにしか振舞わないフランに少し苛立ちを感じていた。



「リゲイド様の前でその顔は見せていらっしゃらないようですね。」


「え?」


「いえ、なんでもありません。」



ニコリ。こういう時のフランはあまり好きではない。

でもその言葉の意味を問い詰めたところで勝てる要素がひとつもないことはわかっている。

悔しいけれど、ラゼットは一人敗北を認めて、フランに本来聞きたかった質問をすることにした。



「あの、毎日毎日同じ質問で申し訳ないんだけど。」


「リゲイド様でしたら、またこりずに町へいっておられますよ。」


「そ、そう。どこへ行っているとか、いつ帰ってくるとかは?」


「さあ、ラゼット様がご存じないものをわたしは存じ上げませんね。」



ヒクヒクと口元がひくつくのも無理はない。あの夜、リゲイドを裏口から援助したことが悔やまれる。

バッサリと切り捨てられたフランの言葉に、ラゼットの質問は口にする前からなかったことにされてしまった。

これで通算、七十五回目。

リゲイドが街に何をしに行っているのかはわからないが、一緒に食事をとれた記憶は両手で事足りるほどに少なかった。



「今日も記録更新ね。」



困ったように笑うラゼットに、フランの笑みがわずかに曇る。



「別にいいではありませんか。」


「え?」


「ラゼット様は、リゲイド様がいない時の方がたくさん食べてくださるので、わたしとしては健康管理も含めて、今のような状態が安心しますよ。」



本音でいて、元気づけるために少し大げさな表現をしたフランに、今度はラゼットの顔が曇りをみせた。



「でも、私は……。」



出来ることであれば、朝も昼も夜も仲睦まじくありたいと思う。

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